****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

花嫁の成熟への思い

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雅歌は、花婿なるキリストと花嫁なる教会のかかわりを学ぶ最高のテキストです。

20. 花嫁の成熟への思い

【聖書箇所】 7章10〜13節

ベレーシート

  • 花嫁は花婿の愛に支えられて、その愛が成熟度を増していきます。雅歌7章10~13節にはそれを見ることができます。

画像の説明

  • A―①の段階では、花婿が花嫁にとっての楽しみであり、花嫁は自分の視点からでしか捉えていません。しかしA-②では、自分がが花婿に属していることに気づきます。B-①は、A-②と同じ言葉を使いながらも、順序が逆転しています。つまり、花婿が中心で、自分はその次なのだと自覚します。最後のB-②では、完全に、花嫁は花婿のものであり、花婿の関心の的であることを知るのです。AとBのフレーズの違いは花嫁の成熟度が変化していることを示しています。その視点から11~13節を見てみたいと思います。

1. 花嫁の誘い(11節)

【新改訳改訂第3版】雅歌 7章11節
さあ、私の愛する方よ。野に出て行って、
ヘンナ樹の花の中で夜を過ごしましょう。

  • 原文には「さあ」という言葉はなく、「来てください」(「レハー」לְכָה)とあります。新共同訳はそのように訳しています。その呼びかけの目的は、花婿と親密な時を過ごすためです。「夜を過ごす」と訳されていますが、原文は「私たちは泊まりましょう」となっています。「泊まる」は「リーン」(לִין)で「(夜を)過ごす、泊まる、宿る、とどまる、住む、憩う、眠りに就く」といった意味ですが、それは主との深いかかわりを表わす重要な動詞です。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」(詩篇91:1)の「宿る」が「リーン」です。
  • 「ヘンナ樹の花の中で」とあります。「ヘンナ樹」の単数形は「コーフェル」(כֹּפֶר)で、その複数形は「ケファーリーム」(כְּפָרִים)、新共同訳は「コフェルの花房」と訳しています。その花は甘い香りがするようです。その香りのもとで過ごすのですから、親密な交わりを象徴していると言えます。それを求めて花嫁は花婿を誘い出しているのです。また、この葉からオレンジ色の染料が造れるようです。
  • ちなみに、この「ヘンナ樹」は雅歌では3回(1:14/4:13/7:11)使われています。この「コーフェル」(כֹּפֶר)は他にも「やに、樹脂」(創世記6:14)、「身代金、贖い金」(詩篇49:8)という意味もあります。前者はノアの箱舟に水が入らないようにやにが塗られた木で舟が造られましたし、後者では「たましいの贖いしろは、高価である」という意味で使われています。いずれも贖いの概念をもっています。花嫁である教会は花婿の尊い血によって贖い出された存在です(Ⅰペテロ1:19)から、「ヘンナ樹の花の中で」(「ヘンナ樹によって」とも訳せます)過ごすというのは、預言的と言えます。

2. 成熟度を見てもらおうとする花嫁(12節)

【新改訳改訂第3版】雅歌 7章12節
私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見て、そこで私の愛をあなたにささげましょう。

  • 花婿と花嫁が親しい交わりを過ごした朝早くに、花嫁は自分の「ぶどう畑」に行き、そこにあるぶどうの木が芽を出し、花が咲いているか、また、ざくろの花が咲いたかどうかを一緒に見ましょうと、花婿を誘い出そうとしています。ここで注目しなければならないのは、「私たち」という人称です。「私たちは・・見ましょう(未完了)」というのがこの文の主語と述語です。
  • イェシュアは「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15:5)と言われました。花嫁が花婿にとどまっているならば、花婿のいのちの実を結ぶのです。そのことで御父の栄光が現わされます。ですから、当然、結実に向かってどの程度成長しているか、花嫁は花婿に見てほしいのです。
  • 「芽を出す」(「パールハー」פָּרְחָה)、「花が咲く(開く)」(「パータハ」פָּתַּח)、「花を咲かせた」(原文は使役形、「ナーツァツ」נָצַצ)は、みな、成長・成熟の概念で、結実に向かうプロセスを含んでいます。

3. 花婿のために蓄えた選び抜かれた果実(13節)

  • 13節も花嫁の成熟さを示すものに言及しています。

【新改訳改訂第3版】雅歌 7章13節
恋なすびは、かおりを放ち、私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、すべて、最上の物があります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。

  • 「恋なすび」が成熟するのは小麦を刈り入れた夏の初めの頃です(イスラエルでは夏と冬の二季しかありません)。ですから「恋なすびは、かおりを放ち」となっています。「恋なすび」は成熟の象徴です(あるいは、潜在能力の象徴と言う人もいます)。
  • 「私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、すべて、最上の物があります。」とあります。ここでも人称は「私たち」です。親しい交わりの場の門(戸口)には、選び抜かれた最上の果物が置かれていたようです。そこには新しいものもあれば、古いものもあります。それは花婿のために花嫁が蓄えたものです。花婿のためにとは、花婿のヴィジョンを実現するために、必要なものとして少しずつ蓄えてきたものです。これは何を意味しているのでしょうか。
  • イェシュアが弟子たちに「天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ13:52)と語られました。御国の弟子はみな御国についての学者なのです。学者は多くの引き出しを持っていて、自分で見つけた知識をその引き出しから出して結び合わせ、適材適所で用いることができる人です。神のご計画の全貌と深くかかわる「御国の福音」はそのようにして語られるのです。イェシュアがそうでしたし、使徒パウロも花嫁なる教会に対して「御国の福音」を余すところなく語ることのできた人でした。そして花嫁を育てたのです。終わりの時代には、教会はそのような成熟した花嫁として整えられる必要があります。そのためには、花婿なる方への献身を新たにしなければなりません。

2015.9.11


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