****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

良い知らせを伝えた四人のツァラアトたち

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列王記の目次

29. 良い知らせを伝えた四人のツァラアトたち

【聖書箇所】 6章24節~7章20節

はじめに

  • 以下の7章9節は、私が献身に導かれた時のみことばの中の一つです。

【新改訳改訂第3版】Ⅱ列王 7章9 節
彼らは話し合って言った。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」

  • 主と出会って、主の愛とその祝福を経験した私は、これを自分だけのものとすることは良くない。「さあ、行って、良い知らせを伝えよう。」という思いを与えられたのです。しかしこのみことばを自分の召命(献身)のみことばという視点からひとたび切り離して、より大きな視点から、あるいはヘブル的視点から見直して瞑想してみたいと思います。
  • 今回の聖書箇所(6:24~7:20)から、特に、目が止まったのは「四人のツァラァト」ということばです。なぜ一人ではなく、「四人」だったのかということです。聖書の物語のすべては、決して偶然的にものはなく、必然的な意図をもって啓示されていると信じます。すべての出来事(奇蹟的な物語)はそれ自体だけで完結するものではなく、ほかの部分と何らかのつながりをもっています。それゆえひとつの物語の中にご計画における重要な秘密が隠されていることを念頭に置きつつ、その意味するところのを聖霊様に開いて下さるよう、祈り求めつつ瞑想する必要があると思います。

1. 未曾有の飢饉に襲われたサマリヤ

  • 6:23においては、アラムの略第隊が殺されずに、むしろイスラエルの盛大なもてなしを受けたことによって、「二度とイスラエルの地に侵入してなかった」とあるにもかかわらず、この後、「アラムの王ベン・ハダテは全軍を招集し、サマリヤに上って来て、これを包囲した。」とあります。そのころサマリヤは「ひどいききん」に襲われており、さらにアラムによるサマリヤ包囲が加わって、未曾有の深刻な事態に襲われました。その深刻さは、親が子どもを食べるという悲惨状況によって知ることが出来ます。
  • この絶望的で悲惨な深刻な状況は、すでに申命記において予告(預言)されていました。

【新改訳改訂第3版】
申 28:15
もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。

申 28:53
あなたは、包囲と、敵がもたらす窮乏とのために、あなたの身から生まれた者、あなたの神、【主】が与えてくださった息子や娘の肉を食べるようになる。

  • サマリヤが置かれた深刻な状況は、神に対するイスラエル自らの罪によってもたらされたものでした。しかしイスラエルの王はその原因を預言者のエリシャが自分の務めを十分に果たさなかった責任だとして、責任を転嫁しています。
  • 神の人エリシャは、自分のもとに来た王とその侍従に対して主のことばを語ります。「あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになる。」(7:1)と。これは食糧があり余ることを述べています。その主のことばに対して、王の侍従は「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」と不信仰なことばを吐きます。そんな彼に対してエリシャは「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」と裁きのことばを告げます。事実、エリシャの語った預言はそのとおりに実現したのです(7:16/7:17)。
  • ここで重要なことは、預言者エリシャの語ったことばはそのように成就しますが、その成就の仕方に実は神の秘密が隠されているのです。

2. 良い知らせをもたらした「四人のツァラアトたち」

  • 不思議な神のわざがなされます。「四人のツァラアトたち」が夕暮れになってアラムの陣営を行くと、だれもいません。それは主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、アラムの陣営にあった持ち物をすべて置き去りにして逃げ去ったからでした。
  • 当初、「四人のツァラアトたち」はそれらの持ち物を持ち出して隠そうとしましたが、彼らは話し合って、「私たちのしていることは正しくない。今日は、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう」としたのです。
  • 結果として、彼ら四人の者が良い知らせを告げたことによって、サマリヤは救いを得ることができたのですが、問題はこの出来事が記されている意図です。重要なことは、この出来事が意味する啓示です。なぜ一人ではなく、また二人でもなく、四人のツァラアトであったのかということです。「四」というその数字の中に神の秘密が隠されているように思います。
  • ツァラアトは当時、汚れた者として町の外(宿営の外)に出なければなりませんでした。町の中には住むことができなかったのです。そうした町から追い出され、疎外されていた者たちによってサマリヤに住む者たちが救われたということは何を意味しているのでしょうか。
  • 新約聖書の中にそのヒントを示す出来事があります。それは使徒ペテロがヨッバで見た幻です(使徒10章11~16節)。その幻とは、天が開けて、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りてきました。その中には「きよくない生き物がいました」。ですから、主が「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」と言われた時、ペテロは「主よ。それはできません」と言ったのです。そんなやりとりが三度繰り返されました。
  • 使徒ペテロに対する主の導きはユダヤ人たちが「きよくない者」としている異邦人とかかわり、主の福音を告げ知らせることでした。列王記の四人のツァラアトは、四隅をつるされた敷布の中にあるけがれた生き物を象徴しています。それは異邦人の象徴です。
  • これはイスラエルの回復に関連する啓示です。神の律法ではユダヤ人が外国の人の仲間に入ったり、訪問したりすることは禁じられていました。ところが、神は使徒ペテロに「神がきよめた物をきよくないと言ってはならない」と教えました。このことをユダヤ人は正しく悟ることができませんでした。
  • 預言者エリシャは飢饉に瀕するサマリヤに、明日、食糧があり余るようになるということを預言しました。しかしそれがどのような方法でなされるのかは知らされていませんでした。その方法とは、人間が全く予測し得ない方法でなされたのです。
  • 神のご計画と導きは常にそうです。神の方法はいつも人間の想定外の方法でみことばを成就させます。イスラエルの回復の預言も思いがけない方法で実現されるのです。四人のツァラアトたちはユダヤ人から見るならば、汚れた異邦人を意味します。しかし、サマリヤが彼らによって助けられ、回復したように、神は異邦人を通してイスラエルの回復という道筋を敷いておられるのです。
  • 異邦人のクリスチャンは、自分たちの信仰のルーツであるユダヤ人に対して、イェシュアこそ真のメシアであることを告げ知らせる責任があるのです。しかしそれは上から目線ではなく、ユダヤ人の友人となることです。イェシュアをメシアと信じたユダヤ人の多くは、異邦人の友人から福音を聞いたために信じたということです。ユダヤ人と良い関係を築いていくことが求められているのです。

2012.11.6


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