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義人は信仰によって生きる⑥ヨシュア

第20日 「信仰によって勝利を得たヨシュア」 

信仰によって生きた模範者たち⑥ョシュア

はじめに

  • へブル人への手紙の講解説教、11章では信仰によって称賛された人々を取り上げてきました。今日はそのシリーズの最後です。これまで、

    ①いつも良いものを与えてくださる神に対して、自分も与えられたものの中から最高のものを神にささげたことによって称賛されたアベル。
    ②自分の息子が生まれてから、自ら、自発的に神とともに歩んだエノク。
    ③神の約束を信じ続けてその生涯を生き抜いたアブラハム。
    ④この世の富や栄光を捨てて、神の民とともに生きることを選取ったモーセ。
    ⑤命懸けで神の側についた遊女ラハブ

    ―を学んできました。今朝にさらにひとりを付け加えたいと思います。そのテキストをまず読んでみましょう。11章30節です。
    「信仰によって、人々が七日の間 エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。」

1. 称賛されるべき信仰の勇士の名前が・・?

(1) なぜ名前がないのか

  • 何かかおかしいではありませんが、称賛されるべき人物の名前がありません。しかし、ここで記述されている出来事―エリコの町を勝ち取った出来事ーを見るならば、だれでも、この戦いに先頭に立って戦った勇士がだれであるかを知っているのです。つまりここに記されている「人々」を率いた人物こそ「ヨシュア」であることが分かります。ではいったい、なぜ、ここでこの手紙を書いた作者が「ヨシュア」の名前を記さなかったのかということです。ここが実は重要なところなのです。
  • エリコの町、しかも城壁で守られた最も堅固な町です。その町がカナンにおける最初の戦いの地でした。ヨシュアはこの町を攻め取って最初の戦いに勝利を収めたのです。ヨシュアは信仰によって戦いに勝利をもたらしたがゆえに、称賛されるべき人物です。しかも、それに続いて挙げられている人物のリストーギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル・・・・預言者たちーはすべて同じく信仰によって勝利をおさめた者たちばかりです。それなのに、なぜ彼の名前がないのでしょう。
  • 彼はホセア(「救い」という意味と呼ばれていました。後に、モーセによって「ヨシュア」(「主は救い」)という意味に改名されます。新約聖書ではギリシヤ語で「イエースース」と呼ばれています。

(2) ヨシュア=イエス

  • 実は、真のヨシュア、すなわち、イエスがこの後に登場するからです。ユダヤ人たちにとっては、ヨシュアもイエスも同じ発音だったのです。おそらく誤解を与えないために、作者はあえて名前を入れなかったのかもしれません。もう一つの理由を考えることができます。
  • それはヨシュアがエリコの戦いを前にして、ギルガルというところで宿営していたときのことです。ある不思議な出来事を経験しました。

    ヨシュア記5章13~15節

    13 さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」
    14 すると彼は言った。「いや、わたしは【主】の軍の将として、今、来たのだ。」 そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
    15 すると、【主】の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

  • この箇所から読みとるべき大切なポイントは二つあります。
    ①戦いの将はヨシュアではなく、主の軍の将であること。戦いは主の戦いであるという認識。
    ②ヨシュアの置かれている場は「聖なる場」であることーつまり、この世の常識的なものは通じない、神の聖なる世界にお前はいるということを自覚させることでした。
  • 「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」これと同じことを言われた人物がおりました。それはヨシュアの上司だったモーセです。モーセがホレブ山に上ったとき、主の使いの声を聞きます。しかも燃えている柴の中からその主の御使いが語ったのです。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」と。これも同じことをモーセに認識させる経験でした。
  • ここで登場する主の使い=神とあります。それゆえ、それはやがて歴史の中に入って来られる神の御子イエスのことではないかと言われています。ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、ヨシュアの前に立ち、ヨシュアに語りかけた「【主】の軍の将」も同じく神の御子イエスではないかと言われています。こうした理由から、作者はあえてへブル11:30でヨシュアの名前を入れなかったのかもしれません。もう一つの理由を考えることができます。
  • さらにもう一つの理由をあげておくとすれば、この後にヨシュアにまさるヨシュア、すなわち真のヨシュアであるイエスのことを言おうとしているからです(ヘブル12:2「信仰の創始者であるイエス」)

2. 世にも不思議な奇抜な戦術―聖なる戦いによる勝利

  • さて、約束の地を得るための最初の戦いの地となるエリコの町のみならず、戦いの将がこの「抜き身の剣をもった」御子イエスであるならば、ヨシュアはその方にただ従うことを求められたのです。モーセにしても、ヨシュアにしても、等しく「聖なる地に立つ者」として、聖なる方が語りかけたままに、従わなければなりませんでした。事実、その「聖」は戦いの方法において示されました。
  • 具体的にどのように戦うべきか、その戦いの方法を【主】の軍の将はヨシュアに告げます。それは実に世にも不思議な奇抜な攻撃の仕方です。ところが、その世にも不思議な奇抜な戦術にヨシュアとその民は従順に従ったのです。すると、なんと頑丈な城壁が崩れ落ちました。ここに、へブル人の作者が11章30節に記してしていることばが明確になってきます。もう一度そこを読んでおきましょう。  
    「信仰によって、人々が七日の間 エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。」
    画像の説明
  • もう少しこの奇抜な主の戦術をみてみましょう。
    画像の説明
  • ①エリコは、この地方における基点として、ヨシュアが最初の攻撃目標に定めた町である。そこは水と食糧が豊富な緑豊かな地であったようです。別名「なつめやしの町」と言われている。ヨシュアは、偵察のためにエリコに斥候を送る。遊女ラハブは、彼らを町の中にある自分の家にかくまった。その後、彼らは町を脱出し、ヨシュアにすべてを報告した。ラハブによって必要な情報をことができた。
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  • ②イスラエルの民は川を渡ってギルガルに宿営し、そこからエリコに向かう。6日の間、彼らは毎日その町の周囲を回った。行進の隊列は、武装した者たちが先頭に立ち、角笛を持つ7人の祭司、主の箱をかつぐ祭司、しんがりにまた武装した者がつく、という順である。角笛は途絶えることなく吹き鳴らされた。
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  • ③7日目に、イスラエルの民は、町の周囲を7度まわった。それから、角笛が長く吹き鳴らされる間、彼らはときの声をあげた。すると城壁がくずれ落ち、彼らは町を責め取った。斥候が約束したように、ラハブとその家族のいのちは助けられた。
  • これが世にも不思議な奇抜な戦術です。この戦術をそのまま、教会の敷地を取得するために、その敷地の回りを回ってということわしている教会もあるようです。主がそのようにしなさいと言われたならばそうすべきかもしれませんが、その戦術をそのまま真似て同じようなことが起こるとは思いません。
  • 大切なことは、戦いは主が戦ってくださるという事実と、その方に従順に従うということ、が原則です。たとえ、主の示したことがこの世の常識とかけ離れていたとしても、それに従うということです。・・これが「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」という意味なのです。この時代においては、はきものを脱ぐということは戦うことはではないことを意味します。
  • このことばはヨシュア個人に対して言われたものですが、神はイスラエルの民に対しても、それからの戦いが聖なるものであり、神に従うかどうか試されました。それはどうようにして!

3. ギルガル宿営の霊的意義

  • ヨシュアはイスラエルの民がヨルダン川を渡り終えて、カナンの地に入った後と「抜き身の剣を手に持った方」が自分に語りかける出来事の前に、神から言われたことがありました。それは三つのことです。これはイスラエルの民がカナンの地で神が与える地を征服していく上できわめて重要な事柄でした。

(1) ギルガルの宿営で行われた三つのこと

① 記念の石・・・神がヨルダン河をせき止めて、イスラエルの民がそこをわたることができたことを記念するために12の石をギルガルに立てました。それはかつて紅海を渡った時と同様に神のなせる奇蹟でした。その記念の石は、すべての民が、主の御手が力強いことを知り、主を恐れるための教育的な記念碑でした。
② 割 礼・・・イスラエルの民であることの自覚させるためのしるしです。神との約束の
しるしとしての割礼を施した。なぜ、これから戦いを控えているのに。そして傷が治るまでギルガルにとどまりました。⇒これは敵に対して無防備となる状況です。
過 越・・・エジプトにおける神のみわざを思い起すこと。荒野での40年間、一度もされてこなかった過越の祭りをすることで、過去における神の恵みを思い起しました。この時からイスラエルの人々の食べ物はマナではなく、カナンの地の産物となりました。

  • これら三つのものを見ると、すべて過去にかかわるものです。これから新しい生活、新たな戦い、新しい道を歩もうとしているのに、神は過去の出来事に目を向けさせようとしていまいす。いわば「後ろ向き」の姿勢です。無防備な姿勢です。しかしこれがこれから進んでいく上で必要な姿勢だったのです。

(2) 「ギルガル」の意味

  • 「ギルガル」という地名は、「ガラール」(石を転がす、ゆだねる)という動詞から派生した固有名詞です。「あなたの道を主にゆだねよ。・・・主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5) ここにも「ゆだねる」ということばが出てきます。「あなたの道」、つまり、あなたのこれからの行く末を、石をころがすように、それはどの方向に転がって行くかわからないとしても、主にゆだねなさい。という意味です。あるいはあなたが抱えている問題や重荷を自分でなんとかしようとしないで、主に全くゆだねなさい、という意味です。
  • ギルガルという場所で割礼を彼らは受けましたが、もとその時、敵が戦いをしかけてきたとしたら、戦うことはできない状況です。でも彼らはそれを実施しました。つまり彼らが、主にこれからのすべてを「ゆだねた」からです。これが神の民としての生き方なのでするそのしるしとしての割礼だったのです。今日のことばでいうならば、割礼を受けることは、洗礼を受けることに匹敵します。父、子、聖霊の名によって洗礼を受けるということは、主に自分の人生
    を転がすように、任せいてくということを意味します。神とか信仰は自分のアクセサリーではないのです。

(3) ギルガルは戦いの本丸(本陣営)

  • ギルガル宿営の第三のことは、
    ①ギルガルという場所は戦いのたびごとに帰って行く場所でした。戦いの本丸、本陣営でした。「ギルガル」はやがて約束の地カナンを占領して、各部族に配分されるその時まで、常に、戦いの本丸であったということです。
    ②ひとつひとつの戦いが終わるたびに、常に、民はギルガルに戻りました。これが、勝利をもたらした秘訣だったのです。
  • これらのことは私たちになにを語りかけているでしょうか。
    過去において神がすでになしてくださった事実―十字架と復活の出来事―を感謝しているでしょうか。その意味をどれだけ深く受け止めているでしょうか。また、私たちが神の子どもとして、本当に、神にゆだねるということを学んでいるでしょうか。いつもそこにとどまっているでしょうか。今朝も、主は私たちに問いかけておられます。

おわりに

  • 11:39
    「これらの人々はみな、その信仰によって称賛されましたが、神が約束されたものを受けませんでした。40 神は、さらに良い計画を、私たちのために、あらかじめ立てておられます。私たちといっしょでなければ、彼らが全うされることはないからです。」(フランシスコ会訳)


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