****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

罪過のためのいけにえ(賠償の献げ物)

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レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

5. 罪過のためのいけにえ(賠償の献げ物)

ベレーシート

  • 「罪過のためのいけにえ」について取り上げる聖書の箇所は、5章14節~6章7節までです。これはヘブル語聖書の原文どおりですが、新共同訳聖書はギリシア語訳、ラテン語訳にしたがって、5章を1~26節までとしています。
  • 「罪過のためのいけにえ」を新共同訳は「賠償の献げ物」と訳し、口語訳は「愆祭(けんさい)」と訳しています。「愆」とは「咎(とが)」「過失」の意味が含まれています。今日の感覚からすると、公共料金を期限内に支払わなかった場合、たとえ支払をうっかり忘れていた場合でも、あるいは意図的に支払わなかった場合でも、支払わなかった期間に応じて延滞金が課せられてしまう制度と似ています。「罪過のためのいけにえ」とは、主にささげるべきものをささげなかったことに対する懲罰的な(強制的な)いけにえです。つまり、支払うべきものに加えてその20%の延滞金(相当分)が課せられるというものです。20%というのはかなり厳しいものです。そのようにして神は罪の重さを自覚させようとされたのだと考えられます。

1. 「罪過のためのいけにえ」の諸規定

  • 聖書には、この「罪過」について次のように三つに区分しています。

(1) 主の聖なるものに対してあやまって罪を犯した時(5:14~16)
(2) 主の禁止命令をあやまって破り、知らないでいて罪に定められた時(5:17~19)
(3) 隣人の所有するものをだまし取って罪に定められた時(6:1~7)

  • 「罪過のためのいけにえ」の規定には、神にささげなかった聖なるものと共に「それに五分の一を加えて、祭司にそれを渡さなければならない」とあるように、罪を償うということに特徴があります。主の聖なるものに対してだけでなく、隣人の所有物をだまし取った場合でも、元の物を償い、さらにこれに五分の一を加えて返さなければならないのです。
  • 毎週の礼拝ごとにささげる席上献金と教会の経済を支えていくための月定献金を教会員の責任としてささげる形を取っている教会の場合、もし月定献金をささげることを忘れた場合、その20%分を加えた形で献金しなければならないとしたら大変です。しかしそのようなペナルティが「主の聖なるものに対して罪を犯した時」に相当します。実際、そのようにしている教会があるのを聞いたことはありませんが。
  • 人から不正にだまし取った場合も同様です。イェシュアはエリコという町に住む取税人の一人、ザアカイのところに「泊まるため」に来られたという話があります(ルカ19:1~10)。ザアカイはイェシュアを大喜びで自分の家に迎え入れました。このことでザアカイの人生に大変革が起こります。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」とザアカイは立ち上がってイェシュアに言ったという話です。ここで注目したい点は、「私がだまし取った物は、四倍にして返します。」という部分です。ここに「罪過のためのいけにえ」の精神があります。なにゆえに「四倍」なのでしょうか。
  • かつてダビデはウリヤの妻バテ・シェバを得るために姦淫の罪を犯しました。その罪に対するさばきダビデに告げるために、預言者ナタンが主から遣わされました。ナタンは「ある町に住む二人の人の話」をしました(Ⅱサムエル12章)。ひとりは富んでいる人、もうひとりは貧しい人でした。ある時、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。富んだ人は旅人をもてなすのに自分のところから羊や牛を取って調理することを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、旅人のために調理してもてなしたのです。その話を聞いたダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やして言います。「そんなことをした男は死刑だ。」そして「その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」(同、12:6)と。特に、ここでの「雌の子羊」はヘブル語の「カヴサー」(כַּבְשָׂה)で「高価な所有物、貴重品」という意味があります。ちなみに、「雄羊、雄やぎ」の場合は「セ」(שֶׁה)と表記されます。
  • 出エジプト記22章1節(=21章37節)には、羊を盗んだ場合の罪の償いは、羊1頭につき羊4頭、つまり「四倍」にして償わなければならないとあります。「四倍にして償う」という話はダビデがモーセの律法を知っていたことを意味します。ダビデの場合、その「四倍」をどのようにして償ったのかは分かりませんが、取税人ザアカイも「だまし取った物は、四倍にして返します」と言っているのを見ると、彼もイスラエルの律法を知ってそれに従ったことが分かります。
  • 「四」という数はヘブル語で「アルヴァ」(אַרְבַע)で、出エジプト記22章1節は羊一頭につき「羊四頭」(「アルヴァ・ツォーン」אַרְבַּע צֹאן)で償うとあります。しかし、Ⅱサムエル12章10節の場合は「アルバタイム」(אַרְבַּעְתַּיִם)と表記されています。つまり、それは必ずしも同じ「雌羊」で償うというのではなく、その四倍の代価をもって償うという意味です。それにしても、盗みの罪の償いは予想外に大きいと言えます。

2. 「罪過のためのいけにえ」の精神

  • イェシュアは次のように語られました。

    【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書 10章10節
    盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

(1) 償ってくださる神

  • 聖書の神は「償い」の神です。悔い改めた民に対する神の祝福は、「大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう」というものです。「償う」と訳された原語は「シャーラム」(שָׁלַם)です。ここではピエル態で「回復する、完成する、報いる、償う、(誓いを)果たす」の意味です。「シャーラム」は「シャーローム」と同じ語源であり、完全な状態への復帰を意味しています。神の回復には永遠性も獲得されます。「わたしがあなたがたに償う」とはなんという恩寵でしょう。神による完全なる復興です。その背景にあるものは神の民に対する神の愛です。
  • そのような愛を神はイェシュアを通して現わされました。つまり、「罪過のためのいけにえ」の身代わりとしてイェシュアの十字架の贖いの死があり、それによって私たちは完全に償われているのです。

(2) 償なわれたことに対する感謝のわざとしての宣教の務め

  • 使徒パウロは「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」(ローマ1:14)と述べています。このことばは、パウロの宣教の務めが主に対する負債感から来ていることを表わしています。

【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント9章16~17節
16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。17 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。

  • なぜ「福音を宣べ伝える」ことが、パウロにとってどうしてもしなければならないことなのでしょうか。おそらくそれは以下のような理由からです。

【新改訳改訂第3版】Ⅰテモテ1章13~16節
13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです
14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

(3) 償いの精神

以下は、使徒パウロが「獄中で生んだオネシモ」がその主人であるピレモンに与えた損害の賠償を申し出ている箇所です。

【新改訳改訂第3版】ピレモンへの手紙10~18節
10 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。
11 彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。
12 そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。
13 私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、
14 あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。
15 彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。
16 もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。
17 ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。
18もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。

  • これはまさに「罪過のためのいけにえ」の精神であり、パウロは主の模範にならってそのことをしているのです。


2016.4.12


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