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紫水晶

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1. 大祭司の胸当てに埋め込まれている12の宝石

(9) 「紫水晶」ー「 ベニヤミン部族」

画像の説明

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ベレーシート

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  • 新改訳のみならず、口語訳、新共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳など、多くの聖書で訳語が統一している珍しい宝石である「紫水晶、アフラーマー」(אַהְלָמָה)。他の「紫」に関する語彙の「アルガーマーン」(אַרְגָמָן)、「テフェーレット」(תְּכֵלֶת)とも全く語源的な共通項がありません。しかし、「紫」(英語のバイオレット)の色はモーセの幕屋の中では垂れ幕の刺繍の糸として、また大祭司の胸当てのエポデに、金、青、緋色と共に使われている色であり、その「紫」色はキリストの王権の象徴です。
  • 「紫」は身分の高い、あるいは金持ちが着る高価な布の色でした。ローマの兵士たちは捕えられたイエスをむちで打ち、いばらの冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せて「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言って嘲笑しました。他の箇所では、ヨーロッパで最初にイエスを信じてバプテスマを受けたルデヤの出身はテアテラで紫布の商人でした。

1. 「ベニヤミン」の語源は「右手の子」という意味

  • ラケルはヤコブの最愛の妻です。だれの目にも美しく愛らしい女性であったようです。しかしその結婚生活は必ずしも幸せとは言えなかったようです。それは夫のヤコブにもう一人の妻(自分の姉レア)がいたからです。夫のヤコブはラケルを愛し、優しかったようですが、当時においての妻としての実力という点では、明らかに姉のレアの方が勝っていました。レアは多くの子(男子)を産んでいたからです。ラケルはその意味で立場は苦しかったのです。
  • レアが6人の息子と1人の娘を産んだあとに、ラケルははじめて息子のヨセフを産んでいます。ヤコブにとっては11番目の子どもでした。ヨセフという名前は母ラケルが付けた名前です。その名前は「主がもうひとりの子を加えてくださるように」という意味で、願いを込めてつけられた名前です。ラケルの祈りは聞かれて、もうひとりの息子(ヤコブにとっては最後の息子となる)が生まれるのです。
  • ところが、その頃、ヤコブはシェケム(שְׁכֶם)を旅立ち、ベテル(בֵּיִת־אֵל)に行き、さらにエフラタ(אֶפְרָתָה)―後のベツレヘム(בֵּית לֶחֶם)を通って父イサクのいるヘブロン(חֶבְרוֹן)へと南(右手)の彷徨に向かって進みました。シェケベテルを旅立ってからラケルの出産がありました。ひどい難産のために男の子を出産した後、ラケルは死にます。ラケルはこの子の名前を「ベン・オニ」(בֵּן-אוֹנִי)と名づけました。「私の苦しみの子」、あるいは「私の悲しみの子」という意味です。
  • 祈りが聞かれて与えられた子が母の肌のぬくもりも顔も知ることなく生きて行かなければならないことを思ったとき、それだけでもラケルは胸が締めつけられる悲しみを覚えたに違いありません。それゆえラケルはその子を「ベン・オニ」(悲しみの子)と名付けたことのなかにラケルの気持ちのすべてが表されています。るのです。ところがヤコブは、縁起でもないと思ったのか、その子の名前を「ベニヤミン」(「右手の子」という意味)と改名してしまったという経緯があります。
  • 「右腕」ということばが、自分にとって最も信頼する存在を意味するように、「右」とは最も信頼する位置と立場にいる者を指し示す言葉です。神の御子イェシュアは、死から復活した後、天の父なる神の右に着座されました。その方がやがてこの地上に王として支配されるのです

    ●エペソ書 1章20節
    神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

    ●ヘブル書 1章3節
    御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

    ●Ⅰペテロ書3章22節
    キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。


2. 「ベニヤミン」の精神

(1) 右手は「救いの力と支配の象徴」
出エジプトの奇蹟を目の当たりに見たモーセとイスラエルの民たちは、「主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。」(出15:6)と勝利の歌を歌ったように、主の右の手は「救いの力と支配の象徴」です。

(2) 右手は「信頼の象徴」
主を信頼する者は、その者の右に主がおられることを意味します。それゆえ、彼の生涯はゆるぐことがないのです。だれを自分の人生の味方とするかはきわめて重大な問題です。ダビデは「【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」と告白しています(詩篇16:8)。

(3) 右手は「栄誉の象徴」
右手の座は栄誉の座です。千年王国の終りに「最後の審判」があります。そのときメシアは、羊たち(善なる者)を自分の右に置き、彼の国に受け入れられます。しかし、山羊たち(のろわれた者たち)は彼の左に置かれ、永遠の火の中に投げ入れられます(マタイ25:33~41)。

2014.5.15


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