****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

種を入れないパンの祭りの意味

3. 種を入れないパンの祭りの意味

ハグ・ハンマッツォート

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ベレーシート

  • 主の例祭には、神の不変のご計画(マスタープラン)が啓示されています。 今回はその第三回目、「種を入れないパンの祭り」を取り上げます。口語訳、新共同訳は「除酵祭」と訳しています。「種の入らないパン」とか「種入れぬパン」の祭りという訳語もあります。英語では the Feast of Unleavened Bread と訳されています。

【新改訳改訂第3版】レビ記23章5~8節
5 第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを【主】にささげる。
6 この月の十五日は、【主】の、種を入れないパンの祭りである。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない。
7 最初の日は、あなたがたの聖なる会合とし、どんな労働の仕事もしてはならない。
8 七日間、火によるささげ物を【主】にささげる。七日目は聖なる会合である。あなたがたは、どんな労働の仕事もしてはならない。


【新改訳改訂第3版】出エジプト記13章3~8節
3 モーセは民に言った。「奴隷の家であるエジプトから出て来たこの日を覚えていなさい。【主】が力強い御手で、あなたがたを
そこから連れ出されたからである。種を入れたパンを食べてはならない。
4 アビブの月のこの日にあなたがたは出発する。
5 【主】があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたカナン人、ヘテ人、エモリ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地に、あなたを連れて行かれるとき、次の儀式をこの月に守りなさい。
6 七日間、あなたは種を入れないパンを食べなければならない。七日目は【主】への祭りである。
7 種を入れないパンを七日間、食べなければならない。あなたのところに種を入れたパンがあってはならない。あなたの領土のどこにおいても、あなたのところにパン種があってはならない。
8 その日、あなたは息子に説明して、『これは、私がエジプトから出て来たとき、【主】が私にしてくださったことのためなのだ』と言いなさい。

  • レビ記の23章5節には「第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを【主】にささげる。」ということが記されています。この最初の月の十四日の夕方から始まる例祭のことを「ペサハ」(פֶּסַח)と言い、前回学びました。その祭りと連動して、翌日から「種の入らないパンの祭り」(ハグ・ハンマッツォート、חַג הַמַצּוֹת)を七日間することが命じられています。「過越の祭り」は一日だけですが、それに続く「種の入らないパンの祭り」は七日間続き、「種の入らないパン」を食べなければなりません。しかも、七日間の最初と終わりには聖なる会合を開き、一切の仕事が禁じられます。その間に安息日が必ず入りますから、その時にも一切の仕事はできません。また、「種を入れないパンの祭り」では、七日間を通して、毎日、全焼のいけにえと穀物のいけにえ、そして罪のためのいけにえを規定に従ってささげなければなりませんでした。この時期の穀物のささげものといえば大麦です。おそらく「種の入らないパン」の材料は小麦ではなく、大麦によるものであったろうと思われます。
  • 「過越の祭り」と「種の入らないパンの祭り」はワンセットになっており、「五旬節」の祭りと秋の仮庵の祭りと並ぶ主の三大例祭の一つです。年に三度、これらの祭りには壮年の男子は必ず集まらなければならず、もし集まらなければイスラエルの民から切り離されるという定めでした。それほどに神の民によっては重要な祭りであったのです。「祭り」というと、私たち日本人は「ハレ」の面を思い描きますが、とりわけ、「過越」と「種の入らないパンの祭り」の8日間は、いわば神の民にとって、厳粛な聖会、聖別の集会がもたれた期間であったのです。

1. 「種の入らないパン」とは

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  • ちなみに、その期間に食べるパンを「マッツァー」(מַצָּה)と言います。「マッツァー」は単数形、「マッツォート」(מַצּוֹת)は複数形です。右の写真は現代の市販されている「マッツァー」(מַצָּה)ですが、イースト菌(酵母)が入っていないため、クラッカーのように見えます。実際、主の例祭で食した「マッツァー」は右下図のようなものであったろうと思い
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    ます。今日のクラッカーは、程よく塩が塗(まぶ)してあって、それだけでも十分美味しく食べられますが、塩気のない本当の「マッツァー」はとても美味しいとは言えないようです。また、写真を見ると分かるように、細かい小さな穴がたくさんあります。それは気泡が入って膨らんでしまわないように、あたかもイースト菌が入っていると思われないためのようです。いつも美味しいパンを食べている人にとってはパンとは言えない代物です。
  • なぜ、イスラエルの民たちは「パン種」の入らないパンを食べなければならないのでしょうか。それは、聖書においては、「パン種」は常に「罪の象徴」だからです。ヘブル語で「パン種」のことを「ホーメツ」(חֹמֶץ)と言いますが、その語彙には「酸っぱい」「苦い」という意味があります。私たちを「酸っぱく」し、「苦い」者としてしまうのが罪の性質です。逆に、「マッツァー」、すなわち「種の入らないパン」は「酸味のない甘いパン」という意味になり、罪のない生活の喜びや健全さを象徴しているのです。つまり、過越の祭りを通して、イスラエルの民が神によってエジプトから贖い出されたのは、傷もなく汚れもない小羊の血によったのであるということを確認した後に、罪から離れて神の民としてふさわしく生きるための方向づけとして、七日間にわたる「種の入らないパンの祭り」が制定されたということです。「パン種」はわずかの量でもパン全体に大きな影響を与えます。「七日間」というのは、「完全に」という意味が込められています。

2. 「種の入らないパン」を食べるという預言的な意味

  • 「種の入らないパン」を食べるということは、神のご計画(マスタープラン)において、二つの預言的な意味があります。一つは、メシアであるイェシュアの生涯が全き罪なき生涯であったということ。もう一つは、主に召された者たちが、あらゆる思いと行いにおいて、聖なる方にならってふさわしく生きるようになるということです。この二つについて考えてみたいと思います。

(1) 小羊なるキリストの生涯が、罪なき完全な生涯であったという事実を思い起こすこと

  • 第一の月の十四日の過越の祭りにおいても「種を入れないパン」が食されましたが、翌日(十五日)から七日間にもわたって「パン種」の入らない「マッツァー」を食べなければなりません。その命令が意味するのは、家々の二本の門柱とかもいに塗られた血が傷のない羊のものであったからです。つまり、過越に使われた羊が傷のない完全な小羊であったように、やがて神から遣わされる神の子メシアの生涯も完全に罪のない方であることを預言的に啓示するものでした。
  • 罪なきキリストの事実について確認するために、当教会では、毎週木曜日、ヘブル人への手紙を「突っ込み聖研」として学んでいますので、その手紙の中に記されていることを見たいと思います。この手紙の主旨は、なぜイェシュアが永遠の大祭司となられたのかということを扱っています。その根拠は以下のとおりです。

① 御子は、罪のきよめを成し遂げられた。(1:3) 「罪のきよめ」とは一切の罪の記録を消し去ることを意味します。
② 御子は、罪のなだめがなされるために、すべての点で兄弟たちと同じようにならなければならなかった。(2:17)
③ 御子は、罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みに会われた。(4:15)
④ 大祭司の務めとは、人々と自分のために、罪のためのささげ物といけにえとをささげること。(5:1,3)
⑤ 大祭司キリストは、ほかの大祭司たちとは違い、毎日いけにえをささげる必要はない。(7:27)
⑥ キリストはただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために来られた。(9:26)
⑦ キリストが一つの永遠のいけにえをささげられたので、罪のためのささげ物はもはや無用となった。(10:12,18)
⑧「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」との神の約束が実現した。(10:17)

  • 罪なきキリストの事実―完全な永遠に有効な罪のためのいけにえはすでにイェシュアによって実現しています。しかし、いまだその主に召された私たちが主の召しにふさわしい者とはなっていない現実があります。

(2) 主に召された者たちが、あらゆる思いと行いにおいて、聖なる方にならってふさわしく生きることを目指す

  • 使徒ペテロはその手紙第一の中で、「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとなりなさい。」(1:15)と述べています。また使徒パウロもコリント人への手紙第一の5章の中で、「6・・あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭り()をしようではありませんか。」(Ⅰコリント5:6~8) ()ここでの「祭り」とは礼拝のことです。
  • 先ほどと同様に、ヘブル人への手紙の中から、罪なきキリストの事実を見ましたが、ここでは罪に対する私たちへの勧めを見たいと思います。

① 日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。(3:13)
② もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。(10:26)
③ モーセは、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取った。(11:25)
④ こういうわけで、このように多くの証人たち(旧約の信仰の模範者たち)が、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。(12:1)


3. 実生活において「パン種を取り除く」=聖別された歩み

  • 旧約の神の民たちが、年に一度、共に集まって、七日間「種の入らないパン」を食べたように、今日の私たちも「まつわりつく罪」(すぐに絡みついてくる罪)を捨て去って、私たちの前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けることが求められています。
  • 詩篇15篇1節と詩篇24篇3節に、以下のようなフレーズ(太文字)があります。

詩篇15篇1~5節 ダビデの賛歌

1 【主】よ。
だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。
だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
2 正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。
3 その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない。4 神に捨てられた人を、その目はさげすみ、【主】を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。5 金を貸しても利息を取らず罪を犯さない人にそむいてわいろを取らない。このように行う人は、決してゆるがされない。

詩篇24篇3~6節 ダビデの賛歌

3 だれが、【主】の山に登りえようか。
だれが、その聖なる所に立ちえようか。
4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。
5 その人は【主】から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。
6 これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。 セラ

  • 詩篇15篇と詩篇24篇は言葉が異なっていますが、内容的にはほぼ同じことが語られています。特に、詩篇15篇は、詩篇14篇の「神のサーチ」と関連しています。「サーチ」(search)とは、何かを見つけようと、丹念に、注意深く、徹底的に、くまなく捜すことを意味します。「主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。」-これが神のサーチです。ところが、「彼らはみな、離れて行き、だれもかれもが腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない」(詩篇14:2~3)というのが神のサーチの結論でした。人間に対するこの神の結論(評価)に対して、もし自分にはこれは当てはまらないと考えるならば、15篇1節の「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」という誠実な問いは出てこないように思えます。

  • とりわけ、詩篇15篇は、「神と人」、「人と人」との両者の密接な関係についてのあるべき姿を提示しています。ある人は「神に対する信仰は、人間関係の中で吟味されて、真実なるもの、純粋なものになる」と述べています。神との関係、人との関係・・これは車の両輪で、どちらかがないがしろにされてもまっすぐに進むことはできないということです。神との親しい関係を築こうとする礼拝者は、隣人との関わりと密接な関係にあります。 
  • 1節の「だれが」という問いかけに対する答えは「正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人(口語訳では、心から真実を語る者)」です。LB訳では「非の打ちどころのない生活を送る、誠実そのものの人」とあります。そしてそのあとに、人との関係におけるチェックリストが8項目並んでいます。すべてに○印がつけられるならば、その人は「決してゆるがされない人」だというのがこの詩篇の結論です。どれだけこのチェックリストに○印をつけられるでしょうか。LB訳で挙げてみると・・・

    ① 口が裂けても人を中傷しない。 
    ② うわさ話に耳を貸さない。 
    ③ 決して隣人を傷つけない。
    ④ 大胆に罪を告発し、それを明るみに出す。 
    ⑤ 主に忠実な者をほめる。 
    ⑥ たとい危害を受けても約束は破らない。 
    ⑦ 高い利息で負債者を窮地に追い込むようなことをしない。
    ⑧ 賄賂を受け取って無実の人に不利な証言をまちがってもしない。

  • もし上記の8項目に記された生き方ができるなら、なんと幸いかと思います。特に、「損になっても、立てた誓いは変えない」(4節)というような生き方をしてみたいものです。多くの人たちからの信頼を得ることは間違いなしです。そんな自分の思いと現実にはギャップがあります。自分を欺かずにこれらの項目をひとつひとつ吟味してみるなら、とても○印をつけることはできません。印のつかないところがひとつでもあるなら、礼拝者としては失格だというのが律法の基準です。そして私も「義を行なう者はいない。ひとりもいない。」の部類に間違いなく入る者であることを認めざるを得ません。   
  • 神のご計画においては、メシアが再臨される前に携挙があります。そのとき私たちは「朽ちないからだ」が与えられて、神の律法に従った生き方をすることが完全に可能となります。それがエレミヤやイェシュアのいう「新しい契約」です。しかしそれまでは、ヘブル書が言うように、「まとわりつく罪を捨て去る」という戦いが求められます。そして、その戦いの力もすでに恵みとして与えられています。ですから、イスラエルの民たちが「祭り」という形で、定期的に自己点検をうながされたように、私たちもそのようにすべきです。ある教団・教派では、罪からの聖別を目的としたきよめの集会、神の恵みを求める聖会が持たれています。そうした聖会の利点は、個人のレヴェルではどうしても甘くなってしまう罪をより深く取り扱ってくれるという恵みの機会となることです。そうした機会に恵まれなくとも、自ら、キリストの花嫁として聖められ、整えられるために、毎日、毎日、あるいは定期的に「種なしパンの祭り」をする必要があるのです。以下に取り上げるのは、そのための一つの提案です。

4. 罪の鎖から解き放たれるために

  • 現代の女性預言者と言われるM・バジレア・シュリンクという方がおられます。彼女の著作に、「変えられたいあなたに」と題する本が出版されています(マリヤ福音姉妹会出版、改訂版1988年)。そうした本を援用しながら、私たちのうちに巣くっているパン種を見つけ、そのパン種の鎖から解き放たれる経験を積み上げていくことができます。その本には45の個々の罪が(あいうえお順に)取り上げられています。ここでは、その項目だけを紹介したいと思います。実際の取り組み方としては、これらの個々の罪についてひとつひとつじっくりと黙想していくことが必要です。すでに私たちはキリストの花嫁となることが決められているのです。私たちは花婿のことを思いながら、「パン種」を取り除いていくという整えが求められているのです。あくまでも、神のヴィジョンを共有することが、聖書のいう「愛」なのです。

(1) あてにならない・無責任
(2) あわれみの心の欠如
(3) 怒り
(4) 嘘・虚偽・隠しごと
(5) うぬぼれ・虚栄心
(6) エゴイズム・自己中心
(7) おしゃべり
(8) 思い煩い
(9) 感謝の念の欠如
(10) 我意・わがまま
(11) 偽善
(12) 権力欲・支配力
(13) 迎合・人への恐れ
(14) 口論・分裂
(15) この世への愛と隷属
(16) 嫉妬
(17) 自己憐憫
(18) 神経過敏
(19) 十字架、苦しみを避けようとする思い
(20) 詮索
(21) 尊敬の念の欠如
(22) 高ぶり・傲慢
(23) 多忙

(24) 短気
(25) 中傷・人に対する悪口
(26) 独善・自己正当化
(27) 貪欲・むさぼり
(28) 情け知らず・愛の欠如
(29) 軟弱・怠惰・安逸な心・無気力
(30) 肉欲
(31) ねたみ
(32) 反抗
(33) 卑怯
(34) 人の関心をひき、認められたいという願い
(35) 批判・さばき
(36) ひやかし・あざけり
(37) 不信
(38) 不従順
(39) 不和・苦々しい思い
(40) 不信仰・落胆
(41) ぼんやり・空想
(42) 抑圧・憂うつ
(43) 利己主義・けち
(44) 立腹・いらだち
(45) 無頓着・なまぬるさ

  • 最後に、「種の入らないパン」を「マッツァー」(מַצָּה)を食べるなら、私たちの心は必ずや「強く」(「アーマツ」אָמַץ)されるのです。「マッツァー」(מַצָּה) と「アーマツ」(אָמַץ)は近親語です。   

2015.1.25


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