****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

私は、黒いけれども美しい

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雅歌は、花婿なるキリストと花嫁なる教会のかかわりを学ぶ最高のテキストです。

3. 私は、黒いけれども美しい

【聖書箇所】 1章5〜7節

ベレーシート

【新改訳改訂第3版】雅歌1章5節
エルサレムの娘たち。(1)
私はケダルの天幕のように、ソロモンの幕のように、(2)
黒いけれども美しい。(3)


●原文では(3)⇒(1)⇒(2) の順になっています。

  • 原文は、花嫁が「私は黒いが美しい」と「エルサレムの娘たち」に向かって語ることから始まっています。なぜ、花嫁は「エルサレムの娘たち」に向かって、「私は黒いが美しい」と言わなければならなかったのでしょか。そもそも「エルサレムの娘たち」とはいったい誰のことなのでしょうか。花嫁と「エルサレムの娘たち」との関係はどのような関係であったのでしょうか。
  • 雅歌は話の展開があるわけではなく、その場その場での自由な瞑想が置かれているように思えます。

1. 「エルサレムの娘たち」とはだれのことか

  • 「エルサレムの娘たち」
    (「べノーット・イェルーシャーライム」בְּנוֹת יְרוּשָׁלַיִם)というフレーズは、詩歌、あるいは預言書に多く出て来るフレーズと思いきや、何と雅歌にしか使われていないフレーズです。しかも、7回使われています(1:5/2:7/3:5, 10/5:8, 16/8:4)。「エルサレム」(イェルーシャーライム)の本当の意味は、神の平和という意味ではなくて、神のヴィジョンが完成されるところという意味です。そのために神によって選ばれたイスラエルの民をここでは「エルサレムの娘たち」と呼んでいるのだと解釈します。なぜ「娘たち」なのかと言えば、固有名詞の「エルサレム」が女性名詞だからです。
  • 花嫁とは異なる「エルサレムの娘たち」と(1章3節に登場する)「おとめら」は同義ではありません。神のご計画のマスタープランにおいては、「花嫁」はメシアを信じるユダヤ人と異邦人の共同体です。「エルサレムの娘たち」とはいまだイェシュアをメシアと信じていないイスラエルの民。「おとめら」は、やがてメシアの再臨時にメシアを信じる異邦の諸国の民たちのことだと解釈します。つまり、この三者は、神のヴィジョン(御国)の完成のために選ばれ、メシアがこの地上に再臨する時にひとつとなり、御国の民となる者たちなのではないかと考えます

2. 花嫁の「私は黒いけれども美しい」というアイデンティティ

  • 花嫁はこの「エルサレムの娘たち」から批判され、軽蔑されるような存在、あるいは妬みの対象となりえる存在と考えるならば、それはやがて啓示される「キリストの花嫁」(教会)のことが示唆されていると考えてもおかしくありません。なぜなら、使徒パウロはイスラエルがかたくなになった理由について以下のように述べているからです。

    【新改訳改訂第3版】ローマ書11章11~12節
    11では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
    12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。

  • 「エルサレムの娘たち」から批判され、軽蔑されているのは花嫁が「黒い」ということです。しかもその黒さが「ケダルの天幕」にたとえられています。おそらく、「ケダルの天幕」が黒い山羊の皮で作られたのたのでしょう。しかし、花嫁はそうした軽蔑に対してくじけることなく、「私は黒い。けれども美しい(麗しい)」というアイデンティティを持っているのです。それは自分がそう勝手に思っているのではなく、花婿から繰り返し「誰にもましてあなたは美しい」と語られているからです。そのことばが花嫁を支えているのです。このことはとても重要です。
  • 「美しい」と訳された原語は「ナーヴァー」(נָאוָה)という形容詞で、「麗しい、美しい、愛らしい」という意味で10回使われています。雅歌にはそのうちの4回(1:5/2:14/4:3/6:4)が使われています。

    【新改訳改訂第3版】
    2:14 岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい
    4:3 あなたのくちびるは紅の糸。あなたの口は愛らしい。あなたの頬は、顔おおいのうしろにあって、ざくろの片割れのようだ。
    6:4 わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。

  • 6節では、花嫁が「エルサレムの娘たち」に自分が黒くなった理由を述べています。

    【新改訳改訂第3版】雅歌1章6節
    私の母の子らが私に向かっていきりたち、私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした。

  • 「私の母の子らが私に向かっていきりたち、私をぶどう畑の見張りに立てたのです」とはどういうことでしょうか。まずは「私の母の子ら」とはだれのことでしょうか。「エルサレムの娘たち」、すなわち、自分の兄弟たちのことです。本来なら、その彼らが「ぶどう畑の見張り」の仕事をするはずでしたが、花嫁に対する妬みのゆえに腹を立て、その仕事を代わりにさせたと言えます。ここでの「ぶどう畑の見張り」とは、神のご計画の実現を見張る仕事を意味しているのかもしれません。そんな「ぶどう畑の見張り」の仕事をさせられたので、日に焼けて黒くなってしまったというのです。その「黒さ」は、苦しみ、試練のシンボルと言えるかもしれません。しかしそれは花嫁に与えられた神の賜物であり、花嫁の美しさでもあるのです。

3. 自分を支えてくれる花婿を「探そうとする」花嫁

【新改訳改訂第3版】雅歌 1章7節
私の愛している人。どうか教えてください。どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。あなたの仲間の群れのかたわらで、私はなぜ、顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。

  • 私の愛している人」というフレーズは5回ありますが、すべて雅歌にあります。原語では「シェアーハヴァー・ナフシー」(שֶׁאָהֲבָה נַפְשִׁי)で、直訳すると「私の魂が愛しているところの人」となります。新共同訳は「わたしの恋い慕う人」と訳しています。「魂」を意味する「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)は、本来「喉」を意味する語で、そこからあらゆる欲望の座として用いられ、渇きや所有を伴う熱愛を意味します。したがって、「私の魂の熱愛する人」とも訳せます。以下、このフレーズを持つ雅歌からの引用です。

【新改訳改訂第3版】
(1) 1章7節
私の愛している人。どうか教えてください。どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。あなたの仲間の群れのかたわらで、私はなぜ、顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。
(2) 3章1節
私は、夜、床についても、私の愛している人を捜していました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。
(3) 3章2節
「さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、私の愛している人を捜して来よう。」私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。
(4) 3章3節
町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。「私の愛している人を、あなたがたはお見かけになりませんでしたか。」
(5) 3章4節
彼らのところを通り過ぎると間もなく、私の愛している人を私は見つけました。この方をしっかりつかまえて、放さず、とうとう、私の母の家に、私をみごもった人の奥の間に、お連れしました。

  • ここには、「あなたは美しい」と言ってくれる花婿を探して、やがて見つけるという花嫁の姿があります。花婿をどこまでも探そうとするのは花嫁の大切な霊性です。「探し求めて」、そして「見つける」ということは、雅歌における重要なテーマです。
  • 使徒パウロもこの花嫁の霊性(ブライダル・パラダイム)を持った人です。ですから、彼は多くの奥義を啓示されたのです。そのパウロが次のように述べています。

【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント 13章12節

、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。



2015.8.7


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