****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

私は、乏しいことがありません。

瞑想(2) 「私は乏しいことがない」(1b)

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  • 主はまさに良い羊飼いであってくださるので、「私は乏しいことがない。」(新改訳)、「わたしには欠けるところがない。」(関根訳)と告白することができます。
  • I shall not want.
    Therefore can I lack nothing-PBV
    I shall never be in need-Hav
    I lack nothing-Jerusalem
    I will not be without any good thing
    I have everything I need-Tay
  • 「乏しくなる、不足する」を意味する動詞「ハーサル」(חָסַר)が、ここでは明確に否定されています。旧約の人々の現実の生存の保障は、目に見えるところでは絶えず動揺していました。事実彼らは荒野の経験を通して、乏しさを知り尽くしていた民です。しかしそれがあふれるほどの豊かさに変わっているのはなぜか。「私は乏しいことがない」との告白には、歴史の中における乏しさと苦しみの中で、神の恵みによって鍛え上げられた澄んだ喜びが感じられます。
  • モーセが40年にわたる荒野の生活を振り返って次のように告白しています。

事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」(申命記2:7)


あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜わった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。」(申命記8:7~10)

  • ネヘミヤも荒野の40年を振り返って同じく、「四十年の間、あなたは彼らを荒野で養われたので、彼らは何も不足することなく、彼らの着物もすり切れず、足もはれませんでした。」(9:21)と告白しています。
  • 詩34篇9~10節には「主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」と告白されています。
  • 新約では使徒パウロがより積極的な表現で、「満ち足りている」と告白しています。彼は「わたしはどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリピ4:11)と述べ、愛弟子のテモテにも「満ち足りる心を伴う敬虔(信仰のこと)こそ大きな利益を受ける道です」(Ⅰテモテ6:6)と教えています。ここに信仰の奥義があります。「満ち足りる心」をもたらす主体は羊ではなく、羊飼いにあります。
  • 「足るを知ること」が貪欲に対する解毒剤です。イェシュアは「どんな貪欲にも注意をして、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」と警告されました(ルカ12:15)。貪欲(むさぼり)の根源は不満です。必要以上のものを欲しがることです。その渇望力は霊的な力を損ない、もう一つの神、すなわち偶像になってしまうほどです。
  • 貪欲は偶像礼拝にほかなりません(コロサイ3:5、エペソ5:5)。不満でいっぱいの心はその人自身を滅ぼすだけでなく、神との関係をも打ち壊します。また他の人との関係をも損ねます。初代のキリスト教の共同体は貪欲に対して強い嫌悪感を持っていました。貪欲は性的な不道徳と同様に、人々を神の国への道から踏み外させてしまうというのがパウロの確信でした(コリント第一、6:10)。


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