私たちは・・・、あなたがたも・・・
No.5 私たちは・・・、あなたがたも・・・
ベレーシート
- 1節で「キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロ」と自己紹介したパウロは、その自己紹介の意味についての説明をしています。それが2~6節までです。その箇所では「神の福音」とは何かということを簡潔に述べます。「神の福音」とは、神が自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめおい約束されたものであり、言い換えるなら、「御子に関するもの」だとしています。つまり、御子は神が前から預言していたことの成就者であるということです。このことはイェシュアが旧約の完成者であることを強調するマタイの福音書と同様です。そのマタイの福音書がイェシュアの公生涯のスタートのメッセージを、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(4:17)と記しています。
- 「天の御国が近づいた」とは「すでに到着した」という意味です。「すでに到着した」とはどういうことでしょうか。御子イェシュアは「天の御国」がいかなる国であるかを、たとえ話を用いた教えや奇蹟的なみわざや、さらにさまざまな背景的出来事やご自身の行為の一つひとつを通して啓示(デモンストレーション)して行きます。その全貌こそ、「主の定め」(神のご計画)にある「御国の福音」と言われるものであり、そこには十字架の死と復活の出来事も含まれます。「神の福音」「御国の福音」の中心は御子にあります。その御子については、すでに以下のように預言されていました。
【新改訳2017】詩篇2篇6~7節
6 「わたしがわたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山シオンに。」
7 「私は【主】の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ。
- 詩篇2篇にある人称をまず正しく理解することが、神のご計画を知る上で重要です。6節にある三つの「わたし」は、すべて「御父」のことです。7節の【主】は「御父」のことであり、「私」は「御子」のことです。二重かぎ括弧の「あなた」は「御子」のことであり、「わたし」は「御父」のことです。ややこやしい(この表現は北海道弁らしい)箇所ですが、とても重要な箇所です。特に7節の「わたしは【主】の定めについて語ろう」という部分です。【主】の定めとは、神のご計画にあるところの「御国の福音」のことです。
- 「わたしがきょうあなたを生んだ」とは、御父の「定め」における「今日」という特別な日に、御子が死者の中から復活することを意味しています。この死者の中から復活した御子こそ、御国の「王」なのです。つまり、「天の御国」(「マルフート・ハッシャーマイム」מַלְכוּת הַשָׁמַיִם)とは、「御父が立てた王によって支配する国」なのです。しかもその「国」は、詩篇2篇に預言されているように、「わたしの聖なる山、シオン」においてです。つまり、エルサレム(「イェルーシャーライム」יְרוּשָׁלַיִם)を中心とする神の王国なのです。この「神の王国」のことを、「【主】に油注がれた者によって支配される王国」、すなわち、「メシア王国」とも言います。そこには、御父とその息(「聖なる霊」-「ルーアッハ・コーデッシュ」רוּחַ־קֹדֶשׁ)によって死人の中から復活させられた御子がおられるのです。つまり、御子のうちに、「御父」といのちの息である「御霊」が写し出されています。
- 王である御子イェシュアの支配する御国が地上のエルサレムを中心として実現します。「天の御国」がこの地上に「近づいた」(=到着した)のですが、選びの民であるイスラエルの不信仰によってその実現が引き伸ばされているのです。しかしそのことも神のご計画の中に含まれていたことを、パウロはローマ書の骨の部分と言われる9~11章で展開しています。実は、パウロはその部分からローマ書を書いているとも言えます。つまり、「野生のオリーブの木である異邦人が、栽培されたオリーブであるユダヤ人に接ぎ木されたという思想」です。この神のご計画の視点から、パウロは異邦人に福音を伝えようとしているのです。ユダヤ人の不信仰によって先延ばしされている「天の御国」は、御子の再臨によってこの地上に確実に実現するのです。ですから、私たちはその「天の御国の福音」が何であるかを正しく知る必要があるのです。そのために、神によって選び出され、使徒として召された人物こそパウロだったのです。ちなみに、使徒とは「神から全権を委任された使者」という意味です。
- パウロという人はこの「御国の福音」を正しく消化して(=イェシュアから投げられた剛速球のボールをナイス・キャッチして)、それを余すところなく(落ちこぼれることのないように)伝え、異邦人である私たちを、御子イェシュアに対する「信仰の従順」に導いて、死と罪の支配から贖われ、愛する御子の支配する御国に入ってその民となることができるということを教えてくれた人物なのです。パウロ以前の十二使徒たちは、「御国の福音」をイスラエルの人々に伝えることを使命としましたが、使徒パウロは「御国の福音」を異邦人に伝えるべく神に選び出されたのでした。もしパウロがいなかったとすれば、「御国の福音」を正しく理解できなかったかも知れません。ただし、パウロの福音の説明にはある種の「くどさ」があることをあらかじめ知っておく必要があります。
- 使徒パウロが「神の接ぎ木思想」によって、異邦人である人々に福音の中核となる「御子」について説明しようとしていますが、パウロは「御子」について二つの面から説明しています。
①肉によれば、ダビデの子孫から生まれた方であること。
②聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって神の子として公に示された方であること。
- ①の説明でつまずく人はおそらくいないと思いますが、②の方は多くの人がつまずきます。多くのユダヤ人たちがそうでしたし、科学的思考をもつ現代の人々もつまずきます。しかしこのつまずきを越えた所に神の福音があります。おそらく、イェシュアの言う「心の(原文は「霊の」)貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3)とあるように、あるいは、パウロの言う「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)とあるように、自分の内にある「死」を自覚した人以外には通じない話なのです。
- 復習もかねた長いベレーシートとなってしまいましたが、今回の聖書箇所を見てみましょう。
【新改訳2017】ローマ人への手紙 1章5~6節
5 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。
6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました──
1. 「私たちは・・、あなたがたも・・」という構文
- 5節にある「私たち」とはいったい誰のことを指しているのでしょうか。また、6節にある「あなたがたも」とは誰のことを指しているのでしょうか。おそらく後者の質問はだれでも答えることができると思います。それは「ローマにいる、イエス・キリストによって召された人々」のことです。しかし5節の「私たちは恵みと使徒の務めを受けました」にある「私たち」とは誰なのでしょう。使徒の務めを受けたのはパウロであることには違いありませんが、複数の「私たち」と表現しているのはどうしてでしょうか。
- 突っ込み聖研ですから、まずテキストに対して「突っ込み」をしたいと思います。どんな「突っ込み」でも重要です。そこからテキストの内容が明確にされていくことが多いからです。「なぜ」「どうして」という疑問を持つことは、子どもの特性です。イェシュアも弟子たちのことを「幼子たち」と表現しました(マタイ11:25)。なぜなら、弟子たちは天の御国の奥義を知ることが許された者たちだからです。つまり、イェシュアの傍らにいつもいて、イェシュアが語った話の真の意味を尋ねることができる位置にいたからです。詩篇8篇には、このような弟子たちのことを「幼子たち、乳飲み子たち」と預言的に表現し、彼らの「口を通してによってあなたは、御力を打ち立てられました。あなたに敵対する者に応えるため、復讐する敵を鎮めるために。」(8:2)とあります。イェシュアの弟子たちは、御国の福音についてデモンストレーションされたイェシュアの意図を最もよく知る立場にいたのです。12人の使徒たちはまさにこのために召されたのです。
- 歴史的なイェシュアとはともに歩くことのなかったパウロは、後に主によって付け足された使徒でした。しかしパウロも彼らと同様、主によって選び出され、主を直接的に尋ね求めることが許されている使徒でした(はからずも、パウロのヘブル名であるサウルは「神を尋ね求める」という意味の「シャーウール」שָׁאוּלでした)。つまり、使徒として召された12人の使徒とパウロ自身を含めた意味において、「私たちは」という表現を使ったのではないかと考えられます。ところが、良く考えて見ると、「私たち」の中にある十二使徒たちの多くはイスラエルの人々に対して神の福音を宣べ伝えた者たちであり、特別に「御名のためにすべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすために」召されたのはパウロだけでした。パウロはあらゆる異邦人の人々に対して召された神の選びの器なのです。その視点から考えてしまうと、ローマ書1章5節の「私たち」とはいったい誰のことなのかという疑問は振り出しに戻ってしまいます。
- 改革派の牧師であった榊原康夫師はローマ人への手紙の講解説教の中で、この「私たち」とは「著者の複数形」で、「パウロ」個人のことを指しているとしています。「著者の複数形」がどういうことかを知りたいものですが、それについて説明されていないので良く分かりませんが、ローマ書にある「私たち」という語彙は何と37回も使われています。
- 普通、私たちも、自分と自分に関係する者たちを含んでいる場合、ある種の仲間として一般的に「私たち」という表現を用います。そのことを考えるならば、ここでの「私たち」とは、「あなたがたも」と結びついて、「主に召された」ところの「私たち」であれば、共通項を持つことになります。なぜなら、使徒たちはみな主によって召し出された者たちであるからです。
- さらに突っ込むならば、パウロの言う「私たち」の中に、ユダヤ人である「私たち」という意味合いが含まれているかも知れません。なぜなら、ローマ書1章17節では「・・福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」とあるからです。つまりユダヤ人が先に記され、その後にギリシア人が記されています。これは本来、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みのない、神もない異邦人がユダヤ人に接ぎ木されたことによって、神の救いにあずかることができるという明確な意識があるからです。そのことが、「5 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました」という構文に、見事に当てはまっています。
2. 「恵みと使徒の務め」
- さらなる「突っ込み」どころは、「私たちは恵みと使徒の務めを受けた」の「恵み」と「使徒の務め」とのかかわりです。つまりこの二つの事柄は別の事柄なのか、それとも一つの事柄なのかという問いです。
- 「恵み」はギリシア語では「カリス」(χάρις)、ヘブル語では契約用語である「ヘセド」(חֶסֶד)、英語では「グレース」(grace)と表記されます。「使徒の務め」はギリシア語で「アポストレー」(ἀποστολή)で、本来ヘブル語にはない語彙ですが、ヘブル語に戻すと「シェリーフート」(שְׁלִיחוּת)という語彙が用いられます。このヘブル語を良く観察すると、語幹に「遣わす」という意味を持つ「シャーラハ」(שָׁלַח)があるのが分かります。英語では「アポストルシップ」(apostleship)。
- 私の見解としては、この二つの語彙は「二語一義」だと考えます。その理由は、以下の箇所にあります。
【新改訳2017】Ⅰコリント15章7~10節
7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
9 私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。
10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
- 9~10節にあるように、パウロは、自分が使徒と呼ばれるに価しない者と言いながらも、他のすべての使徒たちよりも多く働きました。それは、神の「恵み、・・恵み、・・恵みなのです」と「恵み」が強調されています。神の「恵み」と「使徒の務め」は二語にして、切り離すことのできない一つの意味を持っているのです。
3. 「召された者」としての務め
- パウロが神の恵みと使徒の務めを与えられたのは、明確な目的がありました。それは「御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすため」です。簡潔に記すなら、異邦人に「信仰による従順をもたらす、―従順に導く、―に至らせる」・・これが、パウロが神の恵みと使徒の務めを与えられた目的でした。
- 「信仰の従順」ということばを、これまで私はほとんど用いた経験がありません。しかし「信仰の従順」というフレーズの中には、信仰とともに、それに基づく行為が含まれているように思います。つまり、「聴従」という概念です。
- 「従順」と訳されたギリシア語は「ヒュパコエー」(ὑπακοή)で新約では15回使われています。パウロの特愛用語です。ローマ書では7回使われています(1:5, 5:19, 6:16,16, 15:18, 16:19,26)。これをへブル語にすると、「ミシュマアット」(מִשְׁמַעַת)で、その語幹は「シャーマ」(שָׁמַע)です。つまり、パウロの言う「信仰の従順」は、ヘブル語の「聴従」という概念をもっているということが分かります。つまり、信じて従うという意味です。ヘブル語の「シャーマ」には、神のことばを「信じる」ことと、「それに聞き従う」という意味が含まれています。このことは、ヘブル語の正確な意味をギリシア語に訳すと、二つの語彙が必要となるということです。
- 他の例では、ヘブル語の「ダーバール」(דָּבָר)がギリシア語の「ロゴス」(λόγος)か、あるいは「レーマ」(ῥήμα)の二つの言葉に訳されています。このような例は数多くあるのです。さらなる例としては、民数記12章3節に「モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和(「アーナーヴ」עָנָו)であった。」とあります。この箇所をバルバロ訳は「モーゼは実に柔和な人だった。この世に住んでいるだれよりも穏やかな人だった。」と訳しています。原語の「アーナーヴ」(עָנָו)が「柔和な」と「穏やか」という意味を合わせ持っている語彙だということが分かります。このようにヘブル語に戻してみる時、そこには一つの言葉では表し切れない概念が含まれているのです。
- 余談ですが、旧約聖書の続編の中に「シラの書」(集会の書)というのがあります。これは訳者が自分の祖父の書いたもの(ヘブル語)でギリシア語に翻訳したものなのですが、翻訳の難しさを序文として書き記しているのです。このような類の事柄が続編と言えども書き記されていることに驚きを覚えます。是非、自分で確かめてください。
- さて、異邦人が「信仰の従順」に至るために、パウロは神によって召されたことを強調しています。
① 1節「キリスト・イエスのしもべ、使徒として召されたパウロ」
② 6節「あなたがたも、召されてイエス・キリストのものとなりました。」
③ 7節「ローマにいるすべての・・召された聖徒たちへ。」
- 「召された」は形容詞の「カレートス」(κλητός)ですが、この語彙は「名を呼ぶ、呼び出す、召す、召し出す」という意味の動詞「カレオー」(καλέω)がもとにあります。ただし、その召しには、内的な意味合いと外的な意味合いとがあります。イェシュアがマタイの福音書22章14節で次のように述べています。
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」(新改訳2017)
- ここでの「招かれる人」とは「呼びかけられる者」で、「選ばれる人」とは「その呼びかけに従う者」のことです。使徒パウロの「召された」という言葉の意味合いは、後者の意味で使われていると思われます。
2017.1.26
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