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祭司的預言者としてのエレミヤ

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17. 祭司的預言者としてのエレミヤ

【聖書箇所】 14章1節~22節

ベレーシート

  • エレミヤ書14章には、神と一心同体である預言者としてのエレミヤと神の民と一心同体となっている祭司としてのエレミヤの姿があります。前者は、神のことばを神から預かり神に代わって民に語る預言者としての立場であり、性格的には糾弾と叱責のことばが多いという特徴があります。しかし後者は、民と一体化して民のために悲しみ、あるいは民に代わって罪を告白して神にとりなす立場です。14章は前者よりも後者の立場の色彩が濃い章となっています。まさに、預言者にして祭司という立場をもたれた神の御子イエス・キリストの姿と重なります。

 1. 恐ろしい日照り 

  • 1節「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫び声をあげる。」とあります。おそらく、これはエリキヤムの時代に襲った激しい飢饉によって苦痛の叫びが起こったのです。旧約においては、飢饉は単なる自然災害ではなく、歴とした神のさばきの意味合いがあります。
  • レビ記26章20節、申命記11章17節、28章22節には、もし神の民が神のことばに聞き従うことがないなら、その不従順の結果の一つとして飢饉があることを予告しています。もし、予告通りのことが起こらないとするならば神のことばは真実ではないということになります。神は真実な方なので、その予告通り、すさまじい飢饉がユダ、およびエルサレムの住民を襲ったのです。この飢饉によって苦痛の叫びがあがりました。その悲惨さを目の当たりにした預言者エレミヤは民のために食い下がるようにして、神にとりなしているのです。
  • 神の側では、すでに神の民に対する取り扱いは決定しています。ですから、エレミヤに「この民のために幸いを祈ってはならない。断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。(何をしても)受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らをことごとく絶ち滅ぼす」と言っています(14:11)。

 2. 偽りの預言者たちと祭司たちの存在 

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書14章14~15節

14 【主】は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。
15 それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣やききんがこの国に起こらない』と言っているこの預言者たちについて、【主】はこう仰せられる。『剣とききんによって、その預言者たちは滅びうせる。』
16 彼らの預言を聞いた民も、ききんと剣によってエルサレムの道ばたに投げ出され、彼らを葬る者もいなくなる。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上にわざわいを注ぎかける。

  • 偽りの預言者のメッセージは、いいことづくめ、色よいことばばかりです。なにも心配することはない。剣も来ないし、飢饉も来ない。来るのは平安だけというメッセージです。しかもそれを主の御名によって語っている、そして民たちもそれを信じているという事に対して神は怒り心頭、「この民のために幸いを祈ってはならない」(14:11)とエレミヤに命じています。
  • 神は、偽りの預言者だけでなく、彼らのことばに耳を傾けた民たちも同じくわざわいを注ぎかけるとしています。イエスも「にせ預言者たちに気をつけなさい」(マタイ7:15)言われましたが、「にせ預言者」は世の終わり続く重要なテーマです。なぜ「にせ預言者」がいつの時代でも起こってくるのでしょうか。その理由は二つ考えられます。

第一の理由は、人々が偽預言者を求めているからです。真の預言者の語る厳しい警告の言葉よりも、自分にとって都合の良いことを(心地よいことを)言ってくれる人を求めているからです。たとえば、人から悪く言われたり、批評された場合、それが本当のことであってもはだはだ気分を悪くし、素直に心に受け入れようとしないものです。反対に、人からほめられたりでもすると、それはお世辞だと知っていても心は思わずはずむのです。その意味では、人の心は真実よりも偽り(虚偽)を愛していると言えます。

第二の理由は、自分を偉く見せたい人間が、神の名を使って、人が喜びそうなことを語ることによって、自分を大きく偉い者としたいからです。彼らが語る言葉は神が命じたことではなく、 口から出まかせに、まやかし事を語っているにすぎないのです。

  • では、どのようにして「にせ預言者」を見分けることが出来るのでしょうか。本物の預言者と偽預言者の見分け方のポイントはどこにあるのでしょうか。

第一のポイントは、預言した言葉が実現するかどうかです。神の名によって預言するかどうかではなく、その預言した言葉が実現するかどうかで判断するのです。預言したとおりにならなければ、それは嘘であり、神が遣わした本当の預言者ではないのです。

第二のポイントは、人々に神の前に正しく生きるよう警告するかどうかです。

  • エレミヤ書28章には、エレミヤと偽預言者ハナヌヤが登場します。いずれそこでもこの問題が取り上げられます。

3. イスラエルの「望み」

画像の説明

  • 14章8節では、主を「イスラエルの望み」と表現(告白)しています。
    原語は「ミクウェー」(מִקְוֵה)という名詞で旧約では8回使われていますが、エレミヤ書では3回(14:8/17:13/50:7)。本来、これは「カーウァー」(קָוָה)という動詞から来た名詞ですが、この言葉にはもう一つの意味があります、それは「(水の)集まるところ、(水の)集まり、水源、淵」という意味です。14章には神のさばきとしての飢饉が襲っています。ですから、主が天の門を開かなければ雨は降りません。そこでエレミヤは14章22節でこう祈っています。

異国のむなしい神々の中で、
大雨を降らせる者がいるでしょうか。
それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。
私たちの神、主よ。
それは、あなたではありませんか。
私たちはあなたを待ち望みます(「カーウァー」קָוָה)。
あなたがこれらすべてをなさるからです。

  • つまり、「希望」と「水源」がしっかりと結びついています。神の民イスラエルは、この神を自らの望みとしなければならないのです。でなければ、天からの水はとどまり、干ばつと飢饉が襲います。

画像の説明
イスラエルの望みである主よ
あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。

「わたしから離れ去る者は、地にその名が記される。
いのちの水の源、主を捨てたからだ。」(エレミヤ17:13)


2013.2.13


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