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祭司の日常の務めと御名を冒涜する罪

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レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

24. 祭司の日常の務めと御名を冒涜する罪

ベレーシート

  • レビ記23章は毎年なされる主の例祭について記されていましたが、24章は祭司の日々の務めについて(1~9節)記されています。さらには、主の御名を冒涜する罪が同態復讐法(罪を抑制させることを目的とした「目には目」などの償い)と共に扱われています。
  • その前に、1節にある「主はモーセに告げて仰せられた」という部分に目を留めたいと思います。この表現はモーセ五書だけでも102回使われています。レビ記では34回。主がノア、アブラム、モーセ(あるいは「モーセとアロン」)、イスラエルの民に対して重要なことを語る時は、常に「告げて仰せられた」と記されています。「告げる」という動詞「ダーヴァル」(דָּבַר)と「仰せられた」という動詞「アーマル」(אָמַר)がセットになっています。前者の「ダーヴァル」ははっきりと宣言して命令することを意味し、後者の「アーマル」は普通に口で言って伝達することを意味しています。この二つがセットで用いられています。新共同訳はこの二つを区別した訳にはなっておらず、「主はモーセに仰せになった」と訳しています。

1. 祭司の日常の務め

  • 聖所における祭司の日常の務めとして挙げられているのは、第一に、純金の燭台の上にともしびを絶えずともしておくことです。第二は、安息日ごとに机の上のパン(12個)を新しく整えることです。

(1) ともしびを絶えずともしておくこと

  • 聖所は窓のない、つまり外からの光が一切ない場所です。そこで祭司たちが日々の務めをするために、燭台の上にともしびを絶えずともしておかなければならないことが命じられています。「絶えず」と訳されたヘブル語は「ターミード」(תָּמִיד)で、それは主の前でなされる務め、すなわち、礼拝(祭儀)に関連する語彙です。「夕方から朝まで」とは、「一日中絶えず、常に」を意味するヘブル的表現です。
  • ともしびをともす油は、質の良い純粋なオリーブ油で、イスラエルの民によってささげられるべきものでした。オリーブ油は、食用のみならず、聖別や灯火として用いられます。「ともしておく」と訳されたヘブル語は、「上る、登る、ささげる」を意味する「アーラー」(עָלָה)の不定詞が使われています。つまり、主の前に絶えず「ともしびがささげられている」ことになります。ともしびは「神の光」を示唆する比喩です。神の「光」とは、神のご計画とみこころ、神の御旨と目的を表わす語彙です。ということは、それらが絶えず輝いていることを意味します。このことは重要です。なぜなら「ともしびを絶えずともす」とは、聖所を照らす単なる光源としての明かりではなく、神の永遠のご計画の全貌を照らす光として絶えず輝かすことを意味しているからです。
  • 主の例祭には神のマスタープランが啓示されていたように、聖所にある燭台の光も同じく神のご計画を照らすものだということです。このことから私たちが目を離す時、みことばの解釈が的をはずし、私的解釈がはじまるのです。

(2) 安息日ごとに机の上のパン(12個)を新しく整えること

  • 聖所における祭司の務めとして、机の上に備えるパンを安息日ごとに新しくささげられなければなりません。

【新改訳改訂第3版】レビ記24章5~9節
5 あなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二個を焼く。一つの輪型のパンは十分の二エパである。
6 それを【主】の前の純金の机の上に、一並び六個ずつ、二並びに置く。
7 それぞれの並びに純粋な乳香を添え、【主】への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。
8 彼は安息日ごとに、絶えずこれを【主】の前に、整えておかなければならない。これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である。
9 これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、【主】への火によるささげ物のうちから、彼の受け取る永遠の分け前である。」

  • 机の上に備える輪型のパンは十二個で、六個ずつ二列並びに置かれます。それぞれの並びに純粋な乳香が添えられます。その乳香はパンの代わりとして、香壇の火によるささげ物として主にささげられます。古くなったパンはアロンとその子らのものとなり、聖なる場所で最も聖なるものとして食されます。
  • ここで、注目したいことは、輪型のパン一個に用いられる小麦粉の分量は十分の二エパです。「一オメルは一エパの十分の一である」(出16:36)とありますから、十分の二エパとは、二オメルとも表記できます。「二オメル」という表現の初出箇所は出エジプト記16章です。それは、安息日の前日に与えられた二日分のマナの分量です。なぜ、六日目だけ二日分のマナが与えられたのでしょうか。その理由が以下に記されています。

【新改訳改訂第3版】出エジプト記16章22~23, 26節
22 六日目には、彼らは二倍のパン、すなわち、ひとり当たり二オメルずつ集めた。会衆の上に立つ者たちがみな、モーセのところに来て、告げたとき、
23 モーセは彼らに言った。「【主】の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、【主】の聖なる安息である。

26 六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。」

  • なぜ、六日目だけ二日分のマナが与えられたのかといえば、それは安息日のためです。かつてエデンの園で見られた安息、神と人との楽しき交わりを想起させるための安息を、神が荒野においてもご自身の民に与えるためでした。安息は神の賜物です。ですから、モーセはこう語っています。「【主】があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。」(出エジブト16:29)と。「安息日は人間のために設けられた」(マルコ2:27)にもかかわらず、神の民イスラエル(あるいは、人間)は神の安息日を賜物として重んじようとしなかったのです。聖所の机に置かれた「十分の二エパ」、「二オメル」で作られた輪型のパンは、常に、神の安息を思い起こさせるためのものであったと言えます。それは「エデンの園」の回復の啓示であり、かつ、神のご計画の究極的目的だからです。

(3) ともしびとパンを主の前に絶えず整える

  • 「ともしび」は「光」と「御霊」の象徴です。そして「パン」は神のみことばです。つまりそれらを整えるということは、みことばを神の光(神のご計画とみこころ、御旨と目的)と御霊によって解釈し、分かち合う務めと言えます。それは使徒パウロの言う「御国の福音」と言えるのです。パウロはそれを「健全な教え」とも表現しています(Ⅱテモテ4:3)。この務めを果たすためには、神に関する多くの知識を必要とし、そしてそれらを結び合わせる神の知恵が不可欠です。パウロは愛弟子であるテモテに対して、「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(Ⅱテモテ2:15)と勧めています。

2. 主の御名を冒涜する罪

  • 「御名を冒涜する」(涜神罪)者は、死を免れないというのが神の律法ですが、それは「同態復讐法」と関連づけられ、正当な償いとみなされています。「御名をみだりに唱えるだけでも、罰せられる」というのが十戒ですが、御名を冒涜した者はなおさらのこと、宿営の外に連れ出されて、共同体全体によって石で打ち殺されるというものでした。御子イェシュアが殺されたのは、ローマの法によってではなく、まさに、「神を冒涜した罪」として、宿営の外に連れ出されて殺されたのです。
  • マタイの福音書では、大祭司がイェシュアの罪を「神を冒涜する罪」として断罪していますが、ヨハネの福音書ではユダヤ人たちのイェシュアに対する断罪は「自分を神と等しくする」という冒涜罪でした。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書26章63~66節
63 しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」
64 イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
65 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。
66 どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる」と言った。


【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書10章32~33節
32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」

  • 大祭司やユダヤ人たちはイェシュアが神を冒涜しているとみなしました。確かに、レビ記が記しているように、「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。」のです。これは神のことばであり、真理です。ところが、神を冒涜したのはイェシュアではなく、大祭司であり、ユダヤ人たちであったのです。繰り返し繰り返し、メシアでなければできないことをイェシュアはなさいました。しかし彼らはそれを決して認めようとはしなかったのです。そこでイェシュアは彼らに言われました。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書 12章31節
だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません



2016.6.25


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