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祭司に対する糾弾と祭司の本来の務め

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3. 祭司に対する糾弾と祭司の本来の務め (1)

【聖書箇所】 2章1~4節

ベレーシート

  • マラキ書は祭司たちに対して糾弾しています。その糾弾の内容は祭司たちが主の名に栄光を帰することを心に留めていないということです(2:2)。もし、このことが改善されないならば、「あなたがたの中にのろいを送り」(2節)、「見よ。わたしは、あなたがたの子孫を責め、あなたがたの顔に糞をまき散らす。」(3節)とマラキは宣告しています。「顔に泥を塗る」ということわざがありますが、それは面目をつぶし、大いなる恥をかかせることを意味します。しかし「あなたがたの顔に糞をまき散らす」とは、祭司たちにとって単なる恥を見るだけでは済まない、神に「投げ捨てられ」て、神とのかかわりを失うことを意味する厳しい表現なのです。
  • 「御国」の視点から見たマラキ書が訴えるメッセージとは何なのでしょうか。今回は「本来の祭司の務め」とは何であったのか、そのことを思い巡らしてみたいと思います。

1. 祭司と王と預言者の関係

祭司・王・預言者の関係.JPG
  • 「祭司」「王」「預言者」のうち、御国において永遠に継続する務めは「祭司」と「王」の務めだけです。御国においては神のみこころが完全に実現するために、預言者の務めはすたれ、要らなくなります。預言者の務めとは、神の民の中に「祭司としての務め」と「王としての務め」が健全に機能するための、いわば「見張り人」としての務めです。御国においては、「王である祭司」の務めは一つであり、密接な関係にあります
  • 本来の「祭司の務め」と「王の務め」は、人間が神によって創造された時から与えられていた永遠の務めなのです。最初の人アダムはエデンの園においてその務めを果たしていました。そもそも人間は神のかたちとして造られましたが、その神のかたちとは、三一の神のかたちです。そのかたちに似せて人が造られたのです。「祭司の務め」と「王の務め」が健全に果たされるべく立てられたのが、「預言者の務め」です。

(1) 「祭司としての務め」とは

  • 神のかたちとしての「祭司の務め」とは、愛のかかわりです。御父、御子、御霊が永遠の愛をもって互いに親しく交わりをもっているそのかたちの中に人が造られていますから、当然、人にも同じく神と交わるという務めがあるのです。務めといってもそれは何らかの仕事をするという務めとは異なり、神を知るという務めです。祭司の重要な務めとは、働くことではなく、神の臨在の中で過ごすこと、神を仰ぎ見、顔と顔とを合わせて、神を知ることです。それが祭司としての務めなのです。その務めとは永遠に変わりません。
  • モーセの幕屋で唯一その務めを任じられたのはレビ族です。ヤコブの子どもたちの中で「レビ」は三番目の子です。「レビ」という名は、母レアが「今度こそ、夫は私に結びつくだろう。」と言ってつけた名前です。ネーム・セオロジー的視点から見るなら、「レビ」(「レ―ヴィー」לֵוִי)という名前には「神と結びつく」「神と一体となる」という意味が隠されています。祭司たちはこのレビの系譜にある者たちです。彼らは他の部族とは異なる特別な務めがゆだねられていました。従って、目に見える土地という嗣業は彼らには与えられていませんでした。むしろ、彼らの嗣業は神ご自身なのです。そこには神と人とのかかわりにおいてきわめて重要な、永遠の務めとしての「型」があります。
  • マラキ書2章5節に、レビと神との契約が「いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた。」とあります。「いのちと平和」という表現は重要です。それは神とのかかわりにおける「いのち」(冠詞付の「ハッイーム」הַיִּים)を保つことであり、それによって与えられる神の祝福の結実が「平和」(冠詞付の「シャーローム」שָׁלוֹם)だからです。そのかかわりと祝福の結実が「いのちと平和」というフレーズで言い表わされているのです。「シャーローム」は神の祝福の総称を意味します。
  • それゆえ、その者たちが神に呪われて、神から捨てられるということは決して尋常ではありません。神の民にとって最も重要な「いのち」を失っていることだからです。

(2) 「王としての務め」とは

  • 「王としての務め」とは、創世記1章28節に「地を従え・・すべての生き物を支配せよ」とあるように、「治めるという務め」です。この治めるという務めは、自然界のみならず、家庭における父と子の関係や、また主人としもべの関係、また王とその民の関係にも及びます。「王としての務め」の力は、「祭司としての務め」の土台に基づいて賦与されます。
  • 初代の王サウルが王位から退けられたのは、「祭司の務め」を適切に扱うことに失格したからです。その点、ダビデは「祭司の務め」と「王の務め」においてバランスが取れていました。ダビデは「王の務め」の土台である「祭司の務め」を重んじた模範者と言えます。ダビデがいかに祭司としての務めを自覚していたかを確認しておきましょう。

【新改訳改訂第3版】詩篇23篇 6 節
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。
【新改訳改訂第3版】詩篇26篇8節
【主】よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。
【新改訳改訂第3版】詩篇27篇4節
私は一つのことを【主】に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、【主】の家に住むことを。【主】の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。

  • これらの詩篇に共通していることがあります。それは「主の家」です。「主の家」に住むのは「祭司の務め」です。ダビデは王である前に祭司であったのです。「主の家」とは神との交わりにおけるシークレット・プレイス(secret place)です。ダビデはそこに住むことを何よりも優先したいという願いを持っていたのです。それゆえに、主はダビデの祈りを聞き、王としての権威と力を与えたのです。
  • 聖書に記されている有能なリーダーの共通点は、神とのシークレット・プレイスを持ち、神を知ることを求め、神とひとつになることを何よりも優先することです。「祭司としての務めは、王の務めに先立つ」という原則は不変です。主にある者たちはこの真理を悟らなければなりません。

2. マラキ書の主要メッセージは「王である祭司としての務め」の回復

  • マラキ書1章6節と最後の4章6節に注目して見ましょう。そこにはマラキ書のメッセージが隠されています。

【新改訳改訂第3版】マラキ書 1章6節
子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。──万軍の【主】は、あなたがたに仰せられる──わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか』と。

  • ここには「父と子」「主人としもべ」の理想的、本来的なかかわりが示されています。 つまり「王である祭司としての務め」の真の姿が語られています。ところが、当時の指導者である祭司たちは、主に対する尊敬としての「主への恐れ」がないことが糾弾されているのです。祭司の務めを失った神の民は、この世において神の代理としての「王としての務め」を果たすことができません。
  • バビロンの捕囚経験によって「祭司としての務め」が回復され、エルサレムに帰還して第二神殿が再建されたにもかかわらず、彼らは異邦人の支配の下で400年もの間何ひとつ神のことばが与えられなかったのは、彼らがマラキの語ったことばをないがしろにしていた結果を物語っています。

【新改訳改訂第3版】マラキ書 4章6節
彼(=預言者エリヤ)は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろい(אָרַר)でこの地を打ち滅ぼさないためだ。

  • 崩れている「王である祭司としての務め」を再び回復させるために、預言者エリヤが主によって遣わされると預言しています。しかもそれは「主の大いなる恐ろしい日が来る前に」(4:5)です。この日とは、獣と呼ばれる反キリストによる未曽有の大患難のことです。


おわりに

すべては一つの霊性.JPG
  • 「王としての務め」の前に、「祭司としての務め」の回復こそが、教会の今日的課題だということです。後者が建て直される時、前者の務めはおのずと力を持ってくることを信じます。祭司が祭司としての真の務めが何かを悟り、それが回復されることが求められているのです。
  • マラキ書は教会に来ている人々に献金を奨励させるための書ではなく、「ダビデの霊性」「マリアの霊性」「花嫁の霊性」「祭司の霊性」を回復させるためのテキストなのです。

2015.7.11


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