****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

神を利用しようとする罪深き人間と関わられる神に注視すること

40. 神を利用しようとする罪深き人間と関わられる神に注視する

  • 「苦しい時の神頼み」ということわざがあります。普段は神を求めたことも、拝んだこともない者が、苦しい時になると神に祈って助けを求めようとする。そもそも人間は身勝手なもので、自分のためには神も仏も信仰さえも利用してしまうという人間のえてかってさを皮肉ったことわざです。しかし、人間が神を求める動機は往々にしてこうしたご利益的ものではないかと思います。しかし、聖書における信仰は、たとえご利益でスタートしたとしても、神との人格的な生きた関わりによって、やがては神をあがめるようになっていく(むしろ、神をあがめるようにされていくと言った方が正確かもしれませんが・・)というところにゴールがあります。単なるご利益宗教はスタートもゴールも神をあがめるどころか、いずれも自分のためです。
  • イエスは、弟子たちから「私たちにも祈りを教えてください。」と頼まれました。そして教えた祈りが有名な「主の祈り」といわれるものですが、その出だしはこうなっています。「父よ。御名があがめられますように。・・」 この主が教えられた祈りは、本来、人間が祈ることのない祈りです。むしろ「日ごとの糧をお与えください。」と祈りたいというのが私たちの本心です。確かにそうした祈りは必要ですが、それは後回しにされています。イエスの祈りは、まず、神があがめられることがスタートであり、ゴールなのです。これが神が私たちに求める正しい祈りなのです。イエスが教えられた祈りは、私たちのたどり着くゴールから始まっています。私たちが「御名があがめられますように」と祈ることができるように、神は私たちを恵みによって造り変えていってくださるのです。

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