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神の葛藤

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8. 神の葛藤

ベレーシート

  • エレミヤ書5章には、神の葛藤(ためらい)状態をみることができます。

1. 一人でもいるなら、赦そう

  • 5章1節には、エルサレムの現実が神の恵みに反する形で描かれています。

    【新改訳改訂第3版】エレミヤ書5章1節

    エルサレムのちまたを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場で捜して、だれか公義を行い、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう。

  • かつて、ソドムに住む自分の甥であるロトのためにとりなすアブラハムに対して、主は、その町にもし10人の正しい者がいるならば町全体を赦そうと言われました(創世記18章)が、ここではエルサレムに一人でも、「公義を行ない、真実を求める者」が見つかるならば、エルサレムを赦そうと主は語っています。公平と真実を行なう者がひとりでもいるならば、神はエルサレムを赦して、滅ぼすことを思いとどめるというのです。ところが、だれ一人としてそのような者がいない現実を記しています。
  • 原文では「一人でも」という語彙はありません。「公義を行ない、真実を求める者」が単数で表されています。「公義」は「ミシュパート」מִשְׁפָּט、「真実」は「エムーナー」אֱמוּנָה特に、エレミヤ書においては、「主よ。あなたの目は真実に向けられていないのでしょうか。」と5章3節にあるように、神の真実性が強調されています。エレミヤは長いイスラエルの歴史の中に神の真実が一貫しているのを見ています。民がどんなに神を裏切ったとしても、神は決して民を裏切ることがないという真実です。それゆえ、神は一人の真実を求める者がいないかを探し求めているのです。
  • しかし、神に対する民の罪と背信がはなはだしいゆえに、「あなたの拠り頼む城壁のある町々を剣で打ち破る」(5:17)と主はエレミヤを通して語っています。しかしユダの民たちは「主が何だ。わざわいは私たちを襲わない。剣もききんも私たちは見はしない」(12節)と高を括っている始末なのです。
  • 神のさばきを招いたのは、ユダの民が神を捨て、神を傷つけたからです。イスラエルが神を「捨てた」ということが、エレミヤが生涯にわたって宣べ伝えたメッセ―ジの中心でした。最大の罪とは、愛の裏切りです。裏切られた愛は怒りとさばきという形で現わされます。それを真正面に受け止めてエレミヤは神のさばきを宣告するのですが、それはイスラエルの民の最も痛いところを突くわけですから、はじめからエレミヤは人々に受け入れられないことを覚悟しなければなりませんでした。

2. 神のさばきの葛藤(ためらい)

  • 愛の裏切りに対して、神の激しい怒りが臨むことを語りながら、神が躊躇しているというか、地団太踏んでためらっている様子が描かれています。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書 5章9~10節
9 これらに対して、わたしが罰しないだろうか。──【主】の御告げ──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。
10 ぶどう畑の石垣に上って滅ぼせ。しかし、ことごとく滅ぼしてはならない。
「ぶどう畑」とは神の民の比喩です。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書5章17~18節
17 彼らは・・・あなたの拠り頼む城壁のある町々を、剣で打ち破る
18 しかし、その日にも、──【主】の御告げ──わたしはあなたがたを、ことごとくは滅ぼさない。


2013.1.23


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