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神の栄光がエルサレムから離れた

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11. 神の栄光がエルサレムから離れた

【聖書箇所】 11章1節~25節

ベレーシート 

  • 神の栄光がエルサレムの町を出て行ったのは、エルサレムが実際に陥落する年の五年前のことです。そのときどのようなことがエルサレムで起きていたかをエゼキエルは見せられることになります。

1. 「霊が私を引き上げて」というフレーズ 

画像の説明

  • このフレーズがエゼキエルには6回使われています。重要なことを見せるために、主の霊が強制的にエゼキエルに働きかけたことを意味します。3章12, 14節、8章3節、11章1, 24節、43章5節参照。
  • 表現は少々異なりますが、37章1節の「主の霊によって、私は連れ出され」というフレーズも「霊が私を引き上げる」と同義と見なすことが出来ます。37章で見た「枯れた骨」の幻はエゼキエル書においてとても重要な幻です。いずれにしても、「主の霊によって」エゼキエルは引き上げられ、あるいは連れ出されて見るべきものを見せられているのです。

2. エルサレムの指導者の一人「ペラテヤ」の死 

  • 11章で、霊がエゼキエルを引き上げて連れて行ったところは、主の宮の東の門の入り口でした。そこには政治的な有力者たちが集まって、邪悪な計画と悪いはかりごとを巡らしながら、「家を建てるにはまだ間がある。この町はなべであり、私たちはその肉だ」と言っているのを聞きました。この会話が意味することは、エルサレムの町はなべのように難攻不落で敵の火から守られると考え、自分たちはその中に完全に覆われている肉、すなわち骨や内臓や皮などが取り除かれた良いものだと見なしていました。その背景には、第一回目の捕囚で連れ去られた者たちは罪深い者たちだという考えがあります。
  • エルサレムは難攻不落だという信仰は、かつてヒゼキヤの時代に、セナケリブの率いるアッシリヤの軍隊が北イスラエルのみならず、ユダの多くの地を荒廃させ、多くの人々を殺し、あるいは連行したにもかかわらず、エルサレムを攻め落とすことができずに18万5千人が死んだという出来事が背景にあります。
  • 神は、今や、彼らに対して、「この町はあなたがたにとってなべとはならず、あなたがたの中の肉とはならない」と宣言します。つまり、エルサレムの町は完全に敵の手中に落ちるということです。エゼキエルがそのように語っているとき、有力者の中の「ベナヤの子ペラテヤ」が死にました。この死はきわめて象徴です。なぜなら、「ペラテヤ」という名前は「神が逃れさせる」という意味ですが、その名前を持つ者が死んだということは、エルサレムの指導者たちが神のさばきを逃れる者はひとりもいないというメッセージだからです。
  • この出来事を見たエゼキエルは「ああ、神、主よ。あなたはイスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。」と大声で叫びました。この叫びは9章の武器をもった六人の御使いたちによるさはぎを見せられた時にも発した叫びでした。
  • エゼキエルにとって、「残りの者たち」がさばかれことごとく滅びてしまうことは受け入れがたいことだったのです。しかし、エゼキエルの考える「残りの者たち」と、神が考えている「残りの者たち」とは異なっていたのです。

3. 神が備えている「残りの者たち」 

  • エゼキエルは、9章に登場する「亜麻布の衣を着て、腰には書記の筆入れをつけたひとりの人」が額にしるしをつけた人々がだれであるかを知りません。彼らは確実に「残りの者たち」であるはすです。
  • 「残りの者たち」と訳された言葉は、英語では冠詞付の「レムナント」、ヘブル語では「シェエーリート」(שְׁאֵרִית)、あるいはその同義語の「ペレーター」(פְּלֵיטָה)という言葉で集合名単数で表わされます。「残りの者たち」とは、運よく生き残ったという意味ではなく、たとい周囲が神のみこころに従わず、罪にまみれていたとしても、神のみことばに従い、神の恵みの中に生きて行こうとした者たちなのです。神はその者たちの額に「しるし」をつけられました。また、すでにバビロンの地に捕囚となっている者たちが「残りの者たち」だったのです。11章16節のみことばはそのことを語っています。

    「神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。」

  • ユダヤ教ではこの箇所にある「聖所」が「シナゴーグ」の由来だとしています。シナゴーグとは「小さな聖所」を意味する会堂のことです。捕囚の民となった者たちはその会堂をエルサレムの主の宮に代わるものとして、集い、そして神の律法を学び、本来の神の民へと回復していったのです。これが神の備えられた「残りの民たち」でした。

4. 全イスラエルの回復の預言 

  • 神の備えられた「残りの者たち」の言及と同時に、やがて神がなされる全イスラエルの回復の預言がここに記されています。それは以下の通りです。

    【新改訳改訂第3版】エゼキエル書11章17~20節

    17 それゆえ言え。『神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える。』
    18 彼らがそこに来るとき、すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう。
    19 わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。
    20 それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

  • 「新しい霊を与えられた一つの心」、それは「石の心」に代わる「肉の心」で、主に対する柔らかな心、主を愛する従順な心を意味します。しかしその心は神の創造によってのみ造られるのです。この約束は実に重要で、エゼキエル書36章24~27節で再度ふれています。

2013.5.15


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