****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

神のあわれみによる神のご計画の預言

【補完17】 神のあわれみによる神のご計画の預言


【聖書箇所】申命記 30章1~20節

ベレーシート

  • 申命記29章では、モアブの地で結ばれた契約が記されています。

    【新改訳2017】申命記29章1節
    これらは、モアブの地で、【主】がモーセに命じて、イスラエルの子らと結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。

  • モアブの地で結ばれた契約は「ホレブで彼らと結ばれた契約とは別であるとあります。ホレブ(シナイ)契約とモアブ契約の決定的な違いは何なのでしょうか。神が私たちに望んでおられるみこころは、祝福の道を選んでいのちを得ることです。のろいの道を選んで災いを受けることを神は望んでおられません。主にある者は神が歴史の中でなされた恵みの数々を思い起こして神の善を信じ、自らの主体的な決断をもっていのちの道を選ばなければなりません。
  • ところが申命記30章1節では、イスラエルの民が約束の地であるカナンの地に入る前に、すでに神はイスラエルの民がやがて捕囚となって連れ去られることを預言しています。しかしここで見逃してはならないことは、「あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め」(1節)て、「主に立ち返り、・・心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたを捕われの身から返らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める」(2~3節)と約束していることです。たとい、イスラエルが天の果てに追いやられていても、主に立ち返るなら、主は、そこからイスラエルの民を集め、そこから連れ戻されるというのです。まさに、万軍の主の熱心さによる神のご計画の実現がこのモアブで約束されているのです。

●川端光生師(キリストの栄光教会牧師)は「三つのテーマで読む聖書」(2018年6月発行、あかしあの木出版)の中で、モアブ契約(パレスチナ契約)の特徴を「悔い改めによる祝福の回復の契約」という一言で表現しておられます。つまり、主に反逆し災いを受けても、に立ち返り、悔い改めるならアブラハムの祝福が回復されるという契約だということです。イェシュアの宣教の第一声は「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」(マタイ4:17)でしたが、これはモアブ契約に基づいていると言います。

●「に立ち返り」というフレーズは申命記4章30節にもあります(このフレーズは旧約に17回あります)。これが初出箇所です。

【新改訳2017】申命記4章25~31節
25 あなたが子や孫をもうけ、あなたがたがその地に長く住むうちに堕落して、何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、【主】の目に悪であることを行い、御怒りを引き起こすようなことがあれば、
26 私は今日、次のことで、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。あなたがたは、ヨルダン川を渡って所有しようとしているその地から追われ、たちまち滅び失せる。そこで、あなたがたは長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされる。
27 また、【主】はあなたがたを諸国の民の中に散らされ、あなたがたは【主】が追いやる国々の中で、ごくわずかな者として生き残ることになる。
28 あなたがたはそこで、見ることも聞くこともできず、食べることも嗅ぐこともできない、人の手のわざである木や石の神々に仕える。
29 しかしそこから、あなたがたがあなたの神、【主】を探し求め、心を尽くし、いのちを尽くして求めるとき、あなたは主にお会いする。
30 こうして終わりの日に、これらすべてのことがあなたに臨み、あなたが苦しみのうちにあるとき、あなたは、あなたの神、【主】に立ち返り、御声に聞き従う。
31 あなたの神、【主】はあわれみ深い神であり、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの父祖たちに誓った契約を忘れないからである。

●「主に立ち返るなら」「あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず」とは、「あなたの父祖たちに誓った契約を忘れないから」なのです。「あなたの父祖たち」とは、アフラハム、イサク、ヤコブのことであり、彼らに誓った契約が生きているからなのです。


1. 「みことばはあなたの近くにある」とは・・

  • ローマ人への手紙10章8節には、使徒パウロが申命記30章から引用した部分があります。14節のことばです。まずは、その二つの箇所を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】申命記30章14 節
まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。

【新改訳改訂第3版】ローマ書 10章8 節
では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。

  • ここで注目したいことは、「みことばは、あなたのごく身近にあり」(申命記)、「みことばはあなたの近くにある」(ローマ書)という部分です。ここにある「みことば」は、冠詞付の「ダーヴァール」(דָּבָר)で、「主のみことば」を意味します。「ごく身近に」と訳されたヘブル語は「近い」という意味の形容詞「カーローヴ」(קָרוֹב)に、副詞の「とても、非常に」を意味する「メオーッド」(מְאֹד)がついたものです。ところで、「みことばは、あなたのごく身近にある」とはどういうことでしょうか。
  • 新約聖書にある「天の御国は近づいた」という宣言の「近づいた」という部分は、ヘブル語の「カーラーヴ」(קָרָב)が使われています。動詞は「カーラヴ」(קָרַב)、あるいは「カールヴァー」(קָרְוָה)で。「近づく、進み出る」の意味。形容詞は「カーレーヴ」(קָרֵב)、名詞は「ケレヴ」(קֶרֶב)で「中、内、心、人体の内部、心の中」を意味します。「近づく」という訳はまだ到達していないというイメージですが、ヘブル語の動詞の「カーラヴ」(3単男)「カールヴァー」(3女単)はすでに到着したというイメージです。
  • 人間的なかかわりで言うならば、創世記20章4節にアビメレクがアブラハムの妻サラに「近づいていなかった」とあります。それは彼女と性的な関係を持たなかったことを意味します。また預言者イザヤが自分の妻に「近づく」と彼女は身ごもって男子を産んだ(イザヤ8:3)とあるように、この場合も同様の意味です。したがって、「みことばはあなたのごく身近にある」とは、「悔い改め」によって「みことばがあなたの心の中に書き記された」ことを意味しているのです。エレミヤ書31章31~34節に預言されている「新しい契約」は、まさにそのことを意味しているのです。

2. エレミヤ書の「新しい契約」との関連

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書31章31~34節
31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

  • エレミヤ書のこの「新しい契約」については、すでに申命記の中にも予表されているのです。ただしそれがどのようにして実現するのかは、申命記にもエレミヤ書にも啓示されていません。このことが実際に目に見える形で実現するのは、神の御子イェシュアがこの地上に王として再臨されてからのことです。
  • その前にイスラエルの民は「後の雨」(ヨエル2:23)、「恵みと哀願の霊」(ゼカリヤ12:10)によって悔い改め、イスラエルは民族的に主に立ち返ります。そのときからイスラエルの民のうちに、聖霊によってみことばが心の中に書き記されます。そしてそのことによって、はじめて彼らは「再び、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を行うようになる」(申命記30:8)のです。また、エレミヤ書の「新しい契約」も同様に、すべて神ご自身によって実現されるのです。人間的な努力によるものではありません。それゆえ、申命記30章11節で次のように語られています。

【新改訳改訂第3版】申命記30章11節
まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。

  • なぜ、「あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではない」のでしょうか。それは、14節にあるように、「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」ように、神がしてくださるからです。このことは、離散したイスラエルの民の世界各地からの帰還の出来事と密接な関係にあります(ただし、今日のユダヤ人のイスラエルへの帰還とは異なります)。

【新改訳改訂第3版】申命記30章3~6節
3 あなたの神、【主】は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、【主】がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める
4 たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、【主】は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す
5 あなたの神、【主】は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる
6 あなたの神、【主】は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、【主】を愛し、それであなたが生きるようにされる

(※太文字は神の恩寵用語です)


3. 神の「あわれみ」によるイスラエルの回復

  • イスラエルに対する回復は神の「あわれみ」です。特に、申命記30章3節にある「あわれみ」はヘブル語の「ラーハム」(רָחַם)で、この動詞の初出箇所は創世記 43章14 節です。「あわれみ」の概念を理解するためにそこを見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】創世記43章14節
全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。

  • この箇所はアブラハムの子イサクの子ヤコブ(=イスラエル)が、自分の息子たちを再度エジプトに遣わす際に語ったところです。すでに息子の一人シメオンはエジプトで人質となっていました。更にエジプトの宰相であるヨセフは末息子のベニヤミンを連れて来るように要求していました。そこでヤコブは、全能の神がエジプトの宰相の「あわれみ」(「ラーハム」の名詞の複数「ラハミーム」רַחֲמִים)によって、「もうひとりの兄弟」であるシメオンと、そしてベニヤミンが無事に帰って来れるようにと祈っているのです。このように「あわれみ」(ラハミーム)とは、失われた者が再び帰って来るという意味があります。この「あわれみ」は、イスラエルの回復を指し示す言葉でもあるのです。これがアサフの言う「昔からの謎」なのです(詩篇78篇2節)。

  • イェシュアの初臨も再臨もいずれも神のあわれみです。それは神の民イスラエルを回復することだからです。ルカの福音書はそのことをきわめて重視しています。

【新改訳改訂3】
①ルカ 1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
②ルカ 1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
③ルカ 1:72 主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、
④ルカ 1:78~79 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。


4. パウロが宣べ伝えた「御国の福音」(信仰のことば)

  • 申命記30章14節に戻って、「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」という神の約束にある「みことば」ということばに注目したいと思います。神が語りかける「みことば」、つまり、名詞の「ダーヴァール」(דָּבָר)は「神の出来事」をも意味します。
  • イザヤ書55章11節にはこうあります。「わたしの口から出るわたしのことば(「デヴァーリー」דְבָרִי)も、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」と。神が語られたことは、まさにそのまま目に見える出来事として実現するのです。
  • イェシュアは旧約聖書における神のみおしえ(「トーラー」תּוֹרָה)の根幹を、以下の二つのことばに要約しました。

A. 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
B. あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

  • この二つの愛の戒めは、私たちの力によって完全に実現できるものではありません。ですからこの命令に十分に従えないとしても、自分を責める必要はありません。神が「あなたの神である主を愛する」ことができるようにしてくださるのです。また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛する」ことができるようにしてくださるのです。
  • 主のトーラーは、命令や禁止や刑罰を教えている書ではなく、神がご自身のご計画を記している書です。「主の家において神と人が共に生きる」という神のみこころ、御旨(喜び)と目的について記している書です。ところがイェシュアの時代には、指導者たちが神のトーラーを「命令や禁止や刑罰」の書に変えてしまい、それによって人々を監視し、支配する構造をつくっていました。そこにイェシュアが来られ、トーラーの本当の意味を教え、その教えに基づく御国(主の家)を建て上げようとされたのです。
  • したがって「空を打つような拳闘」をする必要はありません。イェシュアが再臨(教会に対しては空中再臨、イスラエルに対しては地上再臨)されることで完成される主の家(御国)では、主のトーラーが私たちの心の中に書き記されるからです。これは、神のあわれみによってなされることを信仰をもって受け止め、主の再臨を待ち望まなければなりません。先の二つの戒めは以下のように理解すべきです。

A. あなたは、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛するようになる。
B. あなたは、あなたの隣人をあなた自身のように愛するようになる。

  • これが、エレミヤが預言した「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」ということばの意味なのです。この福音こそパウロが宣べ伝えた福音であり、「信仰のことば」と言われるものです。それゆえ「御霊も花嫁も言う。『来てください。』」(黙示録22:17)という渇望が引き起こされるのです。この「来てください」(=「マラナ・タ」)という渇望(切望)こそ、初代教会の霊性であったと信じます。私たちはこの霊性を、今日、御霊によって回復していただかなければなりません。

2017.12.1


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