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神と人との交わりの基礎としての三位一体(Trinity)

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A-03. 神と人との交わりの基礎としての三位一体(Trinity)

はじめに

  • Worship-神との交わりー とIntercession―人との交わりー、このライフスタイルは密接なものであり、不可分な関係にある。そしてその関係を成り立たせている土台は、神が三位一体の神であるということである。このことを理解することは非常に重要である。

三位一体なる神の本質・・それは愛の交わりである

  • 三位一体ということばは聖書にはない。しかし聖書の啓示する神とは、三位一体の愛の交わりの神である。神は、「御父」「御子」「御霊」なる三つの「位格」(ペルソナ)において存在され、その実体において唯一の神であることを意味する。

3=1、1=3の世界。これは合理的に説明することはできない非合理の世界である。しかし合理的に説明できなくとも、御父、御子、御霊なる神は、永遠なる交わりの神秘の中に存在している。(注3)

Trinity
  • 創世記から黙示録に至るまで、聖書の神は三位一体として、永遠の愛の交わりの中に生きておられる神である。この神の交わりこそ<永遠のいのち>なのである。後で学ぶように、神によって造られた人間は、実に、この神との交わりを共有するものとして造られたのである。

①交わりの概念を現わす「ことば」の存在}

  • 「初めに、ことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。この方は、初めに神と共におられた。」(ヨハネの福音書1章1~2節)
  • a. 「ことば」はイエス・キリストのことである。
    この方が神と共にあったとは、ただ存在していたということではなく、神と向かい、対話する関係にあったということ、つまり交わりの中にあったということを意味している。しかも「はじめから」(時間的な意味ではなく、すべての事柄の前提としてという意味)
  • b. 「ことば」は父なる神をあかしする子なる神のことである。
    「ことば」は「父のみもとから来られたひとり子」(ヨハネ1章14節)と紹介される。また、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(同、18節) の聖句は、父なる神と子なる神との交わりがあることを示唆している。特に、「父のふところにおられるひとり子」という表現は、その交わりが親密なものであることを意味する。このひとり子は父を説き明かすために父から遣わされたのである。
  • c. 「ことば」とは、神と人とをコミュニケートさせる存在である。
  • 「ことば」とは交わりに必要不可欠なものである。それは見ることも、聞くことも、ふれることもできる存在である。ヨハネの手紙第一1章1~3節には「いのちのことば」とも「いのち」とも「永遠のいのち」とも表現される。つまり聖書のいう「永遠のいのち」とは、神ご自身(三位一体)の交わりであると同時に、神と私たちとの交わりのことをいうのである。「ことば」の存在は、三位一体なる神の永遠の交わりの中に私たちを迎え入れて下さる方なのである。これが救いである。

② 御父と御子の関係 およぴ、御父と聖霊(御霊)、御子と聖霊の関係について

  • a. 御父と御子の相互内在性・・・御子は御父のうちに、御父は御子のうちにある
  • 「子は・・自分から何事も行なうことができません。」(ヨハネ5章19節) (8章28節)、
    「わたしが・・来たのは、自分のこころを行なうためではなく・・」(ヨハネ6章38節)、「わたしの教えは、わたしのものではなく・」(ヨハネ7章16節) (ヨハネ14章24節)、「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません」(同、10節)
  • ヨハネ17章のイエスのとりなしの祈り中にも、「わたしたちと同様に」ということばと「あなたはわたしにおられ、わたしがあなたにいるように」「私たちがひとつであるように」という表現が見られる(11節、21節、22節)。これらはみな本質的に同義である。御父と御子の関係は「わたしたち」であり、そのあり方は「わたしたちが一つである」ということであり、そしてその一つということは「あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように」という関係である。これらは愛による交わりであり、相手の心に深く関わることを意味する。そしてそのような関係は決して一方的なものではなく、相互的なものである。このように御父と御子は、互いに愛の交わりの中におられるのである。(注4) しかもこのことをこの世において可能ならしめたのが、聖霊なる方なのである。
  • b. 御父と御霊、御子と御霊の相互内在性・・・御霊は御父と御子のうちにある
    バプテスマのヨハネはイエスが洗礼を受けられたとき、こう証言した。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを、私は見ました。」(ヨハネ1章32節) 
  • イエスの地上の働きはすべて御霊の助けなしにはありえなかった。「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限にあたえられるからである。」(ヨハネ3章34節)
  • 御霊は御子の栄光、御父の栄光を現わす。「御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、・・わたしの栄光を現わします」(ヨハネ16章13~14節)。「父の持っておられるものはみな、わたしのものです。 ・・御霊はわたしのものを受けて、あなたがたに知らせる(すべての真理を)・・」(ヨハネ16章15節)

③ 父、子、聖霊の御名によって・・・洗礼の恵みとは

  • マタイの福音書28章19節には「父、子、聖霊の御名によって」と言って洗礼を授けるように命じている。ところで、「父、子、聖霊によって」ということばの意味を正しく理解するためには、「~によって」ということばに注意する必要がある。ギリシャ語原文では、εισ(エイス;~のうちに)という前置詞が用いられている。つまり正確には「父、子、聖霊の御名のうちに(入れる)」というニュアンスである。つまり、「その方の覆いの下に入り、その方のものとなる」ことを意味する。つまり、「三位一体の神の交わり(永遠のいのち)の中に入っていく」ということである。このように、洗礼を受けるとは、聖なる神の、永遠の愛の交わりの中に生かされる新しい歩みが始まるということである。

注3
これまで、「三位一体」を説明するために、いろいろな説明がなされてきた。たとえば、「三位一体」を水の性質にたとえ、水が氷点下になれば氷という固体になり、温められると液体である水になる。さらに熱せられると気体である水蒸気になる、というわけである。それらは形において異なっており、すべて「H2O」である。しかしこの説明はほとんど三位一体の説明にはなっていない。あるいは、ウェストミンスター小教理問答によれば、神の本質を「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変な方である」と説明している。また多くの場合、神は唯一であり、父も神、子も神性をもち、聖霊も人格と神性をもっている、だから三位一体であると説明される。しかしそのような説明は決して十分ではない。

注4
この御父と御子の相互内在性をカパドキアの三教父の一人、カイザリヤのバシレウスは「ペリコレーシス」と呼んだ。その意味は四つある。第一に「人格性」である。これは愛を考える時に不可欠である。人格とは、知性、感情、意志を備えた存在というだけでは不十分である。むしろ人格とは、他者と交わりをもつことの出来る存在といえる。とすれば、神の人格性は三位一体を抜きして考えられない。第二には「他者性」である。ひとりひとりの人格としての独自性が確立していなければ、愛は可能とはならない。一方が他方に依存したり、または一方が他方を支配したりする関係は、決して愛とは言えない。第三は「関係性」である。真の意味において、ひとりの人格がその独自性に徹底していくならば、逆説的に、他者との関係に進んでいく。他者との関係に進まない独自性はむしろ自己中心性となる。第四は「自由」である。真の人格的な関係における愛は、決して相手を縛ることがない。互いが互いにとって不可欠な存在でありながら、しかし一方が他方を縛って、不自由にするということがなく、また第三者に対して開かれた関係なのである。御父と御子の関係は、まさにこのような相互の関係である。


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