神との関係を育てる <2>
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A-16 神との関係を育てる <2>
(2) 不在経験における効果的な祈り
①私たちの身の内に何が起きているのかを神に話すこと
- 簡単であるが、とても効果のある祈り方がある。それは主イエスに自分の内側で何が起こっているのかを語ることである。私たちの身の上に何が起きているかだけではなく、私たちの身の内に何が起きているのかをイエスに話すことである。それは私たちの心を神の御前に注ぎ出すことであり、抱え込んでいる感情をさらけ出すことである。ヨブは「私は黙っていることが出来ません。私は怒りを募らせ、いらだっています。どうして話さずにいられましょうか」と神に自分の感情をぶちまけている。
- 詩篇77篇の作者は慰めを拒む自分の感情を次のように記している。
- 「夜には・・自分の心と語り合い、私の魂は問いかける。『主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。主の恵みは、永久に絶たれたのであろうか。約束は、代々に至るまで、はたされないのだろうか。神は、いつくしみを忘れたのだろうか。もしや、怒って、あわれみを閉じてしまわれたのだろうか。』」(6~9節)
- まさに作者は暗闇の中で様々な迷いと疑いの火矢に打たれ、神の不在感を訴えている。そして作者はこう結論付けた。「私が弱いのは、いと高き方の右の手が変わったことによる」と。これは神に対する激しい怒りをぶつけている表現である。しかしこのような祈りはある意味で浄化(カタルシス)をもたらす。もし自分の内にある抑圧された感情―苦々しい気持ち、隠された怒り、否定的な感情―をそのままにしているならば、さらなる苦しみを自ら抱え込むことになる。こうした感情を神に向かってあらわにしていくとき、神との親しい関係は深められていくのである。
② 神がどのようなお方かに焦点を合わせること
- 状況はどうであろうと、また、私たちがどのように感じようとも、神の変わることのないご性質を信じ、そしてそこにしがみつくことである。詩77篇の作者は、感情をぶつけた後で、再び、神のわざを思い起こし、神のなさったすべてのことを思い巡らし、静かに考えてこう告白している。
「神よ。あなたの道は聖です。あなたの道は海の中にあり、あなたの小道は大水の中にありました。それで、あなたの足跡を見た者はありません。・・あなたはご自分の民を・・羊の群のように導かれました。」(詩篇77篇13節、19節)
- 「あなたの道は聖です。」聖―それは人間をはるかに超越した神の本質であるー、その聖なる神の知恵を表わす道がある。たとえだれの目に見えなくとも確かに存在している道。その道は海の中に、大水の中にある。まさに、神の聖は人の思いや考えをはるかに越えていて、およびもつかない。そのことを知った作者は慰められた。感情に左右されずに神を信じ続けるとき、最も深いレベルで神を礼拝していることになるのである。
③ 祈りの実を期待すること
- そして祈りの実を期待することである。祈りの実とは、祈りが私たちのものの見方を変えてくれることである。祈りの直後に「何も起こらなかった。時間の無駄ではなかったか・・」と思うことがしばしばある。しかしそれからずっと後になって、ものごとを全く新しい視点から見ている自分を発見するのである。普段の事柄を新しい見方でその意義を再発見するのである。これこそ祈りの実である。神と私たちの触れ合いの効果は、私たちの意識に上るまでには時間がかかることを心に留めておこう。
<付録>
- アメリカ南北戦争に従軍した無名の兵士が記した詩―『祈りはことごとく答えられた』―
私は、目的の達成を願って力を願い求めた。
しかし神は、謙遜に従うことを学ぶようにと、私を弱くされた。
私は、もっと大きなことができるようにと、健康を願い求めた。
しかし神は、よりすぐれたことをするようにと、私に病を送られた。
私は、幸せになりたいと豊かさを願い求めた。
しかし神は、賢くなるようにと、私を貧しくされた。
私は、人の称賛を得ようと、力を祈り求めた。
しかし神は、神の必要をおぼえるようにと、私に弱さを与えられた。
私は、人生を大いに楽しもうと、あらゆるものを祈り求めた。
しかし神は、あらゆることを喜べるような人生を私に与えられた。
求めたものは何一つ受け取らなかったが、その祈りはことごとく答えられたのだ。すべての人々の中で、私は何と豊かに祝されていることか。
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