破れ口を修復する者を捜し出された主
エゼキエル書の目次
22. 破れ口を修復する者を捜し出された主
【聖書箇所】 22章1節~31節
ベレーシート
- 22章は、「次のような主のことばが私にあった」という定型句で始まる三つの部分からなっています。
(1) 1~16節・・エルサレムのさばきを正当付づける主要な罪の訴え
(2)17~22節・・主にとってかなかすの存在となってしまったイスラエル
(3)23~31節・・「破れ口を修理する者」がひとりもいないという現実
- ここでは特に、第三の部分の「破れ口を修理する者」に注目したいと思います。なぜなら、もし、そうような者がいたとしたら、エルサレムは滅びを免れたかもしれないからです。これは驚くべきことですが、聖書の歴史をみるなら、このような務めにふさわしい者はそう多くはいないのです。
- 「破れ口を修復する者」とは、神と人との間に立って、その裂け目で神にとりなす者のことです。聖書の中から、「破れ口に立った」模範的な人物を取り上げてみたいと思います。これらの人物によって、「破れ口に立つ」、あるいは「破れ口を修復する」とはどういうことかが分かります。
1. 「破れ口を修復する者」の心
(1) アブラハムの場合
アブラハムがソドムにいる甥のロトとその家族のために、神にとりなしの祈りをしたことがありました。ソドムとゴモラの町は暴力と淫乱に満ちた町で、その罪は非常に重いものでした。神のさばきを受けるかもしれないとを知ったアブラハムは、主の前に立ち、近づいてこう言いました。
「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者と悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」(創世記18:23~25)。
このアブラハムの訴えに対して、主は「もしソドムでわたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」(つまり、この主のことばはその町に五十人の正しい者がいないという答えでした。アブラハムは食い下がり、やり取りは続いていき、五十人から十人まで絞られいきましたが、そこにはもはや正しい者が十人もいなかったのです。ソドムとゴモラは一瞬にして滅ぼされましたが、主はアブラハムのとりなしを覚えておられて、ロトの一家は滅びから免れることができたのです。アブラハムのように、「もし、さばきをくい止められるものならくい止めたい」という思いで、主にくい下がっていく者を「破れ口に立つ者」というのです。まさに、アブラハムはその最初のモデルと言えます。
(2) モーセの場合
モーセはイスラエルの民をエジプトから救い出す指導者として神に用いられた人物です。モーセが神からの律法を受け取るために山に行っている間に、民たちは金の子牛を鋳物を造り、それを伏し拝みました。モーセは罪を犯した民のために次のようなとりなしをしました。
「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(出32:31~32)
モーセのこの祈りはまさにいのちがけのとりなしです。そのとりなしによって民全員が滅びることはありませんでしたが、三千人の者はその罪のために倒れました(※後に、律法が与えられたとされる五旬節の時に聖霊が注がれたときは、三千人の者が救われています。非常に対照的な出来事です)。
(3) 使徒パウロ
モーセのような自分のいのちをかけたとりなしは、使徒パウロに受け継がれています。パウロは異邦人の救いのために福音を伝えるよう主に召された人物です。自分の同胞であるユダヤ人にも福音を語りましたが、なかなか信じる者は少なかったようです。パウロもこのことに心を痛めていたのです。そのパウロが次のような祈りを記しています。
「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。」(ローマ9:2~5)
特に、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」というところは、モーセと同じ心です。それほどにパウロはユダヤ人の救いを願っていたのです。
2. エルサレムの悲惨は「破れ口に立つ者」がいなかったこと
【新改訳改訂第3版】エゼキエル書 22章30節
わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。
- 主が、御前で石垣を修理し、破れ口に立つ者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかったという事実こそ、エルサレムとその住民にとって最も不幸なことでした。預言者エレミヤはエルサレムにおり、そこで最後まで主のことばを語っていましたが、人々は彼の語ることに耳を貸さず、むしろ彼を迫害しました。それゆえ主はエレミヤに対して、「この民のために幸いを祈ってはならない。断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。(何をしても)受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らをことごとく絶ち滅ぼす」と語られました。このようにとりなしの機会を拒絶されてしまうこともあるのです(14:11)。
2013.6.7
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