瞑想を通して、自ら「問いかける力」を養う
7. 瞑想を通して、自ら「問いかける力」を養う
1. 「問う力」
- 神のみことばと向き合う瞑想において、「問う力」、「答えを見出す力」、「表現する力」、これらの三つの力はきわめて密接につながっています。「何か質問ありませんか?」という問いに対して、何をどう質問してよいかわからないということがよくあります。確かに、ある程度の知識がないと、質問したり、自ら問いかけたりすることはできません。たとえ問うたとしても、それに対する答えをどのように見出したらよいかわからないために、やがては問うことすらしなくなってしまうことになります。このようにキリスト者が、自ら考えることをしなくなるとしたなら、神との親しい交わりおける大きな欠損を招きます。そして、指導者の言うことを自ら確かめることもなく、受け入れてしまい、カルト集団となる危険性があります。
2. 「みことばに聞く」ことの難しさ
- 「みことばに聞く」ということは一見簡単なようで決して簡単ではありません。なぜなら、祈りとしての瞑想は、ただ単に神から一方に聞かされるということではないからです。その最初の難関は、国語的能力の問題です。たとえば、詩篇の中には「わたし」、「あなた」、「彼」、「あなたがた」、「彼ら」といった人称代名詞が多くでてきます。これらの人称代名詞がいったいだれを指しているのか、ひとたびピントが外れてしまうとそのテキストそのものが理解できなくなってしまいます。これは信仰以前の問題で、国語能力のレヴェルです。次の難関は、たとえ国語能力があったとしても、神のことばは正しく理解できないという点です。つまり、信仰的な視点がないと正しく理解することはできません。しかしそのレヴェルにおいても、心に響く声が、果たして、自分の心の思いの声なのか、それとも神の声なのかよく分からないということです。それを吟味するためには、時間をかけた修練が必要、としか言いようがありません。
3. 自ら「問いかける」力を養う

- その修練のひつとは、瞑想を通して、自ら「問いかける」ことを通して養われると信じます。神の語りかけを正しく理解し、正しく受け取るためには、また、その真意を悟るためには、みことばに対して「問いかける」という主体的、自立的姿勢が必要です。これは果たしてどういう意味か、どんな意図で語られているのか。自分に問いかけ、神に問いかけ、あるいは他の人にも問いかけることを恐れてはなりません。そうでなければ、神のみことばは浅薄な理解にとどまってしまいます。
- その意味では、「ベレヤ」の信者は良い模範というべきです。べレヤの信者は、熱心に聴くだけでなく、「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒17:11)とあります。聞いたことをそのまま鵜のみにせず、自分で聖書を検証しようとしたのです。これは決して不信仰な行為ではなく、やがては主体的、自立的な信仰を建て上げていきます。私たちも目指すところはここに立つ必要があるように思います。そして、この点にこそ、「霊性の回復セミナー」の目的があると信じます。
2010.7.17
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