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王として生まれたイエス・キリスト

1. 偉大なる王として生まれたイエス・キリスト

【聖書箇所】マタイの福音書 1章1節~17節

はじめに

  • イエス・キリストの誕生を告げるマタイの福音書の中に、特に、イエス・キリストの系図の中に大切なメッセージを伝える象徴的な数字が出てきます。その数字とは、「14」です。この数字が何を意味するのか。もし「14」という数字が象徴としての数字であるならば、そこに込められている深い意味が隠されているはずです。そしてそれを書いたマタイという弟子は、その数字を使うことで、それを読む人々に隠されたある重要なメッセージを告げていることになります。

1. マタイがこだわった「14代」の「14」という数に込められた意味

  • マタイ1章1節にはこうあります。
    「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」。そしてその系図が綴られて行って、最後の17節では次のようにまとめています。「それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で14代、ダビデからバビロン移住までが14代、バビロン移住からキリストまでが14代になる。」
  • しかしこの系図を正確に調べていくならば、決して14代という枠には収まることはできないのです。もっと多くのダビデの子孫がこの系図に入って来なければなりません。ところがマタイは、アブラハムから始まってイエス・キリストに至るまでの系図を、意図的に、14代ずつに区切って三つの区分にしているのです。とすれば、そうする意図は何なのでしょうか。ここに「14」という数に象徴的な意味合いが込められているのです。
  • 聖書の中で「14」という数字が象徴的な意味をもっているのは、実はここだけです。ヤコブがラバンの娘レアとラケルを自分の妻として娶るために14年間、一人につき7年間、ふたり合わせて14年間を無償でラバンに仕えたということが創世記の中に出てきますが、これは必ずしも深い象徴的な意味で使われているとは思えません。確かに「7」は「完全数」ですから、ヤコブは二人の妻のための完全な代価を払ったのだと言われても大して驚きません。新約では使徒パウロがローマ行きの船に乗っていたときに暴風に遭って船が難破して14日間漂流したということがあります。そのため二週間何も食べたり飲んだりできない日々が続いたことが「使徒の働き」に記されていますが、確かに長い漂流ではありましたが、この場合も14日間という数字に隠れたメッセージ性をもっているようには思えません。
  • しかし今、ここで注目しようとしているマタイの福音書の1章の「14」という数字は、マタイが特別にこだわり、特別に意識して記した隠されたメッセージとしてのシンボリックな数です。
  • マタイの福音書が記す系図の中に多くの名前が登場します。アブラハムから始まって、イサク、ヤコブ、ユダとつながっています。ここにはヤコブの12人の息子の中でただユダの名前だけが記されています。そしてそのユダから出てくる人の名前が記されて、第一区分としてはダビデにまで至っているのです。ここには、かつてイスラエルの人々をエジプトから導き出した偉大な指導者モーセの名前はありません。また、約束の地カナンへと侵入して、そこを占領したモーセの後継者ヨシュアの名前もありません。最後の士師であり、預言者でもあったサムエルの名前もないのです。なぜでしょう。その理由は、彼らがユダの子孫ではないからです。
  • さて、アブラハムからダビデにまで至る(2~6節)中で、他の人とは異なった表現で記された名前があります。それは6節の「ダビデ王」です。他の人々はただ名前だけが記されているのに、ダビデだけが特別に「ダビデ王」と記されているのです。「王」という称号がつけられているのです。これはマタイが意図的につけたものです。ギリシア語の「王位、王の統治、王の支配」を意味する「バシレイア」ということばがダビデにつけられて「ダビデ王」となっているのです。
画像の説明
  • ダビデという名前はヘブル語で右図のように書きます。右から読んでも左から読んでも「トマト」「山本山」のようにシンメトリックな三つのアルファベットが並んでいます。ヘブル語の場合は、アルファベットがそのまま1, 2, 3・・という数を表わします。ですから、「ダーレット」(ד)は4、「ヴァヴ」(ו)は6、そして「ダーレット」(ד)は4ということで、その数を合計すると14になるのです。
  • いわばマタイ1章の系図が14代ずつ区分されているのは、ダビデ、しかも「王としてのダビデ」が意識されているのです。あのダビデ王のような方が王として再びこの世に生まれたことを宣言しているのです。その王(メシア)となるべき方はイエスという方だということを強調しているのです。
王の系図
  • ダビデは旧約時代において、輝かしい神の王国を築いた理想的な王です。イスラエルの王制の理念は、他の国とは異なり、王はあくまでも真の王である神の代理でしかないのですが、その代理的王としてきわめて神のみこころにかなった人物なのです。神はこのダビデを通してイスラエルに神ご自身の支配を(統治)を実現なさいました。ダビデの時代はイスラエルの歴史において最も栄えた時代、興隆をきわめた時代でした。それが第一区分です。

2. 神の王国の歴史(第一から第三区分の歴史の特徴)

  • 神はアブラハムを選び、召し出して彼を通してすべての民が祝福を受けることを約束されました。また、アブラハムから多くの子孫が与えること、またカナンの地を与えることも約束されました。
  • 神はその約束を少しずつ準備されていかれました。ヤコブとその家族をエジプトに移り住ませてから400年間に、何百万人とその数は増え広がりました。そして神はエジプトから彼らを救い出して、彼らをご自分の民としたのです。シナイ山のふもとで、神とイスラエルの民は合意に基づく契約を交わし、神はイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となったのです。そして神が彼らの王として統治するために、彼らが神の民としてふさわしく生きられるように、神の律法を与えました。
  • 神が王としてイスラエルの民を治めるためには、王である神がこの地において統治するためには、以下の三つのことが不可欠です。
    王の統治の要素
    王の統治の要素
    (1) 王の民の存在が必要です。それはクリアしました。エジプトで奴隷となって苦しんでいたイスラエルの人々を神は救い出して合意の元で神の民となることを約束したのですから。
    (2) 領土については、やがてヨシュアを通して与えられます。
    (3) 神の定めた律法の賦与です。この律法は王の法であり、王の憲章です。これがなければイスラエルの民は烏合の衆でしかありません。
  • 神の法に基づいて生きるとき、民はこの世において神をあかしする偉大な民となるはずでした。ところが、時代が進むにつれて、イスラエルの民は他の国と同じように、自分たちも人間の王を立てたいと願ったのです。周囲の国々との戦いに備えて、いつでも戦える人間の王が必要だと考えたのです。最初は預言者のサムエルは神が王としてイスラエルを治めているのに、ということで受け入れませんでしたが、神はサムエルに民の要求を受け入れるように指示しました。と同時に警告も与えたのです。つまり、人間の王を立てるということは、その王にしたがって戦う兵士に徴兵されるのはあなたがたの息子たちだよ、また立派な宮殿に住む王のその王宮やそこで働く多くの人々のために、多くの税金を支払うのはあなたがただよ、それでもあなたがたは人間の王を立てることを望むのかと。人々はそれでもほしいということで、神は許可したのです。しかし、イスラエルに王制を導入するにあたって、イスラエルの王はあくまでも神の代理者であるという厳しい条件が与えられました。
  • ダビデという人はイスラエルにおいて理想的な王となり、神が約束されたカナンの地をイスラエルに従わせ、ダビデの息子のソロモンの時代には神がアブラハムに約束された土地をほとんど手に入れたのです。ダビデの治世はイスラエルの時代の中で最も興隆した時代でした。ダビデもそして続くソロモン(その半生のみ)は神の律法にしたがって歩んでいたのです。ところが、ソロモンの治世の後半から少しずつ、神の律法から自由になることを選び、神の王国としての機能不全を引き起こします。そしてやがて衰退へと下降線をたどるようになり、やがては神から与えられた国を失い、また神を礼拝する神殿も焼き払われます。人々はバビロンの奴隷となり、最初は有能な人々から連れて行かれ、その後に大勢の人々が連れて行かれました。これが第二の区分です。この時代にイスラエルの王制は完全に崩壊しました。
  • 第三の区分は、バビロンの捕囚となったユダ族の民がそこで三世代に渡って、神から与えられた律法のすばらしさに目が開かれていきます。詩篇1篇や詩篇119篇はまさに神の民が神の律法(トーラー)のすばらしさに目が開かれた喜びを表現しています。たとえば、119:47,48「私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。私は私を愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めましょう」とあります。「思いを潜める」とは瞑想するという意味の用語です。
  • このようにバビロン捕囚の期間は神の民が神の律法のすばらしさに目が開かれて神の民としての機能を回復していきます。その霊的なエネルギーは「ユダヤ教」と呼ばれる新たな神の民としての形をなしていきます。これが回復へと向かう第三の区分です。しかしながら、神の統治としての「領土」が回復されなかったことと、もうひとつは神の律法が人間的解釈によって本来の意味をゆがめたことなどによって、回復の道はとどまってしまっていたのです。そこに回復の最後の切り札としてイエス・キリストが誕生してくるのです。
  • つまり、イエス・キリストの誕生はイスラエルのまことの王(メシア)として国を再興するために来られた方であるというのがマタイが最も強調したいメッセージと言えます。マタイはユダヤ人向けに書かれた福音書です。ですから、神の民として選ばれたユダヤ人が優先です。とはいえ、このマタイの系図には異邦人の女性たちが組み込まれており、神の国の支配がやがて異邦人にまで及ぶことを示唆しています。
  • マタイが14代、14代、14代とその数にこだわって三つの区分に分けたのは、イエス・キリストがダビデ王の子孫として来られた王であること、ダビデに勝るまことの王であるという象徴的メッセージが込められています。

3. イエスは王として何をされ、何を語った(教えた)のか

  • イエスが公の生涯へと入られた時、最初に語ったことはなんだったでしょうか。それは「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」でした。イエスは機能不全に陥ってしまった「天の御国」を回復するために来られました。マタイの福音書はユダヤ人たちに向けて語られましたので、「神」ということばを使わずに「天」ということばを代わりに使いました。ですから「天の御国」とは、「神の国」と全く同じことを意味します。「天の御国が近づいた」とは神の統治、神の御支配が本来の形でなされる時が近づいたことを示す呼びかけの表現です。
  • 神の統治には三つのことが必要です。民の存在、そして王が民をご自分の民として治めるための法としての「律法」、そして、領土―この三つです。最後の領土は、イエスの時代には奪回されませんでしたが、神の回復のわざとしては、イスラエルの民をご自身の民として整えることから始められました。具体的には、神が回復する新しい王国に住む民の持つべき法から教えられました。5~7章の山上の説教はその法についてのイエスの教えです。長い間、神の法である「律法」は人間の解釈によって歪められていました。それゆえ、イエスは本来神が意図した法の解釈をし、その律法に基づいて生きるべきことを求めたのです。
  • ですから、イエスは律法を廃棄するために来たのではなく、その正しい解釈を語りました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためでなく、成就するために来たのです。まことにあなたがたに告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でもけっしてすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さなものの一つでも、これを破ったり、また破るように教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で偉大な者と呼ばれます。」と語られました。そしてイエスは続いて「昔の人々に・・・してはならないといわれたのをあなたがたは聞いています。しかしわたしは・・・・」だと逸脱してしまった神の律法の正しい解釈を語ったのです。
  • 王が権威をもって統治されるためには王の法が必要です。イエスの到来は、まず王である神の法の完全な成就に向けての改善からなされました。そしてさらには神の王国とはいかなるものか、単なる概念ではなく、生きた神の支配であることを示すために多くの奇蹟をなされたのです。それはすべて本来の神の御支配を回復されるためです。
  • また、天の御国について多くのたとえを用いて神は語られました。その中には、神のご支配の特徴やこれからの進展について、またそこに入って住むことの幸いを語られました。人々はその権威あることばに驚きを示しました。その驚きは神の支配の中に生き、そして神の権威が与えられている現実をイエスのうちに見たからです。この現実を私たちが経験するためには、神から与えられる多くの恵みが必要なのです。私たちはイエスが来られた目的にしたがって、神の国と神の義をなによりも求めなければなりません。神の目に見える現実的な御支配と神との生きた親しいかかわりを意味する義をなによりも、第一に求めなければならないのです。なぜなら、そこに神の力と権威が望んで、この世に神を証しすることができるからです。
  • イエスが来られたのは、神である王が与えた律法を廃棄するためではなくて成就するために来られました。ですから、神の律法に従う力が必要です。しかしそれは今やすでに聖霊によって備えられているのです。「求めなさい。求め続けなさい。そうすれば、必ず、与えられます。捜し続けなさい。そうすれば、必ず、見つかります。叩きなさい。そうすれば、必ず、開かれます。」と主は約束しておられるのです。天の父は与えることを喜びとする父です。しかし、ここでイエスは「求めること、捜すこと(尋ね求めること)、叩くこと」が大切であることを強調していておられるのです。
  • イエスはしばしば天の御国のたとえ話をされるときに、繰り返し、繰り返し、「耳のある者は聞きなさい」とか、「聞き方に注意しなさい」と言われました。なぜならそれに関心を持つ者に神はさらに多くの深いことを教えられるからです。反対に、関心のない者に対しては神の国の奥義は閉じられているのです。ですから、「求めなさい、求めつづけなさい。探し続けなさい。叩き続けない」という求道心を煽っておられるのです。そして求める人には、神の恵みによって、さらに多くの霊的な光が与えられ、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、You shall love God. あなたは神を愛するようになる」者としてくださるのです。
  • 「心を尽くして」とか、「思いを尽くす」とか、「力を尽くす」というのは、命令されてできることではありません。命令にはむしろ恐れが先立ちます。愛の関係は強制や義務としてできることではありません。愛には自発性、主体性が不可欠です。
  • 私たちが「主の語られる神の法(律法)にしたがって生きること」と、「神の国とその義を求めること」とはまったくイコールです。そしてそこに王としての神の権威が注がれ、この世において私たちは王である神をあかしするようになります。そして私たちは神にとって「宝の民、祭司の国、聖なる国民」となることができるのです。「聖なる国民」とはこの世の基準やこの世の価値観によって生きる民ではなく、どこまでも王である神の与える法、律法によって生きる存在です。御国の民となるためには、御国の王が与える法にしたがって歩む必要があるのです。
  • 神は神の律法を私たちの心に刻むことのできる方であり、そのための驚くべき恵みをすでに備えておられます。ですから求める必要があります。私たちに神の権威と力が与えられるのはそうした歩みをしようとする者に対してなのです。

おわりに

  • 2011年のクリスマスを迎えるに当たって、私たちはキリストにあって王の民となっているのか、王の民となって祝福されているのか、あるいは、祝福されたいと思っているのか、思っていないのか。態度をはっきりと決める必要があります。そうするならば、この世のクリスマスとは全く異なるクリスマスを迎えることができると思います。
  • マタイの福音書2章に東方の博士が星に導かれて、王となられた幼子の前に黄金、乳香、没薬をもって礼拝するためにやってきました。今や、「教会でもクリスマスするんですか?」というご時世です。あまりにも世俗化してしまっている今日のクリスマスに対して、主にあるひとりひとりが静まりの時を過ごしながら、まず自分に向かって、先の問いかけに真摯に答えなければならないのではないかと思います。

2011.11.28


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