****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

朝ごとの感動を大切に

7. 朝ごとの感動を大切に

(1)

  • 詩篇の瞑想においてなくてはならない楽しさは、朝ごとの新たな<霊の感動>です。それは聖霊の働きによるものであり、主を慕い求めるすべての者に約束されたものです。毎朝の感動がさらに主を求めさせるのです。この感動がないと、瞑想を続けることは次第に難しくなります。日ごと、朝ごとの霊の感動はおのずと私たちのライフスタイルに大きな影響力を与えてゆきます。
  • 人には、それぞれの思考パターンがあると言われます。大学でも、文系、理系という言い方があるように、物事を認識するのに、直感で理解するタイプと、論理で理解するタイプがいます。私はどちらかというと直感型です。このことが分かったのは、神学校のある教授から、「君の答案は、直感型だね。もっとよく分かるように論理的に書きなさい。」と言われてからです。直感型は、言語ではなく、音楽とか絵画等で表現する場合にすぐれていますが、言葉を使って相手に分かるように説明することには不得手なタイプです。私は、今も、直感型だと思っていますが、人に説明したりする立場にいるせいか、言葉で説明する訓練を余儀なくさせられました。しかしそれはそれでよかったと思っています。私たちの脳には右脳も左脳もあるのですから、その双方を使いながら、感動を味わい伝えていきたいものです。

(2)

  • 詩篇を瞑想していくなかで、ある種の<驚き>を感じることはとても重要なことだと思います。<驚き>は魂の感動であり、いのちそのものだからです。学問の世界においてもそれが言えると思います。ある種の<驚き>が、「なぜ」「どうして」という問いをもたらし、その問いは探求への意欲をもたらします。そしてその探求への意欲がやがて新しい発見につながるのです。詩篇には、神と人との豊かな交わりのいのちが記されています。そこに感動を感じることなしに、詩篇の瞑想を続けていくことはできません。<驚きと感動>は聖霊が神を尋ね求める者に必ず与えてくださるプレゼントです。
  • 詩篇には、神と人との交わりの神秘が隠されています。私たちが詩篇を瞑想するその目的は、その<驚きと感動>を追体験するためです。そしてより深い、神との交わりへと導かれるのです。<驚き>はさらに神を求めさせます。<感動>だけが自分の心を満たし、その感動は多くの人にも分かち合われるものとなります。注解書でことばの意味を知るだけでは、その感動は得られません。やはり、それぞれ自ら祈りながら、詩篇の世界に飛び込んでいくことだと信じます。霊的な驚きと感動が、日ごとに(毎朝)、新しく与えられるようにと祈りながら、瞑想の旅を続けるものでありたいと思います。

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