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最も聖なるもの(「コーデシュ・コダーシーム」)

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レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

10. 最も聖なるもの(コーデシュ・コダーシーム)

ベレーシート

  • レビ記10章後半(12~20節)には、特徴的な語彙が2回登場します。それは「聖」を意味する「コーデシュ」(קֹדֶשׁ)が重複している形で「最も聖なるもの」を意味します。今回はこの「コーデシュ・コダーシーム」に心を留めてみたいと思います。

1. 祭司の務めにおいて「聖なるもの」と「最も聖なるもの」の区別

画像の説明

【新改訳改訂第3版】レビ記 10章12節
そこで、モーセは、アロンとその生き残っている子のエルアザルとイタマルに言った。「【主】への火によるささげ物のうちから残った穀物のささげ物を取り、パン種を入れずに祭壇のそばで、食べなさい。これは最も聖なるものであるから。

【新改訳改訂第3版】同、 10章17節
「どうして、あなたがたは聖なる所でその罪のためのいけにえを食べなかったのか。それは最も聖なるものなのだ。それは、会衆の咎を除き、【主】の前で彼らのために贖いをするために、あなたがたに賜ったのだ。

  • 最も聖なるもの」というフレーズは旧約で25回。うちモーセ五書の中では23回使われています(創世記0回、出エジプト記5回、レビ記13回、民数記5回、申命記0回)です。特に、レビ記は「聖なるものと俗なるもの」「きよいものと汚れたもの」とを区別すべきことを強調しています。単に「聖なるもの」ではなく、何が「最も聖なるもの」であるか、それを知ることを、主は祭司たちに求めておられます。すでに、アロンの上の二人の息子たちは「異なった火」を理由に焼き尽くされています。このことは、神の民が「聖」に対してより敏感な感覚を身に着け、決して狎れ(なれ)ることがないための教訓的出来事でした。また、祭司の務めをする者たちが会見の天幕に入って行くときにぶどう酒や強い酒の飲酒を禁じているのも、「聖」の感覚を鈍らせないためです(10:8~11)。
  • レビ記10章(12, 17節)にある「最も聖なるもの」とは、「罪のためのいけにえ」と「穀物のささげ物」のことです。全焼のいけにえはそれ自体が「最も聖なるもの」であるので、それは省略されていますが、しかしここでは「罪のためのいけにえ」と「穀物のささげ物」も「最も聖なるもの」であることが明記されています。14章13節では「罪過のためのいけにえ」も祭司のものとなる「最も聖なるもの」と明記されています。24章9節では安息日ごとにささげられる12個のパンも、アロンとその子らのものとなる「最も聖なるもの」と明記されています。27章では主のために聖絶すべきものはすべて「最も聖なるもの」であり、それを売ったり、買ったり、できないことが明記されています。
  • すべて神とのかかわりの中で、「最も聖なるもの」を祭司の都合で、自由に取り扱ったりすることができないことが明記されています。それゆえ祭司たちは、全焼のいけにえ以外は「最も聖なるもの」を食べなければならないのです。ただし、「和解のいけにえ」の中から与えられるものについては、ささげた人も祭司も共に食べるので、「最も聖なるもの」と明記されていません。つまり、「最も聖なるもの」とは、神と人との仲介の務めをなす祭司にのみに適用されている事柄であり、いけにえを食べることによって贖いが成立するからなのです。

2. 神が「聖」であるゆえに、神の民は「区別(聖別)すること」を学ぶ

  • 「祭司にのみに適用されている事柄」とそうでないことが区別されています。この「区別」が聖書全体の中でとても重要であるのは、神ご自身が「聖」であられることと密接なつながりがあります。


2016.5.21


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