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新しい天と新しい地 (2)

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14. 新しい天と新しい地 (2)

「御顔を仰ぎ見る世界」
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【聖書箇所】ヨハネの黙示録21章1~22章4節

ベレーシート

  • 黙示録21章と22章に記されている永遠の御国の内容は、旧約にはない、新約独自の預言が含まれています。それは、「天から下ってくる新しいエルサレム」という概念です。そこには御座があり、すべての時代における神の民がいるということです。
  • 「百聞は一見にしかず」ということばがありますが、永遠の御国は、実際に見てみなければ分からないことが多くあります。しかし、はっきりしていることは、永遠の御国は色彩豊かな、極めてカラフルな世界であるということと、「神の御顔を仰ぎ見る」世界だということです。今回の焦点は、後者の「神の御顔を仰ぎ見る」世界ですが、前者のカラフルな世界である「新しいエルサレム」の概要についても見ておきたいと思います。

1. 聖なる都、新しいエルサレムの概要(規模)

【新改訳改訂第3版】黙示録21章10~21節

10 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。
11 都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った 碧玉のようであった。
12 都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。
13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14 また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
15 また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。
16 都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
17 また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。
18 その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。
19 都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、
20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21 また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラス
のような純金であった。

(1) 正四方形の大きさ(規模)

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  • 聖なる都(新しいエルサレム)は、長さも幅も高さも同じ正四方形です。御使いの持っている金の測りざおによれば、一辺が一万二千スタディオン。これを現代の寸法に直すと、2,220kmになります。右図は日本の中心である東京から1,000kmの距離がどのあたりかを示しています。2,220kmはその倍以上です。もし、東京を中心にして半径1,110kmの円を描くならば、日本はその円の中にすっぽりと入ってしまうほどの大きさになります。このような建造物はこの地球には存在しません。しかし、新しい天においては、それがすでに存在しているのです。ヨハネはそれを見たのです。そして、やがてそれが新しい地に降りてくるのです。
  • なぜ、正四方形なのでしょうか。すべて意味があります。それは、聖なる都が旧約の幕屋における至聖所の部分だからです。至聖所は正四方形でした。そこは神と人とが唯一交わることのできる神聖な場所でした。

(2) 都は透き通った金の壁で造られている

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  • 18節には「その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。」とあります。御使いがその城壁を測ると(おそらく、城壁の厚さのこと)、人間の尺度で百四十四ペキスあった。これが御使いの尺度でもあったとあります(17節)。144ペキス(1ペキスは約45cm)は、現代の尺度では約65mです。分厚い壁です。

(3) 12の門にはイスラエルの部族の名がそれぞれ記されている

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  • 13節には「東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。」とあります。そしてその門にはイスラエルの12の部族の名前が記されているのです。黙示録においては、12部族の並びの配分は記されていませんが、旧約の幕屋の周辺に宿営した各部族の配置が天の都の写しとして啓示されたと考えるならば、以下のような配列となっているはずです。東側の門(イッサカル族―ユダ族―ゼブルン族)、北側の門(アシェル族―ダン族―ナフタリ族)、南側の門(シメオン族―ルベン族―ガド族)、西側の門(マナセ族―エフライム族―ベニヤミン族)。新しい天と新しい地においては、それまでの秩序が変わっているのです。⇒「大祭司のエポデの配列における石と新しい都における土台石」
  • しかも、それぞれの門には御使いがいます。

(4) 城壁の土台石は12の宝石で飾られている

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  • 都の土台石は12の宝石で飾られています。東にある第一の土台石は「碧玉」、第二は「サファイア」、第三は「玉髄」、北の第四の土台石は「緑玉」、第五は「赤縞めのう」、第六は「赤めのう」とありますが、名前は同じであっても、色はしばしば異なることがあるようです。幕屋で使えた大祭司の胸板(エポデ)には12の宝石がはめ込まれています。出エジプト記28章17~20節には以下のように記されています。
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17 その中に、宝石をはめ込み、宝石を四列にする。すなわち、第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。
18 第二列はトルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド。
19 第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶、
20 第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。これらを金のわくにはめ込まなければならない。
21 この宝石はイスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。十二部族のために、その印の彫り物が一つの名につき一つずつ、なければならない。」

  • ちなみに、「飾られる」というギリシア語は「コスメオー」(κοσμέω)と言い、「化粧品」の語源ともなっています。                 
  • それぞれの土台石には、「小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった」とあります。門に記されたイスラエルの12の部族の名前と土台石に記された12使徒の名前が記されていることで、旧約と新約がつながります。

(5) 真珠で出来ている門

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  • 12の門はどの門も桁外れに大きい一つの真珠で造られています。その真珠の門を通って都に入ります。なぜ、門に真珠があるのでしょう。イェシュアが語ったたとえ話の中に「畑に隠された宝」「良い真珠を捜している商人」のたとえがあります(マタイ13:45~36)。いずれも、「自分の全財産を売り払ってでも得る価値があることを知っている者がいる」という教えです。つまり、天の御国はそのような隠された宝、良い真珠を熱心に捜している者たちのいる世界なのです。そのことを象徴しているのが入り口の大きな真珠の意味だと考えられます。
  • この真珠の門は一日中決して閉じられることはありませんが、そこを通ることのできる者は、真に価値あるものを見つけ出した者、すなわち、「小羊のいのちの書に名が記されている者だけ」です(黙示21:27)。

(6) 都の大通り

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  • 真珠の門をくぐると、そこに開かれてくるのは、21節にあるように「都の大通り」です。そこは透明なガラスのような純金の道です。
    「透明な」(「ディアウゲース」διαυγης)ということばはこの箇所にしか使われていません。この世のものではない光景だということです。

(7) 都の光

  • 聖なる都、新しいエルサレムには神殿はありません。なぜなら、「万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからです。」(22節)。かつての聖所(幕屋、神殿)は、神と人との会見の場所として備えられていましたが、新しいエルサレムにおいては、そこに、神と人とが常に共にいるので聖所は必要ないのです。
  • また、11節で「都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った 碧玉のようであった。」とあるように、「神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかり」であるゆえに、太陽も月も必要がないのです。歴史の中で特別に現わされた神の臨在を現わす「シャハイナ・グローリー」が永遠に輝くようになるからです。また、「諸国の民が、都の光によって歩む」ようになります(24節)。

(8) いのちの水の川

22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。

  • 都の中には、水晶のように光っている「いのちの水の川」が流れています。創世記2章では、「一つの川」がエデンの園を潤すために流れ出ていました。ゼカリヤ書では「その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て」(14:8)とあります。これは千年王国において成就します。預言者エゼキエルも、神殿の敷居の下から流れ出る水の流れを見ています。足首からひざに、ひざから腰に、そして、泳げるほどの川となり、その川の流れ行く所は、すべてのものが生きるようになりました。それも千年王国において実現します。イェシュアは、仮庵の祭の終わりの日に、エルサレムに集まった人々に向かって「だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)と言われました。その「生ける水」は、教会時代にも、また千年王国においても流れ出るようになりますが、新しいエルサレムにおいては、「神と小羊との御座」から流れ出るのです。
  • ちなみに、教会の歴史の中で、聖霊は「御父」から出たのか、あるいは「御子」から出たのか、それを巡る議論で教会が東西に分離しました。やがて、ニカヤ公会議では「聖霊は、御父と御子より出で」と宣言されました。
  • エゼキエルの場合も、イェシュアの場合も、「生ける水」というのは「聖霊」のことを意味しています。その聖霊なる「生ける水」は、神と小羊との御座(単数)から流れ出て、都の大通りの中央を流れるのです。聖霊が働かれるので、神と人とをつなぐすべての必要が永遠に満たされるのです。永遠のいのちを生きるためには、この生ける水が必要なのです。新しい天と新しい地には「海」はありませんが、「いのちの水の川」はあるのです。しかも、水晶のように光りながら、都の大通りの中央を流れているのです。このような形で三位一体なる神が存在しておられるのです。

(9) いのちの木

黙示録22章2節
・・・川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

  • いのちの川が流れるその川の両岸には、それぞれいのちの木(単数)があり、月替わりで12種の実(単数)がなります。いのちの木の実と、いのちの木の葉(複数)は聖徒たちを元気づけます。「いやした」ということばから、永遠の御国でも病気があるのかと思われるかもしれませんが、それはありません。いのちの木の葉によって、より神に仕える霊的な力が与えられるものと考えられます。なぜなら、新しいエルサレムには「もはや、のろわれるべきものは何もない」(22:3)からです。創世記3章以来の罪と死の力は一掃されて、失われたエデンの園の回復が完全に実現します。それは、神が人間を創造した本来の目的が実現することになると言えます。

2. 御顔を仰ぎ見る

【新改訳2017】黙示録22章3~4節
・・神と子羊との御座が都の中にあり、そのしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名がついている。

  • 神が人間を創造した本来の目的とは、22章4節にある「御顔を仰ぎ見る」ということばに要約されます。
  • 罪を犯したアダムとエバは、「神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠し」(創世記3章8節)ましたが、新しいエルサレムにおいては、一切の恐れは愛によって締め出され、「神の御顔を仰ぎ見る」ようになるのです。これは、イェシュアが言われた「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです(未来形)」の完全な成就です。また使徒パウロが、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(Ⅰコリント13章12節)と記した希望の完全な成就です。
  • 神の最終的な救いの目的は、「神の御顔を仰ぎ見る」ことにあります。これは旧約時代にはあり得なかったことであり、モーセでさえ神の後ろ姿を見ただけでした。「神の御顔を仰ぎ見る」ことと、3節で記されている「しもべたちは神に仕え」とがどのようにつながるのでしょうか。

(1) 神に仕えるしもべ

  • 「しもべ」ということばにつまずくことがないようにしましょう。永遠の御国に行っても、「しもべ」として神に仕えることになるのかと思われる方もいるかも知れませんが、イスラエルの歴史において、「しもべ」という称号は「最高の称号」であるということを理解する必要があります。義務的な「しもべ」ではなく、自由で主体的なしもべなのです。イェシュア自身も神のしもべとしてこの世の旅路を全うされました。それゆえ、御父は御子にすべての名に勝る名を与えて高く引き上げられました。神に仕える「しもべ」とは、自由と喜びに輝く存在を表わす語彙なのです。

(2) 御顔が意味すること

  • 永遠の御国では、神と「顔と顔を合わせる」(face to face)永遠の交わりがあります。「顔と顔を合わせて」神と交わるということは、神の子どもとされた者の特権です。今日神に関するたくさんの知識がありますが、それでもすべての神の子たちが神との直接的な交わりを持つほどに神を知っているわけではありません。しかし、永遠の御国では神を目の当たりに見るのです。
  • 教会やシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の礼拝の最後でしばしば繰り返されている「アロンの祝祷」があります。
    民数記6:24 ~26
    【主】があなたを祝福し、あなたを守られますように。
    【主】が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
    【主】が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
  • ここでは、「御顔」という言葉が繰り返されています。この祝祷では「祝福を受ける者の上に、神が御顔を照らしてくださるように」と祈っています。この「主が御顔をあなたに照らされますように」というフレーズはユダヤ的な表現です。この表現には「主があなたの方に振り向き、再び注意を払ってくださるように」という意味があります。なぜ御顔なのでしょう。聖書では「顔」というイメージをどのように用いているのでしょうか。
  • 顔つき(顔の表情)は、私たちがどのような者であるかということに関係し、私たちの感情、ムード、性質など、内面で起こっていることを反映します。「心に喜びがあれば顔色を良くする」(箴言15:13)とあるように、幸せなときにはその人の顔は輝き、逆に、悪いことをしたときにはこわばった表情にもなります。カッとなって怒りを表した顔もあれば、悪巧みのない内面の無垢な心を表す優しい顔もあります。つまり、内側にあるものが顔に映し出されるのです。
  • 「主が御顔をあなたに向けられますように」というフレーズは、微笑みをもって「顔を上げた」ことを意味しています。これは神の友情を表わす表現です。主はいつでも、どこでも、どんなときも、微笑みをもって御顔を私たちに向けておられるのです。ただ私たちの側が自らの犯した罪のゆえに、「主の御顔を避けて」いるにすぎないのです。御顔を避けて生きてきた私たちに、神はご自身が、キリストを通して、「顔と顔を合わせた」交わりを回復してくださったのです。したがって、黙示録の22章4節にある「神の御顔を仰ぎ見る」とは、神との永遠の友情の中に生きることを意味すると言えます。

(3) 御顔を仰ぎ見、慕い求めた模範者としてのダビデ

聖なる主の御顔を仰ぎ見つめれば すべては輝きに包まれます
あなたをあがめます  主に生かされているから

  • 「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。」(詩篇34篇5節)とあります。「神の御顔を仰ぎ見る」とき、私たちを囲むすべてのものは、主の光の中で色あせてしまいます。ダビデは、詩篇27篇4節で「私はひとつのことを主に願った。・・私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」と告白しています。「主の家に住む」とは、主を礼拝し、主を知ることによって、主との親しい交わりを意味します。その愛の交わりが私たちにいのちを与えます。ダビデはそれを意識的に、優先的に求めました。しかも、「私のいのちの日の限り」(詩篇23:6、27:4)です。ここにいつの時代においても模範とすべきダビデの霊性があります。
  • 「顔と顔を合わせる」親しい交わりを通して神の栄光が輝き始めます。このことは、私たちが罪の贖いを経験した後、さらに一段高いレベルヘと進む必要があることを教えています。神は私たちを、ただ罪から自由にするためだけに贖われたのではありません。神は、私たちが神との親しい交わりを持ち、顔と顔とを合わせて神を知るために、キリストを通して、私たちを新しく創造してくださいました。それが完全に実現する永遠の御国に向かって、私たちは今も旅をし続けているのです。

ベアハリート

  • 日々の礼拝(主日の礼拝)において、常に求められていることは、主の御顔の臨在です。御顔を見ることが礼拝の目的です。限りなき優しさと慰めに満ちた主の御顔の麗しさ、そうした主の御顔を仰ぎ見ることが出来るなら、すべてのものが色あせたものとなります。目に見えるものに動かされることはありません。ブレルことのない信仰を持って生きることができます。それゆえ、私たちは、ダビデの霊性に倣い、主の家に住むことを優先しながら、主の御顔を慕い求める者となれるよう祈りたいと思います、主によって贖われた者たち、主にあるすべての者たちの究極の存在目的は、まさにそのことにあるのですから。

2014.3.30


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