****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

救いの論証(1) 御霊による始まり


7. 救いの論証(1) 「御霊による始まり」

【聖書箇所】3章1~5節

ベレーシート

●今回取り上げる3章1~5節は、以下の6つの問いから成っています。
①1節「だれがあなたがたを惑わしたのですか。」
②2節「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」
③3節「あなたがたはそんなにも愚かなのですか。」
④3節「御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。」
⑤4節「あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。」
⑥5節「あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、
そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。」

●②と⑥とは言い換え表現です。主語が「あなたがた」から「神」に変わっただけです。そして、ここに最も重い問いかけがあります。3章1~5節以降は、2章15~21節で語られた福音の真理の論証となっています。

■ 3章1節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章1節
ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。

●「ああ、愚かなガラテヤ人」(新改訳2017)、「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ」(口語訳)、間投詞の「ああ」はギリシア語の「オー」()ですが、ヘブル語だと「アハー」(אֲהָהּ)です。驚きを表わす感嘆詞で、マタイ15章28節、17章17節などを参照こと。パウロはこの語彙を神のすばらしさに対する驚き(ローマ11:33)と共に、人の愚かさに対する驚き(ガラテヤ3:1)にも使っています。後者の驚きは、ガラテヤ人の信仰の誤りを正そうとするパウロの厳しい叱責を感じさせます。

●「ああ、ガラテヤの兄弟たち」ではなく「ああ、愚かなガラテヤ人」という、一見人格を無視したような表現は、教会がいのちを保つために必要な叱責として受け止められなければならないのです。ここに、パウロの教会に対する燃えるような使徒的熱心と牧会的配慮を見ることができます。

●「愚かな、頭の鈍い、無知な」(「アノヘートス」ἀνόητος)は、否定に表わす接頭語の「ア」()と「理性、理解力、真理を理解する能力」を意味する(「ヌース」νοῦς)が付いたものです。「ティス」(τίς)は疑問代名詞の「だれが」、「あなたがたを」の「ヒュマス」(ὑμᾶς)、「惑わした」の「バスカイノー」(βασκαίνωのアオリスト)。「惑わす」はこの箇所にしか使われていない語彙で、真理の福音から逸脱させようとすることです。

●「だれがあなたがたを惑わしたのですか。」という問いは、「十字架につけられたイエス・キリスト」、すなわち「十字架のキリスト」こそが、恵みによる新しい時代の到来を前提としていることであり、もしユダヤ教主義キリスト者のように割礼を肯定することは、この恵みの本質を否定することになり、古い時代に逆戻りすることを意味するのです。「救い」は、ただ信仰によって与えられるのであり、どんなにわずかであっても、律法の行為がその条件として入り込むことは許されないのです。パウロはそれを、全力をあげて拒否しようとしているのです。

■ 3章2節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章2節
これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

【新共同訳】ガラテヤ人への手紙3章2節
あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。

●新改訳2017は「これだけは、あなたがたに聞いておきたい」というところを、新共同訳は「あなたがたに一つだけ確かめたい」と訳しています。原文は「ウートス・ノモス」(οὗτος μόνος)で、「ただこのことだけ」です。「一つだけ」と訳した新共同訳は、それが最も重要な事柄だからです。そのことを「あなたがたから私は確かめたいと思っている」(「セロー・マセイン・アポ・ヒューモーン」θέλω μαθεῖν ἀφ' ὑμῶν)となっています。それは「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか」ということです。「エク・・・ヘー・エク」(ἐξ ・・・ἢ ἐξ )の「(~した)からですか。それとも(~した)からですか」の構文。この構文は5節にもあります。これは「あなたがたが御霊を受けたのは、信仰をもって聞いたからです」を引き出すための問いかけです。

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●この箇所で、ガラテヤ書で初めて「御霊」(「プ二ューマ」πνεῦμα)という語彙が登場します。ガラテヤ書では右の図のように14回。すべて「御霊」で使われており、「聖霊」という語彙は使われていません。今回の3章1~5節の中に3度も「御霊」という語彙が使われています。「御霊を受けた」のは、福音を聞いて、信じたからなのです。律法を行うことによっては御霊を受けることはできません。御霊は信仰による賜物なのです。この賜物は神の子とされた者に対する神からのプレゼント、御霊は「上からのもの」です。ですから、ローマ人への手紙8章15節にこう記されています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙 8章15節
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

●「御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます」とあります。御子イェシュアもそうでした。神のことを「父」と呼んでいたのは御子イェシュアだけです。イェシュアと私たち人間はどう違うのでしょうか。イェシュアは人間の父ヨセフの子ではなく天の父の子です。そのイェシュアの出生の秘密は彼が聖霊のプロダクトであったからです。神が本来、人(アダム)に与えた「いのちの息」(「ニシュマット・ハッイーム」נְשָׁמַת חַיִּים)=聖霊(「プニュウマ・ハギオス」πνεῦμα ἅγιος)がありました。それは動物とは区別される人間だけに与えられた特別な「いのちの息」です。最初のアダムは堕罪によってそれを失ってしまいましたが、最後のアダムであるイェシュアはそれを持っていました。ですから、御子イェシュアは神を父と呼ぶことができたのです。イェシュアの地上の生涯はすべて聖霊によって導かれました。イェシュアを信じる時に、私たちも子とする御霊を受けて、初めて神を「アバ、父」(「アッバ・ホ・パテール」Αββα ὁ πατήρ)と呼ぶことができるだけでなく、御霊に導かれる新しい者(存在)となるのです。

■ 3章3節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章3節
あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。

●「御霊によって始まったあなたがた」とありますが、これは終末論的な事柄であり、本当にすばらしい神のみわざです。「始まった」は「エナルコマイ」(ἐνάρχομαι)のアオリスト・中態で、この箇所とピリピ1章6節にしか使われていません。そこでは「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」とあるとおりです。事を始められたのは神ご自身です。つまり、神ご自身が事を始められたがゆえに、神の霊をいただいて、私たちが神の事をなすことが許されるのです。「神が事を始められる」ことと、私たちが「御霊によって始まる」こととは同義なのです。

●「御霊によって始まった」(ἐναρξάμενοι πνεύματι)ならば、御霊によって「完成されなければなりません」。しかし「御霊によって始まったあなたがたが」、「肉によって完成される」σαρκὶ ἐπιτελεῖσθε) なら、それは愚かなことであり、物分かりの悪いことなのです。「肉」(「サルクス」σάρξ)とは、人間的な判断に基づくもので、ここでは割礼とか儀式とか制度のことを指します。

■ 3章4節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章4節
あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。まさか、無駄だったということはないでしょう。

●御霊で始まったのなら、御霊によって完成されることは理にかなったことであり、徹頭徹尾、神によるもので、それは素晴らしい体験なのです。「無駄」と訳された「エイケー」(εἰκῇ)は「無意味」とも訳され、ガラテヤ書4章11節では、パウロが自分の労したことが「無駄だった」のではと案じている箇所で使われています。

■ 3章5節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章5節
あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。

●3節では「御霊によって始まったあなたがた」が主語でしたが、5節では「あなたがたに御霊を与える方」が主語となって置き換えられています。つまり、御霊を受ける側からの観点ではなく、御霊を与える側からの観点から述べられています。御霊を与える神は、あなたがたが、「律法を行なったから」か、福音を「信仰をもって聞いたから」か、ということを問うているのです。言うまでもなく、後者の方です。

●福音とは、神が御子イェシュアを通して語られた神の約束を聞いてそれを信じることです。また御子イェシュアの十字架の死と復活を通してなされた神のご計画を聞いてそれを信じることです。その信仰によって「御霊が与えられ」、新しい信仰生活の歩みが始まったとするならば、完成に至るまで神の約束を信じて歩むことが何より大切なのです。律法は人にそれを要求して従うことを命じますが、福音はキリスの十字架と復活によって神が成し遂げてくださったこと(罪の赦し、神の子としての特権、復活と御国の完成など)を信じる信仰を要求します。律法と福音とは互いに対立するものです。福音によれば、律法の要求は御霊によってのみ実現されるのです。

【新改訳2017】ローマ人への手紙8章3~4節
3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
4 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。


最後に (補足的説明)

1.「神との生きたかかわり」をもたらす「御霊」について

●旧約聖書においても、新約聖書においても、聖霊は「風」や「息」というシンボルで表されています。それは「神のいのち」そのものです。旧約聖書におけるヘブル語の「ルーアッハ」(רוּחַ)は、「霊」(spirit)「風」(wind)「息」(breath)と訳されます。「ルーアッハ」のもともとの意味は「移動する空気」(air in movement)で、空気が流れ動くことで、そこから自然界で吹き抜ける「風」の意味がもたらされました。一口に「風」といっても、穏やかな「そよ風」(創世記2:8)もあれば、林の木々が揺らぐような「風」(イザヤ7:2)もあります。また、船を難破させるような激しい暴風(ヨナ1:4)もあります。風はしばしば「神の奇しいわざ」を表わすときに神が用いられる手段です。

●旧約のヘブル語の「ルーアッハ」(רוּחַ)に相当するギリシア語は「プニューマ」(πvευμα)。ヨハネの福音書3章5~8節ではイェシュアが「御霊による新生」を風の働きにたとえています。「風(πvευμα)は思いのままに吹き、・・その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのかわかりません。は知らない。御霊(πvευμα)によって生まれた者もみな、それと同じです。」とあります。ここでイェシュアは「プニューマ」(πvευμα)を「風」と「聖霊」の両義を使い分けて、聖霊が風のように自由に働くことを語っておられます。風は目には見えませんが、その働きと効果は明瞭に観察されるのです。そのように、聖霊も思いのままに吹き、自由に働いて人を新生させるだけでなく、神とのかかわりの中に人を回復させ、刷新させる生ける力をもっているのです。

●創世記2章7節には「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息〔※〕を吹きこまれた。それで、人は生きるものとなった」とあります。いのちの根源としての「いのちの息」を吹き込まれることによって、人は神との人格的な交わりを持つことのできる特別な能力を与えられました。それは神のかたちにかたどって造られた人間だけに与えられたもので、神とのかかわりにおいて、神の愛や罪の赦しを受けて喜ぶことのできる能力を意味しています。

●〔〕創世記2章7節で使われている「いのちの息」の「息」はヘブル語の「ネシャーマー」(נְשָׁמָה)で、狭義的な意味で、神から出るいのちの「息」を表します。それに対して「ルーアッハ」(רוּחַ)は広義的です。「ネシャーマー」(נְשָׁמָה)は旧約では24回。創世記7章22節ではノアの家族以外の「いのちの息を吹き込まれたもの」はみな死にましたが、詩篇の最後の節(150:6)では「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ」と結ばれています。ここで使われている「息のあるもの」とは、冠詞つきの「ハ・ネシャーマー」(הַנְּשָׁמָה)です。

●ちなみに、新約聖書における「いのちの息」は「神の息吹」、つまり「霊感」と訳されています。使徒パウロはⅡテモテ3章16節で、ただ一回限りですが、「聖書(ここでは旧約聖書のこと)はすべて神の霊感(神の息吹God-breathed, ギリシア語では「セオプニューマトス」θεοπvευματος)によって」書かれたものであることを記しています。つまり、神が人にいのちの息を吹き込んで生きたものとしたように、聖書を書く人に神が誤りなく書き記すために神の息吹を吹きかけられました。それゆえ、それを読む者にも神の霊の助けが必要なのです。神と人とが生きたかかわりを持つために聖霊の助けは欠かせないのです。

2. 枯れた骨を生き返らせる「神の息吹」

●ところで、聖霊が「息」というシンボルで表されている最も良い聖書箇所はエゼキエル書37章です。そこでは枯れた骨が神の息が吹き入れられることによって生き返るヴィジョンが記されています。「枯れた骨」とは、ここではイスラエルの民のことです(37:11)。神ならぬ偶像礼拝の罪によってなんの役にも立たなくなってしまった神の民、捨て置くしかない神の民たちのことをここで「枯れた骨(干からびた骨)」と神は言っているのです。しかし、神である主はこれらの「枯れた骨」を神の息吹によってリセットしようとされたのです。

●神は預言者エゼキエルに問いかけます。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」(37:3)。そして次のように語ることを命じます。「これらの骨に預言せよ。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る。」(新改訳2017、エゼキエル37:4~6)。

●人を生かし、回復させるのは神の「息」としての「ルーアッハ」(רוּחַ)です。 「私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。 そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった(同、37:7~10)。

●神の霊によって生き返ったイスラエルの民の姿を、別の視点から表現するならば、詩篇119篇にある「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえに歩む人々」、「主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々」(119:1~2)ということになると思います。預言者エレミヤが「あなたがたがてわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される」(エレミヤ29:13~14)と預言していたことが実現するのです。つまり、「心を尽くして主を求める人々」とされたことの背景には、エゼキエルの言う「見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。」(エゼキエル37:5)という預言の成就があるのです。聖霊である神の息吹なしにイスラエルの民は生き返ることはできず、ましてや、心を尽くして主を尋ね求めることにはならないのです。神の民イスラエルは神の恩寵としての息吹によって生き返ることによって、はじめて自分の足で立つことができます。「自分の足で立つ」とは、主体的、自発的な生き方をすることを意味します。それは御霊によって神のみおしえ(トーラー)に対するかかわりが全く変えられることを意味します。

●このように人を新しく生かし、人を神に立ち返らせて回復させるのは神の「息吹」としての「ルーアッハ」(רוּחַ)である聖霊です。この方こそ私たちが神とのかかわりを豊かにし、神の愛(長さ、広さ、高さ、深さにおいて人知をはるかに越えた神の愛)を知るための必要不可欠なお方なのです。風はだれからも支配されることなく、思いのままに吹きます。またどんな隙間からでも入っていきます。そしてひとたび聖霊の風が吹くならば人の予想をはるかに越えたすばらしいことが起こるのです。すでに御霊で始まっている私たちは、いよいよこの方にあって完成されることを待ち望みたいと思います。

2019.8.15


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