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放蕩息子のたとえを思わせるマナセ王

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57. 放蕩息子のたとえを思わせるマナセ王

【聖書箇所】Ⅱ歴代誌 33章1節~33節

ベレーシート

  • Ⅱ列王記23章26節におけるマナセに対する評価は、ユダの最終的崩壊の原因がマナセにあることを示唆しています。しかし、歴代誌の作者は、彼の邪悪な行為と彼の真実な悔い改めにおいて、その顕著な実例として描かれています。まさに、それはイェシュアが語られた「二人の息子を持つ父のたとえ」に登場する「放蕩息子」(ルカ15章)のようです。

画像の説明

  • 上記の図を見ると分かるように、マナセの生涯はユダの民が経験した歴史的事実の型となっています。

1. 偶像に頼ろうとする心理

  • 33章に登場するマナセ。父ヒゼキヤの政策とは真逆の偶像礼拝をしています。親子でありながらどうしてこうも違うのでしょうか。それはおそらく人間がかかえている深刻、かつ深淵な「恐れ」のゆえです。この問題はすべての人間が抱えている問題であり、恐れから解放されるために、自らの安心を得ようとする人間の本能的な衝動ですが、歴史の中に働かれた神を経験した神の民にとっては、それは神への反逆的行為であり、神から見るならば最も「忌み嫌らわれる」行為なのです。
  • 人間の根源的なニーズを目に見えるものに頼ろうとする罪、それは生けるまことの神である主に対する反抗であり、神を悲しませる行為です。神に選ばれたイスラエルの民だけでなく、すべての人が罪によってもたらされた死によって、目に見えるものに頼ろうとする性質をもっているのです。偶像礼拝への依存度は、その人の「恐れ」の強度に比例していると言えます。マナセはその型というべき人物でした。

2. 神のさばきとしてのバビロンへの連行

  • マナセの邪悪な行為に対する神のさばきは、アッシリヤの将軍たちによって彼を捕らえ、青銅の足かせにつないでバビロンへ引いて行かせました。注目すべきことは、アッシリヤの首都ニネベではなく、バビロンへの連行でした。
  • 「バビロン」(「バーヴェル」בָּבֶל)の主神は「ベール」(בֵּל)で、これは「空しさ」の象徴です。ヘブル語の「へヴェル」(הֶבֶל)は「空しさ」を意味します。マナセはそのバビロンに連行されて、自分がそれまで頼ってきた偶像の力が空しいことを痛感したに違いありません。まさに、湯水のように財産を使い果たした後、頼るべきものが何もなかった放蕩息子のようです。しかし、彼はそのとき「我に返った」のです。

3. マナセの真実な悔い改め

  • バビロンに連行されたマナセはそこでそれまで頼ってきた偶像の空しさを知り、へりくだって、悔い改め、神に祈りました。

    【新改訳改訂第3版】Ⅱ歴代誌33章12~13節

    12 しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、【主】に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、
    13 神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、【主】こそ神であることを知った。

  • マナセがバビロンでの悩みを身に受けて(「ツァーラル」צָרַרの使役形)、主に「懇願して」(「ハーラー」חָלָהの強意形)、大いに「へりくだって」(「カーナ」כָּנַעの受動態)、「祈った」(「パーラル」פָּלַל)とき、神は彼の願いを「聞き入れ」(「アータド」עָתַד)、「聞いて」(「シャーマ」שָׁמַע)、マナセをエルサレムに戻されました(「シューヴ」שׁוּב)。ここにある礼拝用語と恩寵用語はいずれも神とのかかわりを築く上で重要な動詞です。
  • ここで重要なことは、マナセが「主こそ神であることを知った」と記されていることです。バビロン捕囚から帰還したユダの民たちは、まさに自分たちが「マナセ」と同じ身であったことを告白しているのです。つまり、今自分たちがあるのは、神のあわれみのゆえだという認識です。

4. 「マナセ」という名前に隠された預言的意味

  • Ⅱ歴代誌33章12~13節は重要です。「主こそ神である事ことを知った」マナセという名前は、聖書ではヨセフの長子の名前として登場します。ヨセフがエジプトで自分の長子の名前を「マナセ」と名付けたのは、「神が私のすべての労苦と、私の父の全家(の罪)とを忘れさせてくださったから」という意味からです。これはヨセフに対する神の計らいです。ヨセフとその兄弟との間にあったすべての悩みを忘れることができた祝福を、ヨセフは長子の「マナセ」にこめたのです。
  • マナセ王が悔い改めたことによって、神はその罪を忘れ、彼を回復させた出来事は、やがてイェシュア・メシアによって啓示される父の慈愛の預言的出来事であったと理解することができます。つまり、マナセの悔い改めの言及は「罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れる」(ローマ5:20)という福音の預言的予表と言えます。


2014.4.22


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