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愛される者ダビデ

15. 愛される者ダビデ

【聖書箇所】 18章1節~30節

はじめに

  • 「愛されたい症候群」という本のタイトルがありますが、老若男女のだれもが自分は「愛されたい」という強い願いをもっています。それは自然なことです。しかし多くの人から愛され喜ばれることによって、人から妬まれ、殺されるかも知れないと知ったら、愛されることを手放しで喜べないかもしれません。「愛される」ということは「妬まれる」という面も付随しているのです。たとえその愛が神からのものであったとしても、人からのものであったとしてもです。

1. 多くの人たちが愛されたダビデ

画像の説明
  • 旧約聖書の中で神からも人からもこれほど愛された者はいないと言えるほどの人物、それが「ダビデ」です。「ダビデ」(「ダーヴィッド」דָּוִד)という意味は「愛される者」という意味です。そうした記述が18章の中に満載されています。「愛する」という動詞はヘブル語で「アーハヴ」(אָהַב)、旧約では215回の使用頻度。そのうちサムエル記第一では10回、うち6回が18章(1, 3, 16, 20, 22, 28節)にあります。そのすべてがダビデに向けられています。
  • それに反するように、このダビデに対して恐れと猜疑と妬みをもつ者がいました。それがサウル王です。かつては「主の霊が激しく下って」彼のカリスマ性が現わされましたが、ひとたび彼から主の霊が去ってしまってからは、逆に悪い霊が彼の上に激しく下り、全く別人のように人柄が変わってしまいました。「悪い霊」とは、「妬みの霊」「殺意の霊」です。女たちが笑いながら、楽器を手にもって歌った「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」という歌を聞いて以来、「その日以来、サウルはダビデを疑い(ねたみ、猜疑)の目で見るようになったと記されています(9節)。
  • 事あるごとに愛されるようになっていくダビデと、その彼を妬むサウルの対比がますます明らかになっていきます。このことによってやがてダビデは10余年の逃亡生活へと余儀なくされます。全くダビデにとっては理不尽で不条理な話ですが、このことによってダビデはまことの神の代理者というイスラエルの王にふさわしく整えられていくことになるのです。

2. ダビデに対するヨナタンの愛

(1) 神によって結び付けられた友情

  • 愛されるという経験こそ、ダビデが理想的な王となるために必要な神の賜物だったと言えます。なかでもサウルの息子ヨナタンのダビデに対する愛(友情)は尋常なものではありませんでした。そのヨナタンの愛(友情)にフォーカスしてみたいと思います。

18章1節
ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。

  • 「結びつく」と訳された動詞は「カーシャル」קָשַׁרです。ここでは、心と心を「結びつける」という意味合いで使われていますが、本来は「共謀して謀反や陰謀を企てる」という意味で使われることが多いようです。
  • また文法的には受動態で、「結び付けられる」「継ぎ合わされる」という意味です。だれがだれによって結び付けられるのか、それは神によってだと理解して間違いないと思います。もちろんヨナタンは自分の意志で、自らダビデの心(ネフェシュ)に結びついたのですが、視点を変えれば、その背後に神による引き合わせ、結び合わせがあったことは否めません。このヨナタンのダビデに対する友情が、ダビデを父サウルの殺意から守ったのです。またダビデも彼の友情に対して、やがてヨナタンの死後、ヨナタンの息子メフィボシェテに対する愛という形で答えていきます(Ⅱサムエル9章)。

(2) ヨナタンの無私の愛、首尾一貫した愛

  • ヨナタンがダビデに示した友情は純粋で、無私無欲の愛でした。本来ならば、ヨナタンにとってダビデの存在は自分の地位を脅かす対象と受け取られてもおかしくありません。ヨナタンは父サウルとダビデの狭間に立って苦しみますが、首尾一貫した友情を保ち続けました。ダビデはそんなヨナタンの友情に支えられたのです。
  • ヨナタンの友情の遺産がダビデに与えた影響はきわめて大きいと信じます。なぜなら、愛された者だけが人を真に愛することができるからです。

2012.6.15


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