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悔い改めて、生きよ (2)

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31. 「悔い改めて、生きよ」 (2)

【聖書箇所】 33章1節~33節

 ベレーシート 

  • エゼキエル書33章の位置づけとして、これまでのイスラエルの家(ユダの家)に対する神の審判から神の回復の預言を結ぶブリッジ的役割を果たしています。あるいは回復の預言の序文とも言えます。

    画像の説明

  • この章の中にある神の心の思いは11節に語られていますが、それは18章23節の主の問いかけに対応することばです。

    【新改訳改訂第3版】
    (1)18章23節
    わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。──神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。
    【新改訳2017】
    わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──【神】である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。

    (2)33章11節
    彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。──神である主の御告げ──わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』
    【新改訳2017】
    彼らにこう言え。『わたしは生きている──【神】である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』


1.  回復の預言の根底にある神の心

  • 33章11節のみことばは、自分たちの背きと罪は自分たちにのしかかっているため、とても生きることができないと絶望しているイスラエルの家の者たちに対して語られた主のことばです。11節で強調されていることは、神に立ち返ることです。原文では「シューヴー、シューヴー」(שׁוּבוּּ שׁוּבוּ)。同じ動詞の命令形が重複されていることで、そのことが強調されているのです。

11節の「わたしは誓って言う」とあります。神ご自身が「誓って言う」ということですが、原文には「誓う」ということばはありません。あるのは「ハイ・アニー(חַי־אָנִי)」で「わたしは生きている」という言葉です。口語訳も新共同訳もそのように訳しています。ところが新改訳ではなぜか「わたしは誓って」と訳しています。ちなみに、岩波訳では「私にかけて(言うが)」としています。神は人とは異なり、常に不変であって、自分の語ったことばを変更されることはありません。主は生きておられるからです。もし状況次第で、語られたことがコロコロと変わってしまうとしたら、この方を信じてそこに希望を抱くことはできません。主の語られる言葉が決して変わらないことを、「わたしは生きている」者であり、神の語る約束は決して変わらないという意味で、「誓って」と意訳されていると思われます。

  • 「主の誓い」とは、「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めることを喜ぶ」という主の心が発したものであり、その要求は「悔い改めよ。悪の道から立ち帰れ」(原文「立ち返れ、立ち返れ」)ということです。神に立ち返るならば、必ず、生きることを約束し、保証しておられるのです。主のみこころはすべての者が滅びることなく、神に立ち返って生きることです。これが回復の預言の根底にあるものです。

2. イスラエルの将来の主役は「立ち返り、立ち返った」者に託される

  • 23節以降には誤った考えがあったことを伺わせます。イスラエルの将来の担い手は、エルサレムの崩壊後にそこに残った者たちではなく、バビロンの捕囚の民の中にいる者たちの中からだということです。
  • 自分たちこそ将来のイスラエルを担う者だと考える残留の民たちに対して、主はユダの地は罪のゆえに呪われ、捕囚の期間エルサレムを荒地とされると語っています。今は、罪のゆえに捕囚となっている者たちの中から真に神に立ち返る者が起こされ、回復の時に新しいイスラエルを生み出すのです。そこに神は希望を置いています。悔い改めて、神の与えた神の教え(トーラー)のすばらしさとその価値に目が開かれ、それにしたがって生きる者たちが起こる事を神は願われたのです。それゆえ、エレミヤ29章の預言が実現するのです。

    新改訳改訂第3版 エレミヤ書29章10~14節
    10 まことに、【主】はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。
    11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
    12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
    13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
    14 わたしはあなたがたに見つけられる。──【主】の御告げ──わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。──【主】の御告げ──わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」


3. 見張り人としての務めを与えられたエゼキエル

  • これまでも、エゼキエルは預言者として神のさばきの預言を語ってきました。それも見張り人としての務めでした。そしてこれから語られる神の回復のメッセージにおいても、見張り人として、警告の角笛を吹き鳴らす務めがあることを確認させられています。その角笛の音を聞いた者がその知らせをどのように受け止めるか、その責任は聞いた者一人ひとりに問われることになるのです。
  • 角笛を聞いて悔い改め、神に立ち返る者は生きますが、無視する者は自分の咎のために必ず死ぬのです。今日、神がイスラエルの家に対して約束された預言が実現されつつあります。そのことを告げ知らせる角笛が世界各地で吹き鳴らされています。これは神の警告の角笛です。世の終わりに備える必要かあります。そしてその角笛を聞いた者も「見張り人としての務め」がゆだねられているのです。もし見張り人がその務めを果たさなかっとしたら、その者は罪に問われるのです。
  • 人を恐れることなく、「見張り人」(ウオッチマン)としての務めを果たせる者となれるよう祈ります。

2013.6.25


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