****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

恵みによって心を強める

第30日 「恵みによって心を強める」 

はじめに

  • 今回は、ヘブル人への手紙13章9節にある「恵みによって心を強めることは良いことです。」というみことばを共に味わいたいと思います。このみことばはこれだけが独自に書かれているのではなく、ある事柄と関連性をもって語られていることばなのです。そのコンテキスト(文脈)はこうです。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。ですから、さまざまの異なった教えによって惑わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。」(9節)

ユダヤ人の『食物規定』について


  • 現代も正統派のユダヤ人たちは「食物規定」を守って生活しています。基本的には豚肉を食べません。肉と乳製品も別に食べます(時間をおいてから食べるというふうに・・)。確かに、聖書のレビ記には『食べてよいものと食べてはいけないものが規定されています。その理由は、「聖なる者となるため」です。つまり、食物規定を守ることで、ユダヤ民族のアイデンティティが守られたことは確かなのです。食卓規定をすることによって、非ユダヤ人と一緒に食卓を囲めなくなります。もっとも基本的な日常生活において他の民族と交流できません。長い離散の歴史の中で民族としての個性を失わなかったのは、実にこの食物規定だと言っても過言ではありません。
  • ヘブル書の13章にはキリスト者になったものの、依然とそれまでの生き方―つまり、「食物に気を取られた者たち」がいたようです。彼らは益を得ませんでしたとヘブル人への手紙の著者は記しています。
  • クリスチャンのアイデンティティはそうした食べ物によってではありません。酒も煙草もすわないのがクリスチャンというならば、それはその人に何の益ももたらさないでしょう。クリスチャンのライフスタイル、アイデンティティはいつも「神の恵みによって心を強められていくことです」。なぜなら、私たちの心を強くしていくのは神の恵みだからです。ですから、いつも、私たちは神の恵みに目を留め、それを見出し、それを自分の心に向かって語りかけ、その中にとどまることによって、「神の恵みに生きる訓練」をし続けていく必要があるのです。
  • 神の恵みによって生きることを理解せずに、それ以外の道(方法)―たとえば、自分の忠実さとか、神のためにどれほど死に物狂いになって(がむしゃらになって)頑張っているとか、義務とか、責任などーで、自分の心を強めようとするならば、やがてパリサイ人のように優越的なクリスチャンになって人をさばくか、マルタのように自分と同じくしない者に対して苦々しい思いや嫉みを抱くようになります。
  • 「恵みによって心を強めることは良いことです。」-このことばが意味することは、クリスチャンライフのすべての営みが「神の恵みによって動機づけられなければならない」ということです。クリスチャンとしての神を礼拝すること、神に仕えること、神をあかしすること、神の善を施すこと、献金することも、・・そのすべての力の補給源が、神の恵みから出てくるのでなければ価値あるものとはいえないということです。
  • キリストのために、他のどんな人よりも多く働いた使徒パウロは自分のことを次のように述べています。
    「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの恵みは、無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(Ⅰ コリント15:9~10)
  • この使徒パウロの愛弟子であったテモテに対しても、パウロはこう言っています。テモテは人と比べると、少々臆病なところがあって、引っ込み思案なところがありました。そのテモテに対して、「さあ、くよくよせず、自信をもって、積極的になりなさい」とは言いませんでした。なんと言ったでしょうか。それは、
    「わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」でした。
  • 日本の産んだ大伝道者、本田弘慈師はその全盛期、ある人から「あなたはほんとうにすばらしい働きをしていますね。あなたは本当にすごいです」とほめられました。ところが神の人は違います。鼻高々になったり、豚が木に登ったりするようなことはありませんでした。すかさず、人差し指を上に向けて一言、「主の恵みです」私はそのやりとりを傍で見ていたのです。これがクリスチャンのしるしでなければなりませんね。「主の恵みです。」この一言が言える人は、最も強いのです。なぜなら、「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」と聖書にあるからです。

1. 自分自身の心に向かって、神の恵みを告げよ

  • さて、詩篇103篇では「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」と自分のたましいに向かって呼びかけています。なぜ、主をほめたたえるのでしょう。それは、「主の良くしてくださったこと」があるからです。作者は「それを何一つ忘れるな」と自分のたましいに向かって呼びかけているのです。そして、さらには、自分だけでなく、他の人々に対しても(ここで「あなた」という表現をしている)、「主は、あなたの(自分のたましいに向かって「あなた」と呼んでいる。「お前の」と言い換えても良い)すべての咎を赦し、すべての病をいやし、いのちを滅びの穴から贖い、恵みと憐れみとの冠をかぶらせ、その一生を良いもので満たされる」と言って、神の恵みを語り告げています。
  • この詩篇103篇の作者のように、まず、自分のたましいに向かってこのように呼びかけることが、「恵みによって心を強めること」なのです。ここには「頑張れ」とか、「我慢しろ」とか、「あきらめろ」と言ったことばはありません。むしろ、神の恵みに心を向けているのです。
  • 詩篇の他の箇所にも、自分のたましいに向かって呼びかけているものがあります。たとえば、詩篇62篇ではこうです。
    「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。」と。なぜ! それは「私の救いは神から来るからだ。神こそわが岩、わが救い、わがやぐら。私は決してゆるがされない。」
    と自分に向かって語りかけているのです。この表現はこの詩篇では2度登場しますが、変化しているところは、「私の救いは神から来るからだ」が、「私の望みは神から来るからだ」となっていて、「救い」の部分が「望み」に置き換えられた点です。このような信仰の呼びかけを自らすることがとても大切なのです。こうした呼びかけができること自体に、すでに神の恵みが注がれていると言えます。
  • 日本では、未だに、自殺する人の数が一年間に3万人以上います。これは警察とか保健所による統計なので、実際はもっと多いだろうと言われています。多くの人は神を待ち望まず、死を選んでしまっているのです。「私の救いは神から来る」という信仰がないからです。
  • ヘブル人への手紙の13章5節以降に、『金銭を愛する生活をする者に対して、今持っているもので満足しなさい。』と述べた後で、次のように述べています。―金銭を愛する者の心にあるのは、自分の生存と防衛の保障は自分の力で何とかしなければという不安と恐れです。-神を信じる者の中にもそうした恐れを持っている者がいることを想定して、次のように述べています。
  • まず、「主自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」という神の恵みの約束を見出して、自分の心に向かって次のように言っている人のことばを紹介しています。それは詩篇118編からの引用です。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間(様々な環境や、現実の問題もすべて含む)が、私に対して何ができましょう。」―これは反語的表現法で、「何もできない」という意味です。
  • お金を多く持っている人がみな「お金を愛する人」ということは言えません。また逆に、「お金がない」から「お金を愛する人ではない」とも言えません。お金がなくても「お金を愛する者」もいれば、多くのお金をもっていても、お金を愛していない者もいるのです。
  • お金を愛する者の特徴をここで少し話しておこうと思います。

    (1) 誤った独立心を持ちやすい。生存と防衛の保障において、お金さえあればなんとかなるという考え方をもってしまうということです。地獄の沙汰も金次第ということばがあるように、金さえあればなんでも手に入れることができると考えるようになります。果たしてそうか。手に入れるどころかすべてを失ってしまうことさえあるのです。お金さえあれば、神様は要らないという考え方、生き方をします。

    (2) 金銭を愛する者の特徴は、目に見えるものだけに心を奪われるため、霊的な世界に目が開かれることはまれです。多くの点で霊的に盲目です。

    (3) 人を利己的にし、貪欲にさせます。塩水を飲むとのどが渇くように、金銭を愛する者も持てば持つほどさらにほしくなります。持てるもので満足するということはできません。

  • イエス・キリストは「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」と言われました。そして神は、私たちの必要をよく知っておられて、必要なものを与えることのできる方であることを語られたあとに、こう言われました。『神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、このようなものー生存と防衛の保障―はすべて与えられる』と。その方は「きのうもきょうも、いつまでも同じです。」とあります(ヘブル13:8)。イエス・キリストがいつまでも変わらないとすれば、この方の語られた約束も未だ有効だということです。

2. 神の恵みは人を内側から変える力です

  • 『アメージング・グレース』という歌を知っていますか。その歌が好きだという人はかなり多いと思います。しかしその歌を作った人のことはほとんど知らないと思います。

    驚くばかりの恵みなりき   この身の汚れを知れる我に
    恵みは我が身の恐れを消し  まかする心(信頼してゆだねる心)を起こさせたり
    危険をも罠をも避け得たるは 恵みのわざというほかなし
    御国に着く朝いよよ高く   恵みの御神をたたえまつらん

  • この賛美歌を作詞したのはジョン・ニュートンという人です。彼の母親は神を信じる敬虔な夫人でしたが、彼が7歳になる前に亡くなってしまいました。ニュートンは少年期になって反抗心をつのらせ、非行に走り、学校も中退して、以前からあこがれていた船乗りになりました。また同時に、放蕩にふけるようにもなりました。次々と船を乗り変えた彼は、奴隷売買という仕事に手を染めるようになりました。やがて彼は自ら奴隷船の船長となり、血も涙もない残忍な男になり果てたのです。ところが、ある時、船でアフリカからイギリスに向かっている時、大嵐に遭い、絶望の淵に立たされました。そのときに、彼は初めて本音で神を求めたのです。神は、そんな彼の必死の願いを受け入れられて、彼を危険から救い出しました。
  • ジョン・ニュートンはその後、伝道者となって多くの人々をイエス・キリストに結びつけました。彼は82歳で天に召されましたが、その死期が近づいたある日のこと、教会の講壇に立ってこう言いました。「私の記憶はほとんど薄れましたが、二つのことだけははっきりと覚えています。その一つは、私が途方もなく大きな罪人であったこと。もう一つは、キリストは途方もなく大きな救い主であるということです。」と。
  • 恵みとは、まさに受けるに値しない者に対して与えられる神の一方的な好意(愛)です。受けるに値しないにもかかわらず、多くの欠点や弱さがあるにもかかわらず、一方的に、しかも無代価で注がれる愛です。これが神の恵みです。どんな立派な教えも、規則も、信念も、その人の内側から変えていくことはできません。神の恵みだけが、私たちを心の奥底から変えていくことのできる力をもっているのです。
  • まさに、ジョン・ニュートンにしても、使徒パウロにしても、彼らが死ぬまで彼らを生かし、強め、精力的な働きをさせたものは、ただただ神の恵みであったということです。彼らに注がれた神の恵みは、決して無駄にはならず、多くの有益な働きを生みだしました。私たちはみな行いによってではなく、神の恵みのゆえに、信仰によって救われた者です。ですから、私たちは、いつでも「神の恵みによって強められていく」クリスチャンとなりましょう。
  • 主は言われます。「わたしの恵みはあなたに十分である(十分すぎるほど注いでいる)。・・わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と。ですから、私たちは大いに自分の弱さを誇りましょう。「私が弱い時にこそ、私は強い。」という逆説が成り立つのは、神の恵みのゆえです。

3. 神の恵みに対する「霊的ないけにえ」のささげもの

  • 最後に(第三のこととして)「恵みによって強くされた者」がささげるべき「いけにえ」があります。それは神に喜ばれるささげものです。それは、神に対してささげるものと、人に対してささげるものとがあります。
  • まずは、神の恵みに対してささげるべきいけにえは、15節に記されているように「賛美のいけにえ」です。ヘブル人への手紙では、これを「御名をたたえるくちびるの果実」というふうに言い換えられています。ヘブル人の特有の同義的並行法の表現ですね。ある表現を別な表現で言い直す語法です。
  • さて、「賛美のいけにえ」は「霊的ないけにえ」、「霊的なささげもの」です。これは、すでに1千年前にダビデが目指していた礼拝です。ヘブル人への手紙では「賛美のいけにえ」という「霊的ないけにえ」だけが挙げられていますが、それは霊的ないけにえを代表するものとして挙げられているのだと思います。詩篇22篇の中に、「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられる」という表現があります。「賛美を住まいとしておられる」とは、賛美を受けるにふさわしい方としてイスラエルの民にかかわって下さっているということを表わしています。
  • 賛美であっても、「喜びにあふれた賛美」でなければなりません。いつも規則的に、しかも継続的に、「賛美のいけにえ」がささげられなければなりません。もし、私たちのくちびるにいつも神への賛美があるならば、同じ口からつぶやきや不満やのろいのことばは出て来ないはずです。
  • ダビデの幕屋においては、モーセの幕屋のような動物によるいけにえを通しての礼拝ではありませんでした。それとは別に、霊的ないけにえが重視されました。つまり「賛美のいけにえ」「喜びのいけにえ」「感謝のいけにえ」「従順のいけにえ」「砕かれた悔いた心のいけにえ」、そして「義のいけにえ」です。これらの表現はすべて詩篇の中に出てきます。これらの霊的ないけにえをささげることが神の恵みに対する正しい応答であり、神を喜ばせます。
  • 私たち夫婦がこの地に開拓伝道を始めたころ、空知太の町内会の会長にお世話になりました。5月にこの町内会の懇親会が滝川公園でもたれまして、私もそこに礼拝が終わってから参加しました。すでに大方、食事の方が終わって、カラオケが始まっていました。そのとき、顔を出した私に、会長が、私になんでもいいから歌えと言うのです。讃美歌でもいいから歌えと。しかし私はとうとう歌いませんでした。というのは、私は、ある時、神様に対して誓ったのです。その誓いとは「カラオケで歌われるような歌を歌わないということ」です。ですから、私はカラオケに行きませんし、はやりの歌を歌いません。歌が悪いというのではなく、私のくちびるは主をたたえるためにささげたからです。
  • 賛美は、歌が好きだから歌うのではありません。私たちの神は賛美を受けるにふさわしい方であるゆえに、神に向かって歌うのです。賛美の中にー喜びも、感謝も、従順な心も、砕かれた心も、義の心もすべて含まれていると言えます。神を愛することが私たちの第一義のことであるとするならば、それは神を心から賛美することです。いつでも賛美することです。単に歌を歌うことが賛美だと思わないでください。心の中で、主に感謝し、主の声を聞いてそれに従う、すべて神を愛することなのです。
  • 賛美は神に対する告白でもありますので、告白をするときに私たちのたましいは神に開かれ、息づくのです。告白したとおりの方として私たちに親しくかかわってくださるのです。賛美のいけにえをささげるならば、次第に、私たちの心が感情に動かされにくくなります。ですから、賛美することはとても大切なことです。賛美に輝く教会を共に建て上げていきましょう。


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