****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

忠実なしもべとして生きる(タラントのたとえ)


107. 主の忠実なしもべとして生きる(タラントのたとえ)(オリーブ山の説教⑤)

【聖書箇所】マタイの福音書25章14~30節

ベレーシート

●前回は、「十人の娘のたとえ」から、主がいつ来られるか分からないのだから絶えず目を覚ましているべきこと、つまりそれは「ともしびと一緒に、入れ物に油を入れて待つこと」を学びました。今回の「タラントのたとえ」は、主が再び来られるときまで、どのような生き方をすべきかを教えるものです。この箇所も、救いではなく、褒賞がテーマです。主に褒められる「忠実なしもべ」となれるかどうかの問題です。

●今回のたとえの冒頭にあることばを見てみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書25章14~15節
14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。・・・

●ここには「自分のしもべたち」と彼らに「自分の財産を預ける」がいます。「自分のしもべたち」とは「五タラント、二タラント、一タラントを与えられた三人のしもべたち」です。彼らは御国の民(特に教会)です。その彼らに「自分の財産を預ける人」とは「イェシュア」のことです。イェシュアが「旅に出る、旅に出かけた」とは、イェシュアが天に昇られたことを示しています。そのイェシュアが再び必ず地上に帰って来て清算をするという設定です。「財産」は「タラント」として表され、「御霊の賜物」を意味します。「タラント」は本来、重さや通貨の単位として用いられますが、ここでは天的な財産を表す単位として見なすことができます。この世的な価値を量る単位ではありません。イェシュアは「それぞれその能力に応じて」、ある人には五タラント、ある人には二タラント、ある人には一タラントを預けました。主の財産を「能力に応じて」渡すとはどういうことでしょうか。おそらく、その能力の容量は、その人の心の自発性によって量られたものであると考えられます。量るのはあくまでも主であり、その主権と恵みによってです。人が生来持っている能力によってではありません。これらの異なるタラントを預けられた者たちがどのようにそれを活用するかで、御国での褒賞が決まってしまうのです。これは救いとか、神の子の身分には関係なく、あくまでも天の御国での褒賞に関わる問題なのです。主の忠実なしもべとして生きるなら、御国においてより多くのものがゆだねられ、任されるということです。

●詩篇8篇に「主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう」とあります。メシア王国の力に満ちている様は、主の統治によって支えられる多くの忠実な者たちによってあかしされることと思われます。

1. 天の御国における「報い、褒賞」という概念

●聖書において「報い・褒賞」という概念があります。この概念は新しいエルサレムにおいてはありませんが、千年王国(メシア王国)においては成り立つ教えなのです。以下のみことばがそのことを教えています。

(1) 【新改訳2017】マタイの福音書 16章27節

「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。」

●動詞の「来ます」(「エルコマイ」ἔρχομαι)はメシアの再臨を意味しています。マタイの福音書24~25章には「終わりについての教え」が書かれていますから、当然ながら、メシアの初臨ではなく、再臨のことを指して「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます」と言っています。そのときに、御国の民となる者たち一人ひとりに与えられた財産の運用に応じて、それぞれの報いが与えられるのです。

●動詞の「報いる」は「(賃金を)支払う、返す」の意味の「アポディドーミ」(ἀποδίδωμι)です。それに相当するヘブル語は「回復する、完成する、償う、報いる」という意味の「シャーレーム」(שָׁלֵם)です。「報いる」とは働きの結果として実を結ぶことを意味します。救いは働きによるものではなく、信仰によって与えられます。また神の子としての身分も働きによるものではありません。しかし、救われて祭司とされた者には、教会を建て上げるための御霊の賜物が例外なく一人ひとりに与えられます。肉的な働きではなく、霊的な賜物によって教会は建て上げられます。その御霊の賜物をどのように用いたかが問われるのです。

(2) 【新改訳2017】ヨハネの黙示録22章12節

「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。」

●原文直訳は「見よ。私はすぐに来る。私の報いは私とともに(ある)。彼にある行いに従って報いるために」です。ここには名詞の「報い」(「ミスソス」μισθός)があります。そこで、「報い」(μισθός)と「報いる」(「アポディドーミ」ἀποδίδωμι)が使われている箇所を開いてみましょう。マタイの福音書20章1~16節にある有名な「ぶどう園で働く労働者を雇いに出かけて行く主人のたとえ」にそれらがあります。

【新改訳2017】マタイの福音書 20章8節
夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金(μισθός)を払ってやりなさい(ἀποδίδωμι)。』

●朝早くから働いた者も、夕方五時から働いた者も、賃金は同じく一デナリであったという話です。このたとえは天の御国における報酬・褒賞が神の主権における恵みだという事実を強調しています。「朝早く」に主人と出会って働くことのできた人とは、イスラエルのことを意味しています。「一日中何もしないでここに立っていた人」とは夕方五時から働いた者のことで、そのときまでぶどう園の主人と出会うことがなかった教会を意味しています。イスラエルの召しと教会の召しの時期が異なっています。しかし神は朝早くから働いた者にも夕方の五時から働いた者にも同じく1デナリの賃金を支払ったということは、イスラエルに対しても、教会に対しても、神の恵みは変わらないという教えです。ところが、マタイ25章の場合は、財産の分与がすでに神の主権によってなされており、問題はそれをいかに運用して主人を喜ばせたかという点で「報い」が決まるという話です。似た語彙が使われていますが、扱われている内容が異なっているので、注意が必要です。

(3) 【新改訳2017】Ⅱテモテへの手紙 4章8節

あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。

●「授けてくださいます」は「アポディドーミ」(ἀποδίδωμι)で、「報いてくださいます」という意味です。原文の動詞は一つだけです。使徒パウロはだれよりも「褒賞」があることを信じていました。彼こそ、「御霊の賜物」(「ホ・プニューマティコス」ὁ πνευματικόςの複数)という表現を使った人であり、「御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません」(Ⅰコリント12:1)と言った人でもあります。彼は使徒としての賜物が与えられただけでなく、知恵と啓示の賜物を豊かに与えられた人でもあり、それを用いた人でもありました。パウロはここで自分のために用意されているのは、「義の栄冠」だと言っています。パウロのみならず、「主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださる」と述べています。「主の現れを慕い求めている人」とは、メシアが再び戻ってくることを待ち望みながら、与えられた賜物を用い、主の祭司として主のために忠実に働いている人を意味します。

2. 詩篇68篇の啓示

●マタイの福音書25章に戻ります。主人は自分のしもべたちに何を預けたでしょうか。それは「御霊の賜物」です。「財産」を意味する「レフーシュ」(רְכוּשׁ)の語源である「ラーハシュ」(רָכַשׁ)は、主人が獲得して得たものを意味します。イェシュアが獲得したものとは何でしょうか。パウロはエペソ人への手紙4章で、詩篇68篇を引用してそのことを述べています。

【新改訳2017】エペソ人への手紙4章7~12節
7 しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。
8 そのため、こう言われています。
彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。」
9 「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降(くだ)られたということでなくて何でしょうか。
10 この降(くだ)られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。
11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
(※8節の引用は、詩篇68:18からです)

●詩篇68篇は、キリストの昇天について預言しているメシア詩篇です(18節前半、エペソ4:8前半)。

【新改訳2017】詩篇 68篇18節
「あなたは捕虜を引き連れていと高き所に上り、人々に 頑迷な者どもにさえ贈り物を与えられた。・・・」

●ここにある「あなた」とは、メシア・イェシュアのことです。そして「捕虜」(集合名詞)とは教会(ユダヤ人と異邦人を含みます)の信者たちを指しています。そのことを詩篇68篇では「人々」と呼び、「頑迷な者ども」とも呼んでいます。こうした者どもにさえ、メシア・イェシュアは「贈り物を与えられた」と預言しているのです。これは一体どういうことでしょうか。

●私たちは救われる前はサタンに捕らわれていた者です。「頑迷な者たち」(神に反逆し、頑固で、心頑なな者)であったのです。しかし、イェシュアは十字架の死によって(その血潮によって)、サタンを打ち破り、サタンの捕虜となっていた者たち(私たち)を引き連れて、(ともに)天にある「いと高き所」に上られました。そこは神の御座です。「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた」(エペソ4:8)とあります。メシア・イェシュアはよみから復活し、昇天された時、連れて行った捕虜を戦利品として御父にささげられました。そしてイェシュアは御父によって「いのちを与える御霊」となられました(Ⅰコリント15:45)。それゆえ、イェシュアは連れて行った捕虜一人ひとりに御霊の賜物を与えることができたのです。このことは、今から二千年前に起こった出来事ですが、この出来事に私たちもともに包括されているのです。その目的は、パウロが言うように、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」(エペソ4:12)なのです。このことは、創世記1章1節の「天と地を創造する」ことを意味します。この「天と地」を、2章では「エデンの園」、出エジプト記25章では「幕屋」、Ⅰ列王記では「神殿」、黙示録20章では「メシア王国」(千年王国)、続く21章では「新しいエルサレム」という名に変わっていますが、内容としては、すべて「神と人がともに住む家」を指しています。正確には、「神が人のうちに住まわれる家」のことです。それを建て上げるために、イェシュアの「受肉からいのちを与える御霊となられるまで」の贖いの出来事(事実)が必要だったのです。

3. 三人のしもべ

(1) 主に忠実なしもべに対する褒賞

●再度マタイの福音書25章に戻りましょう。三人のしもべのうち、五タラントと二タラント預かった二人のしもべに対する主の褒賞を見てみましょう。五タラントを与えられた人というのは、教会を建て上げる上で多くの重要な責任をゆだねられた人のことでしょう。例えばですが、使徒パウロのような人です。二タラントはステパノのような殉教した人かもしれません。主にある多くの人は一タラント渡された人と言えるかもしれません。

【新改訳2017】マタイの福音書25章15~23節
15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
19 さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。
20 すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』
21 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。
主人の喜びをともに喜んでくれ。』(Enter into the joy of your master!)(原文=あなたの主人の喜びに加わりなさい。)
22 二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』
23 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

●五タラントの者と二タラントの者に対して、主から全く同じことばが語られています。
①「よくやった。良い忠実なしもべだ
・・この一言で、この世でのすべての労苦は消え去ることでしょう。
②「おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。」
・・メシア王国での多くの責任が託されます。
③「主人の喜びをともに喜んでくれ。」
・・主の喜びにあずかることは、最も大いなる褒賞です。

(2) 主に不忠実なしもべに対するさばき

【新改訳2017】マタイの福音書25章24~30節
24 一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。
25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』
26 しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。
27 それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。
28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。
29 だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。
30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』

●24~25節は一タラントを預かったしもべの言い訳が記されています。
「蒔かなかったところから刈り取り」と「散らさなかったところからかき集める」は同義的パラレリズムです。
「蒔く」も「散らす」も種を蒔き散らすという意味。このしもべは、主人が種を蒔かなかったところから収穫しようとする残忍な人物だと思っていたのです。主人に対する誤解から、彼は預かっていたタラントを地の中に隠しておき、タラントを活用せずにいました。「地の中に隠して」とあるように、彼は主人がなぜ預けたのかを全く理解していませんでした。つまり、主人の心を全く理解しようともせず、主人と深くかかわろうともしていなかったところに問題がありました。そのような者に、主人の喜びを分かち合えるはずがありません。

4. 主に忠実なしもべ、リディア

●リディア? 聞いたことない、誰のこと? と言われかねません。ルデヤと言えば分かる人には分かります。【新改訳2017】ではルデヤがリディアに改名(?)。英語ではLydia、しかし原文はΛυδία(リュディア)です。福音宣教がアジアからヨーロッパに向きを変える上で、神の不思議な導きがあったことを、使徒の働き16章に見ることができます。パウロに与えられた幻によって導かれたピリピという町で、パウロはリディアという女性と出会います。

●28節では、主人から「怠け者のしもべ」と言われています。それは預かったもので何らかの働きを考えることさえしなかったということで、彼のタラントは取り上げられ、十タラント持っている者に与えられます。そして彼は外の暗闇に追い出されます。これが主から与えられた御霊の賜物を活用しなかった者への警告です。そこで彼は悔しい思いをすることでしょう。30節の「役に立たないしもべ」と見なされて外の暗闇に追い出されるとは、御国において主とともに統治する権威が失われることを意味します。これは永遠の滅びのことではなく、来るべき御国における警告のメッセージなのです。

【新改訳2017】使徒の働き16章12~15節
12 そこからピリピに行った。この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。
13 そして安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。
14 リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。
15 そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。

●ピリピの町の門の外で、パウロは祈り場があるという川岸で、集まって来た女たちを相手に福音を語りました。そのとき、主はその中にいたリディアという名の女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされたのです。このことも実に不思議なことです。多くの女性たちがパウロの話を聞いていたにもかかわらず、パウロの話に心を留めたのはリディアただ一人でした。その理由は秘義です。出会いの背後には主の不思議な御計画が隠されています。まさに出会いの神秘です。

●その日、リディアだけでなく、彼女の家族の者たちがバプテスマを受けました。14節には彼女の簡潔なプロフィール(「ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった」)が記されています。ここで注目したいことは、15節で彼女が語ったことばと行動です。「『私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください』と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。」とあります。これはどういうことでしょうか。彼女には神に仕えたいという心が与えられているということです。回心して間もないにもかかわらず、主が彼女に御霊の賜物を与えられたのを見ることができるのです。彼女は一タラントを渡された人の例です。

●リディアが語ったこのことばはとても重要だと思います。リディアのこの行為について、リディアの性格はかなり強引だと考えてはいけません。15節の彼女の発言は、主を知り、主の福音にあずかった者として、さらに深く主について知り、主のために何か意味のあることをしたいという強い意志が彼女のうちに起こったことを伺わせることばでした。これらのことばは、彼女が主から御霊の賜物を与えられたことを示しています。つまり、彼女が主から祝福を受けることがどういうことかを正しく理解したと言えるからです。

●祝福の概念は、「神から人への祝福」、「人から神への賛美(祝福)」「人から人への好意に満ちた贈り物」という三つの方向性をもって、絶えず相互に循環するものです。リディアはこの祝福のゆえに、「私が主を信じる者(忠実な者)だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」と言って頼み、強いてそうさせたのです。このときは自分の家に招き、もてなした彼女でしたが、後にはパウロたちの宣教を経済的に支える者となりました。それは、彼女が家長的な立場にあること、そして「紫布の商人」という事業家でもあったからできたということではありません。主の働きを支えるという御霊の賜物が与えられたので、それができるのです。神はご自身の働きのために肉による働きを求められません。いのちを与える御霊によって教会を建て上げられるのです。御霊の賜物が与えられると、働きは負担とはならず、むしろ喜びとなります。五タラントや二タラントを与えられたしもべたちのように、与えられた賜物で神の働きをするようになるのです。しかもその賜物を使えば使うほど、その力はますます強化され、豊かさを増していくのです。

●リディアがパウロの一行にした行為、すなわち「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」は、自分で気づいているかどうかは別として、リディアが自分に与えられた御霊の賜物によって神の働きに参画しようとしている証しです。私たちも「御霊の賜物」というタラントが与えられています。そのタラントを用いて神の働きに参画していくなら、『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』という主の一言が待っています。それだけでなく、メシア王国(千年間)の統治において、多くの働きをゆだねられる者となるのです。

2021.7.4
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