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忌みきらうべき風習の禁止の背景にあるもの

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レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

16. 忌みきらうべき風習の禁止の背景にあるもの

ベレーシート

  • レビ記18章は、神の民に対し「忌みきらうべき風習」を決して行わないように禁じています。

【新改訳改訂第3版】レビ記 18章30節
あなたがたは、わたしの戒めを守り、あなたがたの先に行われていた忌みきらうべき風習を決して行わないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、【主】である。」

  • 「忌み嫌うべきこと」(憎むべきこと、いとうべきこと)と訳された「トーエーヴァー」(תּוֹעֵבָה)の初出箇所の創世記43章32節では、エジプト人はヘブル人と一緒に食事をすることを忌みきらうと記されています。それはヘブル人が「羊を飼う者」であったからです(創世記46:34)。「羊」そのものがエジプト人にとって「忌みきらうべき」ものであり、それを飼う者も、またそれを神にささげて礼拝することも同じく忌み嫌うべきことであったようです。それぞれの国にはその国の風習やならわしがあります。しかしレビ記18章では、神の民イスラエルがエジプトやカナンの地のならわしや風習に従って歩まないようにと警告しています。そのならわしや風習として取り上げているのは、親近者(母、義母、義姉妹、孫娘、義母の娘、叔母、義理の叔母、嫁、兄弟の嫁」との性行為です。この問題がなぜ禁止されているのか、それを本源的問題、つまり、神とのかかわりから語られているのです。

1. 「わたしはあなたがたの神、主である」という視点から

  • 神が天と地を創造され、その創造の冠として神のかたちに似せて人(「アーダーム」אָדָם)を造り、男と女とに創造されました。そのときの「男」(「ザーハール」זָכָר)と女(「ネケーヴァー」נְקֵבָה)とは、他の被造物と何ら変わらない生物学的な性別(雄と雌)が与えられていました。それは子孫を増やすためです。ところが、創世記2章では、「人」(「ハーアーダーム」הָאָדָם)がひとりでいるのは良くないとして、人を「夫」と「妻」とに造られました。つまり、神ご自身が一体であるように、また、神と人とが一体であるようなが一体であるように、その一体関係を目に見える形として現わされたのが「夫と妻」の関係であり、結婚でした。「結婚」は単なる男と女のかかわりを越えた、神と人とのかかわりにおける神の奥義です。それは神の永遠のご計画とみこころ、御旨とその目的と蜜切な関係をもっています。
  • 「わたしはあなたがたの神、主である」(「アニー・アドナイ・エローへーヘム」אֲנִי יהוה אֱלֹהֵיכֶם)という神の宣言が18章には何度も繰り返されています(2, 4, 21節)。「わたしは主」というフレーズも同様に繰り返されています(5, 6節)。ここの「わたし」とは「神ご自身である主」であり、「あなたがた」とはエジプトから贖われた神の民イスラエルのことです。この二者はすでにシナイ山において合意に基づく結婚の契約をしています。それゆえに、近親との性行為、同性との性行為、また獣との性行為を禁じているのです。それは人が神のかたちに似せて造られた神の本来の目的を破壊してしまうからです。
  • 罪を犯してからの人間の性は他の被造物の性とは異なり、生殖のための性行為でおさまらず、自分の欲の赴くままに、いつでも行為を営む状況にあります。聖書に登場する人物も含めて、近親婚はエジプトやカナンのみならず、どの国であっても普通に行なわれていた風習のようです。ところが、イスラエルの民がエジプトから救われて神との契約を結んだ後では、そのような風習にしたがってはならないことを命じたのです。それは神が聖であることと無関係ではありません。この世の道徳的な基準にはよらない、神独自の基準なのです。それに従って生きることを神はご自身の民に命じておられます。
  • 使徒パウロは、結婚の中に隠された神の奥義を見出した人です(エペソ5:22~33)。その彼が、異邦人であるコリントのクリスチャンたちに対して「もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。」(Ⅰコリント7:9)と勧めています。この勧めの背景として、人間にとって「性」の衝動がいかに抑えがたいものであるかを認めています。ただしこれは神の意図するご計画における「結婚の奥義」に比べるならば、きわめて消極的な結婚の勧めです。積極的な結婚の勧めとは言えません。それは、コリントという町が性道徳の面において非常に乱れていた状況があったためです。その状況を以下のように記しています。

【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント書5章1~2節
1 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。
2 それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。


●コリントの教会の中には「不品行」がありました。その程度は「異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいる」というもので、それを取り除くことも、悲しむこともなく、むしろそれを良しとするような高ぶりがあったのです。その高慢は良くないことだとパウロは諭しているのです。


2. 近親者に「近づいて、犯してはならない」

  • 「犯す」と訳された原語は「ガーラー」(גָּלָה)です。なんとレビ記18章では「犯してはならない」と15回も記されています。「ガーラー」は「覆いを取る、脱ぐ、現わす」という意味ですが、「犯す」という語彙と「裸」を意味する「エルヴァー」(עֶרְוָה)という語彙が組み合わされることで、明確な性行為を意味します。イスラエルの民が他の神々に従う場合も霊的な姦淫を犯したことになります。偶像礼はとは他の神との「霊的姦淫」を意味します。「ガーラー」(גָּלָה)が使役形で使われると「捕囚として連れて行かれる」という意味になります。偶像礼拝のもたらした結果が捕囚でした。神との合意に基づく契約を忘れて他の神々を慕ったことで、イスラエルの民は北と南の二つに分断し、北はさまざまな国に散らされ、南ユダはバビロンの捕囚として連れて行かれたのです。彼らはその地で七十年の間、捕囚の身となりました。しかしそれは神が彼らのうちに神への立ち返りを起こさせ、神のトーラーに対する新しい目を開かせるためでした。
  • 「終わりの日」、キリストの再臨の前に、神はユダヤ人に対して同じような取り扱いをなされます。つまり、神は七年間の患難時代を彼らに対してもたらしますが、後で彼らの「残りの者」はキリストによって神の祝福にあずかるようになるのです。

2016.6.3


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