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弟子たちの盲目性と盲人の開眼性(2)

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88. 弟子たちの盲目性と盲人の開眼性 (2)

【聖書箇所】マタイの福音書20章29~34節

ベレーシート

●マタイの福音書20章17~34節は、「三回目の受難告知」とその後に続く「弟子たちの盲目性」と「盲人の開眼性」の三つの部分からなっていますが、それは「先の者と後の者」を教える一連の話と言えます。前回は受難告知に対する「弟子たちの盲目性」について焦点を当てましたが、今回は受難告知に対する「盲人の開眼性」に焦点を当てたいと思います。これからエルサレムにおいてふりかかるイェシュアの受難と死とその意味を、弟子たちは誰一人として気づく者はなく、だれが一番偉いかと話し合っていたときに、イェシュアが通られると聞いた「目の見えない二人」が、目を開いてもらうためにイェシュアに叫び求めたのでした。

※新改訳改訂第三版まで「盲人」という訳語を使っていましたが、【新改訳2017】から「目の見えない人」と改訳しました。聖書協会共同訳は従来どおり「盲人」という訳語を使用しています。本稿ではいずれの訳語も用いています。

●まずは、今回のテキストを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書20章29~34節
29 さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。
30 すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。
31 群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、
「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。
32 イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」
33 彼らは言った。「主よ、目を開けていただきたいのです。」
34 イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

※今日のテキストを観察すると、最初と最後にイェシュアに「ついて行った」(「アコリューセオー」ἀκολουθέω)という語彙に挟まれた恰好になっています。一方は「大勢の群衆」で、他方は癒された「二人の盲人」です。一見同じように見えても、その内実は全く異なっているのです。これが、「今」における地的現実なのです。

1. 二人の盲人の開眼の求め

●マルコの福音書10章46~52節とルカの福音書18章35~43節に並行記事があります。それぞれ微妙に異なっています。マタイもマルコも「一行がエリコを出て行った」後の話であるのに対し、ルカは「エリコに近づいた」時の話です。また、マタイでは盲人が二人であるのに対し、マルコは「バルティマイ」、ルカも「一人の目の見えない人」とあるように、二人ではなく一人となっています。しかし今回のテキストで共通している点は何かといえば、それはイェシュアと盲人の会話のやり取りです。

(1) 盲人たち(盲人) 「ダビデの子よ。私たち(私)をあわれんでください。」
(2) イェシュア 「わたしに何をしてほしいのか。」
(3) 盲人たち(盲人) 「目が見えるようにしてください。」

●盲人が見えるようになる方法はまちまちです。マタイでは「目にイェシュアが触れて」、マルコでは「さあ行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました」と言い、ルカでは「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救いました」と言われたとあります。しかし、いずれも「すると、彼らはただちに(すぐに)見えるようになって、イェシュアについて行った」という点が同じです。

●この奇蹟は、これまでも学んできたように御国が到来した時のデモンストレーションです。御国が到来したそのときには、盲人の目はただちに(=「すぐに」「ユーセオース」εὐθέως)開眼させられるのですが、今は主よ、目が見えるようにしてください」という開眼への希求が求められるのです。何よりもこれを、今神が求めておられるのです。このテキストは単に、一人(あるいは二人)の盲人のいやしについてではなく、イェシュアの弟子たち、および神の民イスラエルに対する神の強い願いでもあったのです。

●イスラエルの民のみならず、異邦人であるアテネの人々に対しても、パウロは次のように述べています。

【新改訳2017】使徒の働き17章26~27節
26 神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。
27それは、神を求めさせるため(ζητέω)です。もし人が手探りで求める(ψηλαφαω)ことがあれば、神を見出す(εὑρίσκω)こともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。

●ここでパウロは、神のご計画における神の定めというものがあり、それぞれの民が支配するのに決められた時代と領域の境界とが定まっていて、それがすべての民族に適用され得ることを語っているのです。それは「神を求めさせるため」だと述べています。唯一の神が歴史の中に生きているのですから、「もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともある」と述べています。興味深いことに、これを語ったパウロという人のヘブル名は「サウル」、つまり「シャーウール」(שָׁאוּל)で、その語源となる「シャーアル」(שָׁאַל)は「神を熱心に尋ね求める」という意味です。実にパウロという人は、名のごとく神を求め続けた人でした。それゆえ、神の隠された奥義を誰よりも多く啓示されたことを自ら証ししています(エペソ3:3) 。

●さて、ヨハネの福音書9章には「生まれたときから目の見えない人」をイェシュアが開眼させた記事があります。その日が安息日であったことから、パリサイ人のある者たちは「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言い、他の者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言って、彼らの間に分裂が起こりました。そこで、盲目であった彼を呼び出して尋問することになります。尋問の中で、生まれつき盲目であった者が、「盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです」と答えると、パリサイ人たちは「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか」と言って、彼を外に追い出します。イェシュアはそのことを聞き、彼を見つけ出してこう言います。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」-これがヨハネ9章で言わんとする結論です。確かに、盲人の目を開けることはメシアの働きとして旧約で預言されていたのです。以下は、肉体的盲目というよりも、霊的盲目に対する預言です。

①【新改訳2017】イザヤ書 29章18節
その日、耳の聞こえない人が、書物のことばを聞き、目の見えない人の目が、暗黒と闇から物を見る。

②【新改訳2017】イザヤ書35章4~5節
4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
5 そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。
(※「その日」「そのとき」はメシア王国の終末的預言が語られる時の常套句です。)

●こうした預言を聞いて知っていた盲人たちが、「目が見えるようになるため」にイェシュアのもとに近づいて来たことは、おそらく主を喜ばせたことであったと思われます。なぜなら、並行記事のマルコとルカには、「あなたの信仰があなたを救いました」と語られているからです。彼らの信仰とは、神の預言(約束)を信じる信仰であり、神はそうした信仰を殊のほか喜ばれるのです。


2. ご自身を「隠される」神

(1) イザヤ書45章15節にこうあります。
【新改訳2017】
イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自分を隠す神

画像の説明

●「なぜ神はご自分を隠されるのか」と言えば、それは探し出されることを神が願っておられるからです。このことをうなずかせる多くのみことばあります。たとえば、

(2)【新改訳2017】申命記 29章29節
隠されていることは、私たちの神、【主】のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。

●ここでの「隠されていること」とは、終わりの日に神のうちに備えられている恵みです。具体的には、神が私たちに「心の割礼を施す」ということです(申30:6)。このことによって、神の民とされた者が、心を尽くし、いのちを尽くして神と人を愛することができるようにしていただけるのです。

(3) 【新改訳2017】箴言25章2節
事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王たちの誉れ

●神は隠すことが誉れであり、王はその隠されたことを探り、発見することが誉れです。「誉れ」と訳された語彙は「栄光」を意味する「カーヴォード」(כָּבוֹד)ですが、「特権」と訳している聖書もあります。

●箴言25章1節に「次もソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が書き写したものである」とあるように、ソロモンの箴言の補遺として編集されているようです。しかもその冒頭(2節)に「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王たちの誉れ。」とあるのです。このことばには深い秘密が隠されています。

●ヒゼキヤ王は南ユダ王国の13番目の王です。彼は祭司と書記官に命じてソロモンの箴言を書き写すように命じます。当時、ユダは北から強力なアッシリアの侵略を受けていた時代です。すでに北イスラエルの首都サマリアはアッシリアによって陥落していました。ユダのエルサレムも、セナケリブの率いるアッシリアの大軍に包囲されるという危機的な時代でした(事実、3回にわたる攻撃を受けていました)。そんな状況下で、ヒゼキヤはなんと箴言を編集し直す作業をしていたのです。そこには霊的に重要な意味があります。神の代理者として立てられたヒゼキヤ王が戦いにおいて優先したことは、神のみことばでした。隠された神のみこころを捜し出すこと、神のみことばをもって勝利すること、それが神の代理者としての王の務めだと考えたのです。ヒゼキヤ王の父アハズは敵の侵略から守るために、神に頼ることをせず、異邦の国に助けを求めました。預言者イザヤの「神にのみ信頼して静かにしていなさい」というメッセージを受け入れませんでした。一時的には解決を得ましたが、結果的にはさらなる苦しみ(貢物をすること)が増したのです。しかしヒゼキヤ王はイザヤの指導を受けながら、アッシリアの脅威に屈することなく、神にのみ信頼し、神のみことばに堅く立つことが勝利の道だと確信したのです。いつの時代でも失われた神のことばを回復することが霊性の回復の道であり、唯一の勝利の道なのです。

●神のみことばは、私たちが想像するレベルをはるかに越えた奥深い霊的な世界です。事を秘密にするのは神の誉れ(栄誉)だからです。それゆえ、それを捜し出して発見する者が必要なのです。エレミヤ書29章13節に「あなたがたがわたしを捜し求める(「バーカシュ」בָּקַשׁ)とき、心を尽くしてわたしを求める(「ダーラシュ」דָּרַשׁ)なら、わたしを見つける(「マーツァー」מָצָא)。」とあります。

●箴言25章2節にある「探る」と訳されたヘブル語は「ハーカル」(חָקַר)で、徹底的に調べて隠された事柄を見つけるという意味です。これが神の代理者である王の務めであったとすれば、同じく王として召された私たちもこの使命を理解する必要があります。それは神の豊かな知恵が、この世ばかりでなく、天にある支配と権威とに対して、教会を通して示されるためなのです。神が隠している秘密を見つけるという使命が教会に与えられているのです。教会が福音を伝えて一人でも多くの人が救われる働きも大切ですが、「終わりの時代」においてそれ以上に大切なこととして、神の隠された秘密を探ることにもっと多くの時間と精力を費やさなければなりません。なぜなら、それが「王」として私たち(教会)の誉れ(特権)となるからです。

●パウロは神の奥義を多く見出した使徒です。そのパウロが父なる神を知るために、教会に対して知恵と啓示の御霊が与えられるように祈っています。「知恵と啓示の御霊」は、御霊の賜物のうち筆頭に来るべき賜物なのです。

【新改訳2017】エペソ人への手紙1章17~19節
17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、
19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。


3. 健全な目をもつこと

●イェシュアが「わたしに何をしてほしいのか」と語られたのに対して、二人の目の見えない者たちがはっきりと求めたことは、「目が開かれること」でした。バビロン捕囚という憂き目を経験した者たちが記した詩篇119篇にも同じような祈りがあります。

【新改訳2017】詩篇119篇18節
私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。
あなたのみおしえのうちにある奇しいことに

画像の説明

●目を「開いて」と訳された「ガーラー」(גָּלָה)は「覆いを取り払う、明らかにする、啓示する、隠れていたものが現われる、裸になる」という意味ですが、同時に、「移す、捕囚に行く、捕囚に連れて行く」という意味もあります。捕囚という経験を通して初めて明らかにされるということです。イスラエルの民はまさに捕囚という憂き目を経験することによって、神によって賦与されていた「律法」(神の教え)の中に隠されているすばらしい神の祝福、その驚くべき素晴らしさに目が開かれたのでした。

●詩篇119篇18節の「あなたのみおしえのうちにある奇しいこと」について、いろいろな訳がなされています。

①新共同訳「あなたの律法の驚くべき力」
②フランシスコ会訳「あなたの教えのすばらしさ」
③関根訳「あなたの律法のうちにある妙なるもの」
④バルバロ訳「あなたの法の不思議」
⑤LB訳「おことばの中に隠されているすばらしい祝福」
⑥NIV “wonderful things from Thy law” 

●このように、神のトーラーのうちにある「奇しいこと」「驚くべき力」「すばらしさ」「妙なるもの」「不思議」「すばらしい祝福」「wonderful things」と訳されたその実体(正体)とはいったい何なのでしょうか。そこにも神が隠していることがあるのです。詩篇の作者が、目が開かれて、目を留めたいと願っている実体とは何なのでしょうか。その実体にこそ目を留めなければなりません。隠された実体。その実体を使徒パウロはローマ人への手紙10章4節ではっきりと述べています。

「律法が目指すものはキリストです。」(【新改訳2017】)

●ちなみに「目」について、イェシュアが「からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。」(マタイ6:22~23)と語ったことを思い起こします。「目」はからだ全体、あるいは、存在全体を代表しています。

①【新改訳2017】「あなたの目が健やかなら、全身が明るくなる」
②【新改訳】「もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが」 
③【口語訳】「もしあなたの目が澄んでいれば、全身も明るい」 
④【新共同訳】「もしあなたの目が正しければ、あなたの全身も明るいが」

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●ここにある「健やかなら、健全なら、澄んでいれば、正しければ」とは、どういうことを意味しているのでしょうか。ちなみに、ヘブル語の目を意味する「アイン」(עַיִן)という語彙を構成する三つの文字を見てみましょう。そこには、「目、見る」を意味する「アイン」(ע)、神の御手を意味する「ヨード」(י)、永遠の神の定めを意味する「ヌーン・ソフィート」(ן)の文字によって構成されています。つまり、神の御手によってなされる神の定め(=神のご計画)を見る俯瞰的な目です。それがヘブル語の「アイン」(עַיִו)が示唆しているものだと言えます。この「目」こそ、唯一「健全な目」と言えるのです。私たちの目は年齢と共に次第に衰えて行きます。しかし、内なる「健全な目」によって、からだ全体を明るくする望みを持つことができるのです。

●「健全な」「澄んだ」「正しい」と訳されたギリシア語の形容詞「ハポルース」(ἁπλοῦς)は、単純な(複雑ではない)、二心のない、純粋な、ひとつのものだけをひたすら見続けるという意味を持っています。これをヘブル語にすると「完全な」を意味する「ターム」(תָם)、あるいは「ターミーム」(תָּמִים)となり、どのような「目」が光を取り込んで「からだを明るくする(輝かす)」のかが理解できます。前にも学んだように、「光」(「オール」אוֹר)とは光源としての「光」ではなく、神のご計画とみこころ、御旨と目的を表わす概念であり、それはキリストによって実現・完成されます。それによってからだ全体が神の知恵と栄光を輝かすようになるのです。とすれば、健全な(=二心のない純粋な)目を通して、その「光」をからだに取り込まなくてはなりません。もし、その目が悪く、不健全であるならば、からだ全体を明るくすることはできません。光を取り入れることのできないからだは暗黒であり、かつ悲惨なものとなることをイェシュアは警告しています。その意味で、詩篇にあるように、「私の目を開いてください(私の目の覆いを取り払ってください)。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいこと、すなわち、キリストに目を留め、キリストのうちにとどまることができるようにしてください。」(詩篇 119:18)と祈る必要があるのです。

ベアハリート

●私たちはイェシュア・ハマシーアッハをどれだけ知っていると言えるでしょうか。知っているようで、知っていないかもしれません。イェシュアがユダヤ人に対して言った以下のことばを、自戒を込めて、自分の心に刻みつつ、みことばに対する謙遜な心をもって、イェシュアについて行きたいと思います。

【新改訳2017】ヨハネの福音書9章41節
もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」


2020.11.1
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