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宗教指導者たちとの論争 (4)「メシア」

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99. 宗教指導者たちとの論争 (4)「メシア」

【聖書箇所】マタイの福音書22章41~46節

ベレーシート

●これまで、パリサイ人やサドカイ人たちはイェシュアをことばの罠に陥れようと、さまざまな質問(納税、復活、律法の問題)を投げかけました。イェシュアは彼らの一つ一つの質問に対して反論できないほどに、迅速に、かつ的確な返答をされました。しかし今回はこれまでと異なり、イェシュアの方からパリサイ人たちに質問します。その内容は「メシア」に関するものです。この部分はこれまでに比べて短いものですが、最も重要な事柄が扱われています。以下がそれです。

【新改訳2017】マタイの福音書22章41~46節
41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった。
42 「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」
43 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、
44 『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」』と言っているのですか。
45 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」
46 するとだれ一人、一言もイエスに答えられなかった。その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった。

●イェシュアの質問は二つあります。一つ目の質問は「キリスト(メシア)はだれの子ですか」というものです。これに対してパリサイ人たちはすんなりと答えます。二つ目の質問は「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのか」というものです。これに対してだれ一人、一言も「答えられなかった」とあります。なぜでしょうか。彼らはイェシュアを罠に陥れようと企んでいたため、逆に自分たちがイェシュアの罠に陥るのを防ごうとして「答えようとはしなかった」のでしょうか。あるいは、答えは知っていたが「答えたくなかった」のでしょうか。いいえ、聖書は「答えられなかった」と記しています。それではなぜ彼らは答えられなかったのでしょうか。それは彼らの既成概念では答えることができなかったからです。

●イェシュアの質問は極めて巧みで、ご自分の語る「御国の福音」と密接に関連するものでした。この質問はパリサイ人たちだけではなく、すでに御国の民とされた私たちにも投げ掛けられています。もしイェシュアの質問に私たちが明確に答えることができなければ、パリサイ人たちのように「蛇よ、まむしの子孫よ」と呼ばれかねません(23:33)。今回のイェシュアの質問は、23章で展開される「律法学者、パリサイ人たちへの糾弾」の序文的な位置づけとなっています。今回のイェシュアが発せられた質問を私たちも真剣に考えるときとしたいと思います。

1. イェシュアの質問の意図 

●イェシュアの最初の質問は、「キリスト(メシア)はだれの子か」というもので、その答えは「ダビデの子」です。メシアがダビデの子孫から出るということは、当時のユダヤ人であるならばだれでも答えることのできる周知の事実でした。当時のユダヤ人たちは、長い間、異教の国々(バビロン、メディア・ペルシア、ギリシア、そしてローマ)に支配されていたので、その支配から自分たちを救い出してくれるメシアこそ、神がダビデに約束された子であると誰もが思っていました。

【新改訳2017】Ⅱサムエル記7章12~13節
12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。
13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

●しかし、ここで約束された「あなたの身から出る世継ぎの子(ダビデの子)」がイェシュアだと気づいた人は、当時の宗教指導者たちではなく、目の見えない人たちと子どもたち、および異邦人の女でした(マタイ9:27, 20:30 )。特に、異邦人であるカナン人の女と目の見えない二人の者たちは、イェシュアを「ダビデの子」としてだけでなく、「主」(「キュリオス」=κύριος=「神」)を加えて、「主よ、ダビデの子よ」と言っています(マタイ15:22, 20:30, 31)。なぜ、彼らがイェシュアのことをそのように呼んだのか不思議です。宗教指導者たちのような既成概念に捕らわれていなかったからだと言うこともできますが、以下の預言の成就の型とも言えます。

【新改訳2017】イザヤ書35章4~6節
4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
5 そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。
6 そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。

●福音書にはまさに「そのとき」、すなわち、終わりの時を思わせる数多くの奇蹟が記されているのですが、それらはすべて御国のデモンストレーションです。大切なことは、その奇蹟を行っているのはだれかということです。目の見えない人たちがイェシュアに近づいたのは、彼こそ預言されていたメシアだと神から啓示されたからなのです。

●ところで、イェシュアの質問は、「キリスト(メシア)がダビデの子だとしたら、なぜダビデがキリスト(メシア)を「主」(正確には「私の主」)と呼んでいるのか」ということです。詩篇110篇を引用しながら、「ダビデがキリストを私の主と呼んでいる」ことと、「キリストがダビデの子である」ことがどうして結びつくのかという質問です。つまり、換言するなら、「キリストが人であり、神である」のはなぜなのか、あるいは、「なぜこの二つのことが一つであるのか」という質問でもあります。一見、矛盾していることを引き合いに出して論じるのは、当時のラビたちがよくしていたことだったようです。イェシュアは律法を大切にするパリサイ人たちに対して、この矛盾する事柄の解釈(=ミドゥラーシュ)を迫っているのです。それを正しく解釈するためには、神のご計画とその目的を知らなければならないことと、その矛盾を解決するためには、イェシュアの語ることに耳を傾けなければならないことを暗に含んでいるのです。

●詩篇110篇は一見難解な詩篇です。しかし神のご計画のマスタープランを知っている者にとっては、それほど難しい詩篇ではありません(このことは詩篇2篇でも言えることです)。しかもこの詩篇110篇にある人称代名詞がだれのことを指しているかも正確に整理することができるはずです。

【新改訳2017】詩篇110篇1~3節 ダビデによる。賛歌。
1 【主】は私の主に言われた。
「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」
2 【主】はあなたの力の杖をシオンから伸ばされる。
「あなたの敵のただ中で治めよ」と。
3 あなたの民はあなたの戦いの日に喜んで仕える。聖なる威光をまとって夜明け前から。あなたの若さは朝露のようだ。

●1節冒頭に、「【主】は私の主に言われた」とあります。ヘブル語では「ネウム・アドナイ・ラドーニー」(נְאֻם יהוה לַאדֹנִי)となり、直訳すると「私の主に対する(לַאדֹנִי)主の御告げ(נְאֻם יהוה)」となります。そして1節の「」括弧の部分は、御父が、ダビデにとっての「私の主」、つまりイェシュアに対して預言的に語っている箇所です。ですから、「わたし」は御父、「あなた」は御子で、この御子がダビデにとっての「私の主」なのです。この詩篇の難しさは人称の特定にありますが、本当の難しさは神のマスタープランを知らなければ、この詩篇を解釈することは難しいということです。イェシュアの質問の意図はここにあります。

● 1節にある「あなたの敵をあなたの足台とするまで」とは、御子が敵を自分の足台とするのは、彼がメシアとして地上再臨する時のことで、それまでの期間ということになります。そのためにはダビデの子孫であるメシアが死んで、復活し、昇天して、御父の右の座に着いていなければなりません。しかし2節の「【主】はあなたの力の杖をシオンから伸ばされる」とは、御子であるメシアが地上再臨してシオンを中心に地を治めることが述べられているのです。しかも、「あなたの敵のただ中で治めよ。」とあるように、メシアは鉄の杖をもって千年の間卓越した知恵と力をもって地上を治める王となるのです。その一方で、メシアに従う御国の民がいます。そのことが3節にある「あなたの民はあなたの戦いの日に喜んで仕える」者たちなのです。このメシア王国の王こそが、ダビデの言う「私の主」なのです。このように、神のマスタープランを知らなければ、イェシュアの今回の質問には答えることができないのです。パリサイ人たちは熱心に聖書を読んでいましたが、的を外した読み方をしていました。その背後に「蛇」(=サタン)が働いていたからです。

2. このイェシュアの質問を解いたパリサイ人、「パウロ」

●この質問の解答を、パリサイ人の申し子であり、後にキリストのしもべとされた使徒パウロが、ローマ人への手紙の冒頭の挨拶の中に書き記しています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙1章1~7節
1 キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから
2 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、
3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
5 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。
御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。
6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました──
7 ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ

●「誰から誰に」と指定されてはじめてそれが手紙だと分かりますが、ローマ書の挨拶は異常です。原文の冒頭は「パウロ」となっており、7節で手紙の宛先が「ローマにいる聖徒たち」だと分かります。つまり、1~7節までが「差出人と宛先」を示す一つの挨拶なのですが、その中に、「神の福音」を簡潔に要約したものが挿入されているのです。あたかも福音を伝えたいというパウロの熱い思いが伝わってくるような書き方です。このような手紙は普通ありません。

●パウロが伝えようとしている福音とは、「御子に関するもの」です。「御子」(「ホ・ヒュイオス」ὁ υἱός)という語彙は、旧約聖書では1回(ただし新改訳改訂第三版までで詩篇2:11「御子に口づけせよ」)、新約聖書ではパウロとヨハネしか使っていません。御子は「神の唯一の子」を意味する語彙です。その御子には二つの面があります。
(1)「肉によれば、ダビデの子孫から生まれた方」である。
(2)「聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方」である。

●「肉によれば、ダビデの子孫」とは人間的な視点から見た言い方ですが、「聖なる霊によれば、神の子」とは神の視点から見た言い方です。どちらが先かといえば、本来、「神の子」である方が「ダビデの子孫」としてこの世に見える形で生まれ、死者の中からの復活によって公に示されたということです。それがイェシュアという方であり、メシア(キリスト)なのです。このことは、神ご自身が預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、その御子によって神の約束が実現したことが「福音」なのです。

●パウロは律法を学びながらも、これら二つがあらかじめ聖書の中に約束されたものであり、それがイェシュアによって実現されたことを知らずにいたのです。それは、彼が受けた教育の内容が「文字による律法」、「罪と死の律法」だったからです。それはイェシュアに言わせれば、「蛇・まむしの教え」「パン種の教え」なのです。そうした教えに育てられたパウロが、「この道」と呼ぶイェシュアを信じる者たちを迫害しました。なぜなら、そうすることが主に喜ばれると心底考えていたからです。その彼がダマスコ途上で「天からのまばゆい光」によって復活の主と出会います。そのことで彼は盲目になり、三日目に目から鱗のようなものが落ちて、イェシュアこそメシア(イェシュアがキリスト)であることに目が開かれたのでした。これはパウロにとって霊的な開眼でした。この開眼によってそれまで自分が学んできた聖書が全く違うものであったことを悟ったのです。パウロは、自分に与えられた啓示が当時のエルサレムにいた使徒たちが教えている福音であったことを、そこに訪れて再確認しています。パウロは人から教えられたのではなく、神から直接に啓示されたのです。使徒の中でもパウロは際立って聖書の中に隠された奥義を示された人です。そしてそれを多くの人々に分かち合う使命を、キリストから直接与えられた人でもありました。

●パウロはタナフ(=ユダヤ人の聖書)をつまびらかに読みながら、神が約束しておられることがメシア・イェシュアを通して実現されたこと(実現されること)を悟った人です。ですから、私たちはパウロの書いた多くの書簡を通してそれに触れることができます。

【新改訳2017】イザヤ書34章16節
【主】の書物を調べて読め。これらのもののうち、どれも失われていない。それぞれ自分の伴侶を欠くものはない。
それは、主の口がこれを命じ、主の御霊がこれらを集めたからである。

●イザヤ書34章は諸国に対する神のさばきが記されている箇所ですが、その最後に記されているのが、16節のことばなのです。ここで「【主】の書物」とは、神の霊によって書き記された聖書のことです。これを「調べて読め」と訳されているヘブル語は「ダーラシュ」(דָרַשׁ)と「カーラー」(קָרָא)の命令形です。口語訳では「つまびらにに、たずねて、これを読め」と訳しています。「カーラー」は「呼ぶ、名づける、読む」という意味の他に、「出会う、向かい合わせにする」という意味もあります。つまり、聖書を「読む」ことは「出会う」ことでもあるのですが、何に出会うのかといえば、「伴侶、連れ合い」にたとえられている神の約束と成就のかかわりに出会うということです。聖書をそのようにして「読め」ということです。しかもそのように命じているのは「主の霊」です。すなわち、聖書は主の霊によって、「連れ合い」、すなわち「約束と成就」の関係として編集しまとめられているからです。約束には祝福もあれば、のろいもあります。それはいずれにせよ必ず成就します。その成就には救いもあれば、さばきもあるのです。「雄と雌の対」(=連れ合い)が一つも欠けることがないとたとえられているように、聖書には必ず「約束と成就」の関係があることを知って、聖書を一つの書として読むことの大切さを教えています。

●神の約束が必ず成就するのは、神が真実(「エメット」אֱמֶת)であることのあかしです。なぜ私たちは「アーメン」(אָמֵן)と言うのでしょうか。それは神が「真実」であるからという告白に他なりません。神の真実は、歴史という試練の舞台の中で貫かれ、永遠にまで至るのです。「真実」を意味する「エメット」(אֱמֶת)も「アーメン」(אָמֵן)も、いずれもその語源は「永続する、堅く立てる」を意味する「アーマン」(אָמַן)です。神は、私たちが約束と成就の関係を知ることができるように教育し、育成されるのです。それが聖書でいう「信仰」です。ですから、信仰とは神の真実を信じることを意味します。神の約束と成就に基づく神の真実を信じることによって、神のご計画に参与することが神に対する「愛」であり、「献身の奥義」です。神のご計画の究極は「神と人とが共に住む」ことです。このような視点で教えられているのが、イェシュアが語っている「御国の福音」なのです。「御国の福音」はすでにイェシュアの死と復活によって始まっていますが、その完成は再臨によってもたらされます。ですから、福音の究極的完成はこれからのことです。

3. イェシュアの名に隠された「御国の福音」という神のご計画

【新改訳2017】イザヤ書 46章10節
わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。

●ここでは、神のご計画の将来における究極的完成は、すでに「初めから」「昔から」告げられていることを示しています。一体どのように告げられているのでしょうか。旧約聖書の創世記1章1節、そして、新約聖書のマタイの福音書1章1節と23節、およびヨハネの福音書1章14節からそのことを学びたいと思います。

(1) 旧約聖書 創世記1章1節(【新改訳2017】)

はじめに神が天と地を創造された。

①「天と地を」というフレーズ
●これは文字通りの「天と地」ではなく、天におられる「神」と天の写しである「地」を意味し、それは「神と人とが共に住む家」(エデンの園、幕屋、神殿、教会、御国、永遠のエルサレム)のことを指しています。ヨハネの黙示録20章では「メシアによる王国」が、21~22章では「新しいエルサレム」のことが記されています。

②「創造された」という語彙
●「創造された」というヘブル語の「バーラー」(בָּרָא)は神にしか使われない語彙です。ここでは完了形で書かれています。いまだ実現していなくとも将来必ず実現する場合、へブル語では完了形で表すのです。これを「預言的完了形」と言います。しかも「バーラー」は、神のご計画において、無から有を創造するというよりも、本来あったものを「新しく創り直す、再び回復する」という意味における「創造する」です。

③「はじめに」というフレーズ
●「はじめに」と訳されたヘブル語の「ベレーシート」(בְּרֵאשִׁית)は、「はじめ」を意味する「レーシート」(רֵאשִׁית)に、「~によって」を意味する前置詞の「べ」(בְּ)がついたものです。神が天と地(神と人とが共に住む家)をどのように創造されるのかと言えば、「レーシートによって」です。この「レーシート」は「初穂」、つまり「死からよみがえられた初穂としてのイェシュア」を意味します。ですから、「ベレーシート」という聖書の冒頭のことばの中には、「復活のメシア」が預言的に隠されているのです。また、「復活されたメシア」は「最後のアダム」とも言われ、「いのちを与える御霊」となった方です(Ⅰコリント15:45)。それゆえ、「キリストにある人は新しく造られた者(「ベリーアー・ハダーシャー」בְּרִיאָה חֲדָשָׁה)」(Ⅱコリント5:17)となるのです。「ベリーアー」(בְּרִיאָה)は「バーラー」(בָּרָא)の名詞です。復活の初穂であるキリストなしに(キリストを信じることなしに)、神と人とが共に住むことは不可能なのです。

(2) 新約聖書 マタイの福音書1章1節、21~23節(【新改訳2017】)

1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。
21 マリアは男の子を産みます。その名をイエス(イェシュア)とつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

画像の説明

●1節は人間的視点での「ダビデの子としてのメシア」を意味し、その方は「救う」を意味する「イェシュア」(יְשׁוּעַ)であり、さらに、その方は「インマヌエル」(עִמָּנוּאֵל)と呼ばれると御使いは告げています。それは「神が私たちとともにおられる」という意味です。「イェシュア」と「インマヌエル」は二つで一つの名前なのです。なぜなら、そこには神のご計画と目的か含まれているからです。

(3) 新約聖書 ヨハネの福音書1章14節(【新改訳2017】)

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。・・」

●「私たちの間に住まわれた」の「住む」(「スケーノオー」σκηνόω)は「幕屋を張られた」という意味で、「ことばである人となったイェシュアは、神と人とが共に住む実体であるということが分かります。ここでは、神のご計画を実現するために、ことばであり、神である方が、人となることが示されています。イェシュアは神であるだけでなく、私たちと共におられる神でもあり、マタイの「インマヌエル」とも通じます。要するに、幕屋全体は「キリストのすべて」を啓示しているのです。

画像の説明

(※図にある亜麻布で張られた北と南の掛け幕がそれぞれ100キュビト、西の掛け幕は50キュビト、東は入口を除いて左右に15+15で30キュビト、合わせると周囲は280キュビトになります。この数字は人間の妊娠期間を表します。)

●最後に、もう一度言いますが、今回のテキストにあるイェシュアの質問になぜパリサイ人が答えられなかったかと言えば、それは彼らが神のご計画の全体像(マスタープラン)を知らなかったからなのです。神のご計画を知ることは、イェシュアの霊であり、いのちであることばをより深く理解するためであり、それによって永遠のいのちを得るためなのです。

2021.3.28
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