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宗教指導者たちとの論争 (3)「律法」

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98. 宗教指導者たちとの論争 (3)「律法」

【聖書箇所】マタイの福音書22章34~40節

ベレーシート

●22章15~46節は、イスラエルの指導者たち(パリサイ人・サドカイ人・律法の専門家)とイェシュアとの神学的論争が以下のようにまとめられています。
(1) 納税の問題(パリサイ人)・・・「税金を納めることは律法にかなっているのかどうか」(22:15~22)
(2) 復活の問題(サドカイ人)・・・「復活があるとすれば、その際どうなるのか」 (22:23~33)
(3) 律法の問題(律法の専門家)・・「律法の中でどの戒めが一番重要か」(22:34~40)
(4) メシアの問題(パリサイ人)・・「キリストはだれの子か」(22:41~46)

●今回はその第三の「律法」の問題に関することです。ここでの論争相手はパリサイ人たちの中から「律法の専門家」がイェシュアを試そうとします。律法の考え方において、パリサイ人たちの視点とイェシュアの視点は異なります。イェシュアの視点は常に「天の御国の福音」に置かれています。その天の御国の福音の視点とは、律法という神の教え全体を鳥瞰的に見る視点です。例えて言えば、森全体を空から見ているようなものです。しかし、パリサイ人たちの視点は律法の一つ一つの戒めを大切にしていくという視点です。例えて言えば、森の中にある一つ一つの木を直に見ているようなものです。そのため、森全体を見渡すことができないのです。

【新改訳2017】マタイの福音書5章17~18節
17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。

●このみことばも天の御国の福音の視点で語られています。ですから、私たちもイェシュアの視点を持たなければ聖書を理解することができません。神のご計画全体も知ることができないのです。森を形成している一つ一つの木である戒めは重要です。しかし森全体を見失っては本末転倒です。「律法と預言者」のすべてがどのようにして実現するのかを知るならば、パリサイ人の律法主義に陥ることは決してないのです。今日のテキストに目を留めてみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書22章34~40節
34 パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。
35 そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。
36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38 これが、重要な第一の戒めです。
39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」


1. 律法の中でどの戒めが一番重要か

●「律法の専門家」とありますから、おそらく、律法学者たちの中でも「戒め」に関して精通した者であったと思われます。その彼がイェシュアにした質問は、「律法の中でどの戒めが一番重要か」というものでした。「戒め」と訳されたギリシア語は「エントレー」(έντολή)ですが、ヘブル語では「ミツヴァー」(מִצְוָה)で「仰せ・命令」とも訳されます。以下の聖句は、「命令」「戒め」と訳されています。
「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」(Ⅰヨハネ5:3)。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ15:12)。

●当時のユダヤ教では613の戒めがありました。その中で一番重要な戒めは何かという質問に答えるためには、613からなる戒めをよく知っていなければ即座に答えることができません。有名な十戒も「ミツヴァー」に入りますが、わずか十の戒めの中からどの戒めが一番重要かと問われたら、あなたは何と答えるでしょうか。それ以前に、「十戒!!・・ええと・・何だったっけ・・」のレヴェルではとても話になりません。今回の場合、戒めが10ではなくて、613ある中から答えなくてはならないのです。

●パリサイ人たち、律法学者たちは613の戒めを大切なものとし、その戒めをすべて守ることによって、神の前に義とされると考えていたのです。そうでなければ神の国は来ないと考え、人にもそのように教えていたのです。「613」の戒めのうち、
A.「・・しなければならない」という積極的命令が248。
B.「・・してはならない」という否定的命令が365、
合計613です。

●ちなみに、十戒の中で、Aの命令は2回(「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」、「あなたの父と母を敬え」)、Bの命令は8回(「わたし以外に、ほかの神があってはならない」「自分のために、偶像を造ってはならない」「主の名をみだりに口にしてはならない」・・等)です。

●イスラエルの民に対して、神は「代々にわたり、衣服の裾の四隅に房(「ツィーツィット」צִיצִת)を作り、その隅の房に青いひもを付けるように」(民15:38)と指示されました。その目的は、イスラエルの民がそれを見ることで、「主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするため」でした。それによって、彼らは「神に対して聖なる者となる」というものでした。すばらしい神の発案です。

房(ツィーツィート).PNG

●「房」を意味するヘブル語は「ツィーツット」(צִיצִת)ですが、ユダヤ人の口伝律法ではその綴りが「ツィーツィート」(צִיצִית)と表記されます。そのゲマトリア(=ヘブル語の子音を数値に置き換えること)は、右から「90+10+90+10+400」で「600」となります。右の写真は、ユダヤ人が祈りの際に用いる肩掛け(タリート)です。それに付けられた房(ツィーツィート)があります。8本の糸を束ねて、5つの結び目によって作られています。なぜそのように作っているのでしょうか。それは613という数を意識させるためです。糸8本と結び目5つで「8+5=13」となります。それに「ツィーツィート」のゲマトリアを加えることで「613」としているのです。このように、ユダヤ人たちがいかに神の命令(戒め)を守って、聖なる者となろうとしているかが理解できます。

2. イェシュアの「第一の戒め」

●律法の専門家の質問にイェシュアは即座に答えられました。

【新改訳2017】マタイの福音書22章37~38節
37 ・・「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38 これが、重要な第一の戒めです。

●37節の聖句は、私たちが礼拝の冒頭で歌っている申命記6章4節。「シェマ イスラエル アドナイ エロヘーヌー アドナイ エハード」(שְׁמַע יִשְׂרָאֵל יְהוָה אֱלֹהֵינוּ יְהוָה ׀ אֶחָד)=「聞け、きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主は唯一である。」の後に続いている命令のことばです。いろいろな訳でここを見てみましょう。微妙に異なっています。

【新改訳2017】
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
【新改訳改訂第3版】
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
【新共同訳】【口語訳】
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』


①「心」は「レーヴァヴ」(לֵבַב)。ギリシア語は「カルディア」(καρδίᾳ)。英語はheartです。
この訳はどの聖書でも共通しています。「心」は情緒的な意味ではなく、知性・意志的な意味です。
②「いのち」と訳された「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)は「思い・精神・魂」とも訳されます。ギリシア語では
「プシュケー」(ψυχῇ)、英語はsoulです。
③「知性」と訳された「マッダー」(מַדָּע)は「知識」を意味する語彙です。「知性・知力・思い」とも訳されます。ギリシア語は「ディアノイア」(διανοίᾳ)、英語はmindです。

●これらの三つの語彙を見る時、心情的なものではなく、むしろ、知性的な意味合いが強いのです。つまり、神を愛する上で重要なことは、日本的な意味での心情ではなく、「神を知る」ということが前提となっています。つまり、「神を知ること」と「神を愛すること」はイコールだということです。「知る」と言っても単に知識として知るという意味ではなく、共に生き、交わることを通して知るということです。しかし、そのような意味で神を知ることは、私たちの生来のどんな力をもってしても実は不可能なのです。ですから、使徒パウロは次のように祈っています。

【新改訳2017】エペソ人への手紙1章17~19節
17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、
神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように
18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、
19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように

●「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、神を愛する」ためには、神を知るための知恵と啓示の御霊を与えられることが不可欠であることをパウロは述べているのです。御霊による啓示によって、私たちの目が開かれることで、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどれほど偉大なものであるかを知ることによって、神を愛することができるようになるのです。私たちの頑張りや一念発起によってはかなわないのです。

●ところで、『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』(【新改訳2017】)を、岩波訳では以下のように訳しています。

「あなたは、あなたの神なる主を、あなたの心を尽くしつつ、あなたの命を尽くしつつ、あなたの思いを尽くしつつ、愛するであろう。」

●この訳がギリシア語原文に最も近い訳です。その理由として、「あなたは、あなたの」の5回がそのまま省略せずに訳されているだけではなく、「愛するであろう」もギリシア語原文通りなのです。このように訳されているのは、日本の聖書では岩波訳だけです。英語ではNKJVのYou shall loveで未来形となっています。にもかかわらず、引用元の申命記で「主を愛しなさい」と命令形となっているために、多くの聖書が命令形で訳しています。この点を少し検討してみたいと思います(これを説明するためには、少々、文法的な説明をしなければなりませんが・・)。

●申命記6章4節のヘブル語原文では、「愛しなさい」の前に、「聞け」という命令形があり、それが継続ヴァヴ法によって継続しています。実際の動詞は「愛した」という完了形なのですが、命令形の後の「継続ヴァヴ+完了形」となっているために、「愛しなさい」と訳されているのです。ところが、マタイのギリシア語原文では「愛しなさい」という命令形ではなく、なぜか、未来形の「愛するであろう」(You shall love)となっています。これをどのように考えるべきなのでしょうか。それはイェシュアが語った御国の福音の視点から見るならば、実に当を得ているのです。なぜなら、キリストが再臨(空中再臨と地上再臨)されるとき、イェシュアをメシアと信じる者は御霊のからだによみがえる(あるいは、変えられる)からです。つまり、「愛しなさい」と命令せずとも、おのずと心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、神を完全に愛するようになるのです。これが「シナイ契約」と「新しい契約」との大きな違いです。

●「新しい契約」には、シナイ契約にはなかったモアブ契約―「あなたの神、【主】は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、【主】を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。」(【新改訳2017】申 30:6)ということばがあります。ここで「神が・・心の割礼を施し・・心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、【主】を愛・・するようにされる」と預言的に語られているからです。「新しい契約」を預言した預言者エレミヤも「わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。」(エレミヤ31:33)と語っています。律法を「書き記す」その目的は、主のすべての民が「主を知る」ようになるためです。これが「新しい契約」であり、神にしかできない「新しい創造」です。

●この神の約束をイェシュアが知らずにこの世に来られたわけがありません。当時のユダヤの律法の専門家たちは、神がなさろうとするご計画が分からず、神の戒めを解釈し、しかも自分たちの力でその戒めをなんとか行おうとしていたのです。これがパウロの言う「行いの義」です。しかしイェシュアやパウロが伝えたのは「信仰による義」であり、その内容とは「神が、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、神を愛するようにしてくださるということを信じる信仰」なのです。神の約束を信じることが、最も神を喜ばせるのです。ですから、私たちは「行いによる義」ではなく、「信仰による義」によって神のご計画とみこころ、みむねと目的が実現され、神の祝福にあずかる(=救われる)ことができるのです。このように、信仰とは神が実現してくださる約束に堅く立つことを意味します。したがって、ギリシア語原文の未来形の「愛するであろう、愛するようになる」は、御霊によって書かれたものだと言わざるを得ません。原文ではこの引用箇所はマタイもマルコも同様に未来形で示しています。それは、へブル語での「完了形」の場合、預言的に「やがて必ずそうなる」となるために、ギリシア語では未来形となったと考えられます。

●律法の専門家がイェシュアに「律法の中でどの戒めが一番重要ですか」と問うたので、「あなたの神、主を愛しなさい」というふうに命令形で答えるのが自然だと私たちは考え、納得してしまっています。ところが、原文ではイェシュアの答えは違ったのです。つまり、イェシュアは、シナイ契約の戒めをそのまま引用したのではなく、徹頭徹尾、「御国の福音」(全体的な神のご計画)の視点で答えられたのです。これをシナイ契約のように「神を愛しなさい」と命令形で理解し、文字通り神の戒めとして受け取ってしまうことで、教会においても、またクリスチャン個人においても、今だに混乱がもたらされているのです。確かに「神を愛すること」は神のみこころであり、聖なる律法の要ですが、その神のみこころとみむねを実現する力が私たち人間のうちには無いのです。ですから、完全な意味で心を尽くすとか、いのちを尽くすとか、思いを尽くすことはできないのです。イェシュアを信じることで、すでに神を愛するということが私たちのうちで始まっているのは確かなことですが、いまだそれは不完全なのです。神が期待するような完全なレヴェルで神を愛するようになるのは、将来のことなのです。それは楽しみなことではないでしょうか。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙13章12節
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります

●信仰が与えられるとは、「美味しいものは残しておいて、後でゆっくり味わって食べる」ことに似ています。将来に永遠の楽しみを持っている人というのは、何と幸せな人でしょう。この世の闇の世界にあっても、輝いて生きる者となるはずです。そんな生き方を支える約束が、やがて「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛するようになる」という約束ではないでしょうか。私たちは御国の「すでに」と「いまだ」の終末論的緊張関係を知っていなければなりません(Ⅰコリント13:12)。このことを知ることで、パリサイ的な偽善と、無力さによる自己卑下から守られるだけでなく、正しい信仰と希望をもって生き抜くことができるのです。

3. イェシュアの「第二の戒め」

【新改訳2017】マタイの福音書22章39節
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。

●これはレビ記19章18節からの引用です。この第二の戒めも、第一の戒めと同様に、命令形でなく、原文にある通り「あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう(愛するようになる)」と未来形で訳すことで、御国の福音となるのです。メシア王国は愛に満ちた世界です。そんな世界をまだ私たちはだれも経験していません。なぜなら、世界のどこにいても、敵意が満ちているからです。その敵意のために私たちの心は深く傷つき、その傷ついた経験は私たちの思いの中に大きな影響を及ぼしています。ですから、簡単に人を心底から信用できないでいるのです。そんな私たちの中に真実の愛をもってかかわってくださる神がおられます。その神こそ、私たちの傷ついた心を癒してくださるのです。

●人を愛することができない背景には、必ず、人に対する何らかの不信経験が存在しています。心が傷つけられた経験を持っているために人を信頼することができないのです。その傷ついた心が癒されるという経験なしに、私たちは人を愛することはできないのです。なぜなら、人はこの世にあるものによっては傷ついた心が癒されるということがないからです。心の傷は「愛」によってのみ癒されるのですが、その癒しのプロセスは決して容易なことではありません。出エジプトしたイスラエルも、多くの者が癒されることがなかったのです。神の愛が注がれていたにもかかわらず、それを見出し得なかったからです。その愛に触れた者(ヨシュアとカレブ)だけが、約束の地に入ることができたのです。彼らは神を愛することができたので、人々を約束の地に導くことができたのです。「愛する」とは、主体的・自覚的・自発的です。神の確かな愛に支えられているので、人によって傷つくことを恐れないからです。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出」すからです(Ⅰヨハネ4:18)。

●恐れることのない愛は、その人を自由にします。天の御国(メシア王国)は愛する者たちが満ちているので、恐れがありません。自分を何かによって隠す必要もありません。すべてが裸ですが、それが恥ずかしいとも思わない世界です(創世記2:25)。そんな世界を想像できるでしょうか。恐れが全く締め出された世界なのです。それゆえ「真の安息」があるのです。この世でそのような安息を見出すことは不可能です。

ベアハリート

●今回の律法についての神学的結論が40節に記されています。

【新改訳2017】マタイの福音書22章40節
「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

●「かかっている」という語彙は、「木に掛ける」といった意味で多く使われていますが、ここでは depend on、つまり「基づいている」=「全体が~に依存している、~に要約(総括)されている」という意味での「かかっている」です。楕円形には二つの中心点があるように、聖書全体がこの二つの戒めにかかっているのです。旧約聖書全体は本来「モーセの律法と預言者たちの書と詩篇」(ルカ24:44)の三つからなっているにもかかわらず、ここであえて「律法と預言者」という言い方をしているのも、「二つの戒め」の「二つ」を強調しているからなのかもしれません。神を愛することと、隣人を愛することは、別々のことではなく、楕円のように二つの中心点を有しながら、実は一つであるということなのです。このように、「神への愛」と「人への愛」という二つの戒めを重要な戒めとしたのは、イェシュア以外にはいませんでした。「愛に生きる」世界、これが天の御国のすばらしさです。

私たちは、イェシュア・メシアと御霊によって、完全に「神を愛するようになる」という信仰による確かな希望をもって今を生きることができます。愛に生きることは永遠につながることであり、それは神のご計画の究極的な目的なのです。今の私たちは、神のご計画の「すでに」と「いまだ」の間に置かれていることも正しく認識しながら、たとえ不完全であったとしても、愛に生きる者となれるのです。それは、闇の世に光を照らすという地上での務めにつながるのではないでしょうか。神の愛のうちに招かれた私たちが、神を知ることを求めつつ、またメシアの再臨を待ち望みつつ、それぞれが自分の置かれた場で愛に生きる歩みが続けられようにと祈りたいと思います。

2021.3.14
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