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夢見るヨセフへの憎しみと妬み

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41. 夢見るヨセフへの憎しみと妬み

【聖書箇所】 37章1節~11節

はじめに

  • 創世記37~最後の50章までは「ヤコブの家の歴史」が記されています。その歴史の中にヨセフを中心とした物語が置かれています。新改訳で「歴史」と訳されたことばの原語は「トールドート」תוֹלְדֹתで、家族の「系図、経緯、由来、系譜」とも訳されます。創世記には10の「トールドート」があります。
  • 37章2節にある「ヤコブの歴史」は、ヤコブ本人というよりも、ヤコブの子どもたち(特に、ヨセフ)の歴史が記されています。とはいえ、ヤコブの死と葬りのことが最後(49, 50章)で記されています。ヤコブがエジプトに行ったのは130歳(47:9)でした。ヤコブの一生は147歳ですから、エジブトで過ごした年月は17年間ということになります。その間、エジプトへ行くまでヤコブの家族にどんなことが起こったのか、それを記しているのが37~50章です。

1. ヤコブの家族における愛と憎しみ

  • 聖書は、父ヤコブが「他の兄弟たちのだれよりもよりもヨセフを愛した」と記しています。「愛した」ということばがあるかと思えば、その反対の「憎む(きらう)」שָׂנֵאと「妬む」קָנָאということばが目立ちます(37:4,5,8,11)。「愛する」ということばも、他の聖書では「かわいがる」と訳されています。好きとか嫌いという感情を聖書ではすべて「愛する」、「憎む」という言葉で表しています。これはユダヤ的表現のようです。「神はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という表現もマラキ書にありますが、「愛さないことは憎むこと」となり、その中間的表現がないようです。
  • 親が子どもを偏愛すること、そしてそれがもたらす弊害について、私たちはその善悪を論じることができるかもしれません。しかし聖書はその事実が生じる「愛と憎しみ」のドラマを淡々と描いているだけです。
  • 家庭における「愛と憎しみ」は今にはじまったことではありませんでした。アダムとエバから生まれた兄弟カインとアベル。ここでは神がアベルのささげ物に目を留め、カインのささげ物に目を留めなかったという事実が最初の殺人を引き起こしました。さらには、イシュマエルとイサク、エサウとヤコブ、レアとラケル、そしてヨセフとその兄弟たちはみな、それぞれが、ひとつのしかない祝福、ひとつの家督権、あるいは一人の夫の愛をめぐって、愛と憎しみを経験してきました。さらにはぺニンナとハンナなど、歴史を見るなら、愛憎の種は事欠きません。
  • 人間が生きていく上で最も必要な家族、その家族の中で人間の罪の嵐が逆巻いているのです。もし、神がいるなら「なぜこんなことが・・・(起こるはずがない)」と自分勝手な思い込みで現実を捉えようとするならば、おそらく多くの者が神につまずいてしまうことでしょう。イエスさまも「私が来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。」(マタイ10:34)と言って、人間の自分勝手な思い込みに釘を指しています。
  • 37章では父ヤコブがヨセフを偏愛しています。しかしヤコブにしてみれば、そもそも自分が愛したのはラケルのみであって、伯父のラバンに騙されてレアを娶らざるを得なかったこと、そしてレアが夫の愛を自分に向けるために多くの子ども産んだこと、それがラケルにも影響を与え、レアとラケルの愛憎にそれぞれの女奴隷をも巻き込んで、結果的に多くの子どもが生まれてしまったのです。ですから、ヤコブとしては自分が愛したラケルが産んだヨセフ(11番目の息子)は特別に可愛かったはずです。それぞれの立場を思えば、善悪を論じることは簡単なことではありません。善悪を論じることの中に、その人の善悪の基準や価値観が映し出されるだけです。聖書の神は人の善悪を越えて働いておられるからです。

2. ヨセフの夢に「心を留めた」ヤコブ

  • 37章にはヨセフが見た夢が2回記されています。それは正夢でした。それゆえ神がヨセフに見せた夢であることは明らかです。最初の夢で兄弟たちはヨセフをますます憎むようになりますが、次の夢では妬むようになります。兄弟たちの思いを考慮しないで語るヨセフの態度について、父ヤコブは注意を促しますが、同時に、この夢のことを「心に留めていた」とあります。
  • ちなにみ、「心に留める」と訳されたヘブル語は「シャーマル」שָׁמַרです。本来は、守る、保つ、見張る、気をつけるという意味です。LXX訳(70人訳聖書)ではここの「シャーマル」שָׁמַרを「ディアテーレオー」διατηρέωのアオリストで訳しました。この「ディアテーレオー」διατηρέωが新約聖書のルカの福音書2章51節にイエスの母マリアがエルサレムの神殿でイエスがしていたことやイエスが語った言葉―すなわち、「わたしが必ず父の家にいることをご存知なかったのですか。」―を「心に留めた」で使われていのす。ちなみに、ルカ2章19節の「心に納めていた」という言葉は、「スンテーレオー」συντηρέωで新約聖書では4回(マタイ9:17/マルコ6:20/ルカ2:19/5:38)、但し5章38節には「そうすれば、両方とも安全に保たれます。」とありますが、ギリシャ語聖書のネストレ原本N27にはありません。「ディアテーレオー」διατηρέωも「スンテーレオー」συντηρέωも親類に当たる動詞です。前者の場合は、自分には理解できなくても、そこに隠された大切なものがあることを直感的に察して、心の中に大切に留めておくいう意味合いが強いことばです。
  • ヤコブが「これらのことを心に留めていた」(11)という表現は、これから展開する歴史における神の摂理を暗示させています。私たちもこの夢を心に留めながらこれからの展開を見ていきたいと思います。
  • 人間の目に見える出来事は、織物で言うならば布地の裏を見ているようなもので、一見して何がそこに織られているかは分かりません。しかし織物を表から見るならば、そこにどんなデザインを織り込もうとしたかがはっきと分かるのです。そのような視点で、神が歴史を導かれ、支配しておられることを知る信仰に至るまでには、少々、年月を要するのかもしれません。ヨセフの物語を通して、ブレない信仰を与えられたいものです。

2011.10.21


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