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夕暮れ時の罠

37. 夕暮れ時の罠

【聖書箇所】11章1節~12章25節

はじめに

  • 伝記とか偉人伝と言われるものは往々にして理想化されています。もし「ダビデ伝」なるものがあるとすれば、理想化は免れません。聖書がもし人間の手によって書かれた書物であるなら、11章と12章は除外されたかもしれません。11章と12章には、ダビデの生涯における最大の失敗をもたらしたダビデの罪が少しの手心も、言い訳もなく記されています。聖書はそのように私たちにこびることなく、人間の本来の姿をきわめて赤裸々に描いています。それゆえ聖書は信頼できる書物と言えます。ダビデにつまずく人の多くは、ここでダビデが犯した罪のゆえであろうと思います。

1. ダビデの絶頂期に起こった罠

  • ダビデの生涯における最大の罪は、彼の絶頂期に起こりました。そのいきさつが11章に記されていますが、それはダビデが将軍ヨアブ以下イスラエルの全軍をアモン人の首都ラバに派遣し、そこを包囲していたときでした。これまでダビデは常にイスラエルの民の先頭に立って戦ってきました。これまでの全力投入の戦いの結果、ほぼ勝利わ目前としていました。ですから、自分はもう戦場には行かず部下たちに任せてね自分はひとりエルサレムにとどまっていました。昼寝の後の「ある夕暮れ時、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。」(11:2)と記されています。その女性は部下の妻バテ・シェバでした。
  • 聖書は「見えた」と訳しています。一見、たまたま目にしたかのように思えますが、ダビデが屋上を「歩いている」という部分の動詞「ハーラフ」(הָלַךְ)は強意形のヒットパエル態が使われています。ヒットパエル態は自発性、主体性を表現します。したがって、ここでのダビデはなんとなく歩いていたのではなく、ある目的をもって歩いていると解釈し得なくもありません。つまり、見ようとして歩いていたのです。なぜなら、ときおり彼が女性がからだを洗う姿を見ていたからです。そんな解釈すれば、より一層ダビデの品位を落としかねません。しかし男性であるなら、ダビデの思いが理解できるはずです。
  • バテ・シェバは非常に美しかったと聖書は記しています。それがダビデの欲情をそそりました。ダビデは人をやって彼女のことを調べさせ、それから彼女を呼び出し、彼女と寝たのです。そして彼女がみごもったことを知ると、夫のウリヤを戦場から呼び出し、彼を家に帰らせて妻と寝床を共にさせて、自分が犯した姦淫の罪を覆い隠そうとしました。しかし、ウリヤは「仲間が戦場で野営しているときに、自分だけが・・・」と言って家に帰ることをしませんでした。ウリヤのこの一言は、ダビデの心に痛く刺さったに違いありません。しかもダビデは忠実な部下をもった王として、嬉しそうな顔をしてウリヤの言う事を受け入れざるを得ませんでした。ウリヤの正論によってかえってダビデの罪を大きくはらませてしまう結果となりました。それゆえ、ダビデは邪魔になった彼を殺そうと考え、合法的に殺してしまったのです。
  • 罪は、一時の気の緩みから欲望を通じて入り込み、欲がはらんで死を生みます(ヤコブ1:14~15)。そもそもダビデが「エルサレムにとどまっていた」ことが罠に陥る隙を自ら作ったと言えます。
  • イエスが荒野で試練を受けられた時、40日40夜の断食をしていたときにはサタンはイエスを誘惑しませんでした。イエスが断食をしたあとで空腹を覚えられたその時に、「試みる者」が近づいて来たのです。ある大きな戦い、大きな責任から解放されたとき、最も危ないのです。
  • 人が自分の責任ある持ち場から離れるとき、戦いの場から退いたときこそ、自分のよろいを脱いでいるときであり、最も自分自身を弱めるときです。よろいを脱げば敵の矢に刺し貫かれるのは時間の問題です。どんな立場にいても、どんなに立派な人でも敵の誘惑から免れる者はおりません。サタンの悪巧みは実に巧妙です。ダビデはそのことを実感させられましたが、後の祭りでした。
  • ダビデの良心は麻痺して鈍くなり、王の権威をもって合法的にうまく取り繕えかのように見えました。すべては内密に解決し、ダビデの罪は隠されたまま一年近くが経過しました。人の前には完全犯罪のように処理されたように見えました。しかし11章の最後の節を見るなら、神は決してこのことを見過ごしにはされなかったのです。27節に、はっきりと「ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった」(27節)とあります。

2. 罪を悔い改めたダビデに対する神の破格の赦し

  • 神はダビデのもとに預言者ナタンを遣わしました。それはダビデの罪を指摘して、悔い改めに導くためでした。このことは重要です。もし、人の罪を指摘するだけの恐ろしい神であったとしたら、私たちはいよいよ萎縮し、事態をより一層悪くしていくだけです。
  • 北風と太陽がひとりの旅人のオーバーを脱がせようとして競争する話があります。北風は冷たい風をビュービューと吹きつけて旅人のオーバーを脱がせようとしました。しかし旅人はますますオーバーをかたく身にまとい、身体を縮めました。一方の太陽は、ニコニコとほほえむように、いつになく暖かく旅人を照らしました。旅人はいつのまにか、のびのびと身体を伸ばし、やがてはボタンをはずし、ついにはオーバーを脱いでしまいました。
  • 神を、いつも罰を与えるために見ているという概念は、人を真に自由にすることはできません。人間には罪の解決をつけることができません。ダビデがどうして自らの罪を認めて、神の前に悔い改めることができたのでしょう。それは、神が太陽のように、私たちに人間に対して憐れみと恵みをもってかかわって下さるからです。この主のあわれもにすがることで、私たちは思い切って自分のありのままの姿を神の前に言い表すことができるのです。神は、まさにダビデが罪のしがらみから解放するためにナタンを遣わされたのです。
  • ナタンはダビデに、人情のかけらもない金持ちと、その金持ちに大切な唯一の羊を奪われてしまった男の話をしたときに、ダビデはその金持ちの非情さに、烈火のごとく怒りました。「そんなことわした男は死刑だ」と(12:5)。そのとき、ナタンはすかさず「あなたがその男です!」。この一言がダビデの心を刺し通しました。私たちは自分のことを棚に上げて、自ら神(裁判官)の立場に立ち、他者の悪を平気で断罪するのです。ここに罪があります。「あなたがその男です。」、「あなたがその人です。」
  • ダビデは詩篇51篇の中で、自分の内にある罪を告白し、罪の赦しを願っています。

【新改訳改訂第3版】詩篇51篇
1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。
5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

  • 3節に「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。」とダビデは告白しています。しかしそれは自ら悟ったのではなく、預言者を通し、神に指摘されてはじめて知ったことでした。これが本当の罪の知り方です。さしてダビデは続いて、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。」と述べています。ダビデは神の前に罪を犯したと認めています。「神に対して」の罪を認めるということのなかに、「人に対して」の罪も含まれています。
  • ダビデが人のいのちを殺めたという事実は変わりませんが、驚くべことに、神はダビデの罪を赦されました。このことに関して、「こんなバカな話はあるか」と言って神につまずく人もいるかもしれません。「手ぬるいんじゃないか」と神を責め立てる人もいるでしょう。しかし、ダビデは「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」と告白しています。ダビデは、バテ・シェバ事件が起こらなかったとしても、自分のうちには本質的には神の前に罪人であると認めることができた人でした。たとい殺人の罪を犯さなかったとしても、姦淫の罪を犯さなかったとしても、それを犯した人が自分よりも罪人だとは決して思わない。同じ動機は自分のうちにもあることを認めることができた人でした。

3. ダビデの新たな「立ち上がり」

  • 罪は罪として、決して見過ごしにはなさらない神ですが、私たちが正直に、心からへりくだって、主の前にその罪を告白するとき、神は破格の恵みをもって赦しを与えられます。このことなしにダビデは立ち上がることはできませんでした。事実、自分の犯した罪の代償として、生まれた子は病気で亡くなりました。するとダビデは地から起き上がり、・・・主の宮にはいり、礼拝してから、自分の家へ帰った」(12:20)とあります。家来たちはこのダビデの取った行動が理解できなかったようです。しかし、ダビデは新しい歩みをはじめるために自ら「起き上がった」(「クーム」קוּם)のです。この「立ち上がり」こそ、やがて新約聖書の「アニステーミ」άνιστημιという復活用語につながります。
  • 使徒パウロもダマスコ途上で天からの光の中で主と出会い、地面から立ち上がったのです。そして彼は新しくされ、他のどんな使徒たちよりも多くの働きをなしてキリストの福音をあかしする者となりました。これは神の恵みによるということをパウロは繰り返し語っています。

2012.8.6


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