****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

士師記の結論的定型句

士師記の目次

17. 士師記の結論的定型句

【聖書箇所】 21章1節~25節

はじめに

  • ベニヤミン族に対する制裁措置を取ったイスラエルは、戦いが終わってはじめて良心の呵責を覚えたようです。彼らは神の前に座り、声を上げて激しく泣き、「主よ。なぜイスラエルにこのようなことが起こって、きょうイスラエルから一つの部族が欠けるようになったのですか。」と祈ったことから理解できます。しかし、その背景にある根本的問題の掘り下げもきわめて希薄であり、またその対処の仕方もきわめて場当たり的なものでした。実は、ここに大きな問題があったことを思います。
  • 士師記の結論的定型句をどのように理解するかが、士師記のメッセージをどのように受け止めるかの鍵になるようです。

1. 結論的定型句をどのように理解するべきか

  • 士師記の結論的定型句は、17章~21章に4回(17:6/18:1/19:1/21:25)登場します。

    【新改訳改訂第3版】士 21:25
    そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。

(1) 肯定的理解

  • この定型句を肯定的に理解するか、あるいは否定的に理解するかによって士師記のメッセージの受け取り方が変わります。肯定的な視点からこの定型句をみるならば、イスラエルには人間の王がいなかったために、それぞれ(ひとりひとり)が自分の目に正しいと見える(思える)ことを行わざるを得なかったという理解です。
  • 「王がいない」とは、ここの場合、人間の王がいないという意味で使われていると思います。本来は、イスラエルでは神が王(統治者)ですから、必ずしも、人間の王がいればすべて良しということにはなりません。神に立てられた、あくまでも神の代理者としての王であれば問題ありませんが、そうでない場合は世俗的な国となんら変わりません。むしろ、そのような王はいないほうがましです。それぞれ各自がしっかりと神に拠り頼んで歩むならば、神がその歩みをまっすぐにしてくださるはずです。各自の信仰的自立が求められます。その意味で、それぞれ(ひとりひとり)が自分の目に正しいと見える(思える)ことを行なうという課題が課せられた時代だったと言えます。

(2) 否定的理解

  • 否定的な視点からこの定型句を見るならば、それぞれが自分勝手に、自分の目に正しいと思うことを行なっていたという理解です。それゆえにイスラル全体が混沌とした、まとまりのない暗黒時代をもたらしたという理解です。
  • イスラエルがエジプトから救い出された時には神の人モーセがおりました。そして神の律法を直接的に神の民に語られました。カナン入国の際にはモーセの後継者であったヨシュアがおりました。いずれも偉大な指導者によってイスラエルの民全体は導かれてきました。しかし約束の地に入り、各部族がそれぞれの土地を割り当てられてからは、モーヤやヨシュアのような偉大な指導者はなく、そのときそのとき、外敵による圧迫を受けた時に、神によって立てられた士師によって導かれました。ですから神の民としてのあり方を指導する者はいなかったために、神の教えから人々は逸脱し、自分勝手な歩みをしていたという理解です。

2. 士師記からの「問いかけ」とは何か

  • 確かに多くの見方は、この時代の特徴は霊的暗黒時代とみなされています。確かにそのような見方は間違ってはいないと思います。しかし、そうした状況をもたらした要因についての鋭い問いかけはきわめて希薄です。神を求めて尋ね求める者もいません。それゆえ、モーセやヨシュアの霊性が継承されていないのです。
  • 主はヨシュアに対して「わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。」と語られました。こうした霊性はなぜ途絶えてしまったのかという問いかけは、士師記では探求されなかったために、この宿題はやがてバビロン捕囚となった人々の時代に持ち越されることになりました。
  • 神から与えらたれ嗣業の地を喪失するという捕囚の出来事、未曽有の悲惨な出来事を通して、神の民ははじめて、なぜこのような自体になったのか自ら神に問いかけるようになります。そのようにして、神とのかかわりは再建されるようになります。士師記の時代にはそれがなかったことが大きな問題だったように思います。

3. 信仰継承の担い手の責任

  • 偉大な指導者であったモーセやヨシュアの霊性を継承すべき責任の担い手はだれに委ねられたのでしょうか。おそらくそれは各部族に振り分けられた祭司やレビ人であったと思われます。しかし彼らは神の民にモーセの律法の教育に十分な力を注がなかったと考えられます。また一家の家長としての責任も十分でなかったのかもしれません。各自がそれぞれ主体的、自覚的、自発的な信仰に立つようにとモーセの決別説教(申命記)の中ですでに語られていましたが、その取り組みがそれぞれの家庭でなされなかったようです。つまり信仰の継承の失敗がイスラエルを霊的に弱める結果となったと言えます。士師記のこの課題はいつの時代においても変わることなく投げかけられているのです。
  • 家庭教育における信仰の継承は決して簡単ではないようです。しかし神の民がそれぞれ取り組まなければならない大事業なのだと考えます。

2012.5.11


a:7026 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional