****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

場所を備えに行かれるイエス

6. 場所を備えに行かれるイエス

聖書箇所 ヨハネ14:1~3a

【新改訳改訂第3版】
14:1
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

14:2~3a
「 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」


1. 心を騒がしてはなりません

  • ギリシャ語の命令形には二つの種類があり、一つは「~し続けなさい。~していなさい」という継続的、あるいは反復的動作の命令(現在命令法)です。もう一つは「(今)しなさい」という瞬間的、あるいは一時的、一回的な動作の命令(不定過去命令法)です。
  • ヨハネ14:1の「信じなさい」は「ピステウエテ」πιστεύετε(二人称、複数、命令)で前者の現在命令形です。つまり、「これまでのように(神を、あるいは、わたしを)信じ続けなさい」とか「信頼し続けなさい」という、信仰を継続する命令です。ちなみに、後者の不定過去命令法の例としては、使徒の働き16:31で、自害しようとしていたピリピの看守が「救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言ったのに対して、パウロとシラスは「主イエスを信じなさい。」と答えました。ここでの「信じなさい」は「ピステウソン」πιστεύσον(二人称、単数、命令)で、「今、即座に、信仰を持ちなさい」という意味で使われています。
  • 命令形の否定の場合には「メー」μήを用いますが、現在命令法では「~し続けてはいけません」となり、不定過去命令法では「(まだ~する前に、はじめから)してはなりません」となります。
  • さて、順序が逆になりましたが、ヨハネ14:1の「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」というイエスのことばを味わいたいと思います。「(心を)騒がしてはなりません」は「メー・タラッセスソー」μή ταρασσέσθω(三人称、単数、受動態)で現在命令形です。直訳的には、「あなたがたの心が動揺させられないようにしなさい。」となります。NIV訳は、Do not let your hearts be troubled. と訳しています。そのためには、「これまでのように(神を、あるいは、わたしを)信じ続けるように」、「信頼し続けるように」とイエスは命じておられるのです。ここには、神と御子イエスが同列に置かれています。イエスを信じることは、即、神(御父)を信じることであるというヨハネ福音書の重要な主張がここでも貫かれています。
  • イエスが繰り返して「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」(13:33, 36)と言われて、おそらく弟子たちの心は動揺し、かき乱され、不安になったのだと思います。そこで、弟子のペテロがイエスに尋ねます。「どこにおいでになるのですか」(13:36)、「なぜ今ついて行くことができないのか」(13:37)と。このペテロの問いかけに対するイエスの答えが14:1~3前半に記されています。
  • 私たちもさまざまな出来事や問題にぶつかることで、「心がかき乱され、動揺する」ことがあります。そのようなとき、イエスが語られた14:1 の「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」ということばは、私たちにとっても大きな励ましとなります。14:27にも同じく「あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」とあります。ですからヨハネの14章は、イエスが去った後にも、世が与えるものとは全く異なる「イエスの平安」が与えられるという、励ましの章だと言えます。
  • ちなみに、14:1の「(心を)騒がす」というギリシャ語の「タラッソー」ταράσσωは、ヨハネ11:33、12:27、13:21においてはイエスに関して使われています。イエスも私たちと同様に、肉の弱さをまとわれていたのです。しかし御子イエスは御父によって、あるいは聖霊によって「奮い立たせ」られて十字架に向かわれたのでした。ですから、イエスはご自分の弟子たちを、信仰によって奮い立たせることのできる方なのです。神への信頼によって私たちが心動かされることなく、むしろ、私たちの霊が日々奮い立たせられて歩みたいと思います。

2. 主のおられる所に私たちがいるための準備としての「行って・・また来て・・迎えます」

(1) 「行く」ということ

14:2
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。・・あなたがたのために、わたしは場所を備えに行く(πορεύομαι)のです。
14:3
わたしが行って(πορεύομαιのアオリスト、受態、仮定法)、あなたがたに場所を備えたら、また来て(ερχομαιの現、中態、直法)、あなたがたをわたしのもとに迎えます
(πραλαμβάνωの未、中態、直法)。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」

  • ヨハネ14:2~3にある「行って、また来て、迎えます。」という一連の動詞はいったい何を言わんとしているのでしょうか。最初の14:3「行って」とは、イエスが「天の父のもとに行かれること」です。十字架の死と復活の出来事を通り越して、イエスが昇天されることを意味しています。イエスの決別説教であるヨハネの14章と16章には、イエスが父のもとに「行く」ことの重要性を繰り返しています。

    14:12
    「・・わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、また、それよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くπορεύομαιからです。
    14:28
    ・・あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くπορεύομαιことを喜ぶはずです。。父はわたしよりも偉大な方だからです。
    16:7
    「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。・・行け(πορευθωのアオリスト、受態、仮定法)ば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」
    16:28
    「わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きますπορεύομαι。」


  • ここにはイエスが父のもとに行くことは、弟子たちに大きな益をもたらすことが記されています。その益とは助け主が遣わされることです。この助け手によって、イエスを信じる人々は大きなわざを行なうことが約束されています。

(2) 「また来て、迎える」ということ

  • では、次の「また来て、迎える」とはどういうことでしょう。実は、これはヨハネ福音書における「空中再臨」の啓示です。「来て、迎える」という表現は、地上再臨の場合には使われません。
  • キリストの再臨には、「空中再臨」と「地上再臨」があります。再臨についてただでもわからないことが多いのに、「空中再臨」と「地上再臨」を混同すると、さらに再臨がこんがらがります。再臨には「空中再臨」と「地上再臨」があることを念頭に置かなければなりません。イエスはペテロの問いかけにサラリと答えていますが、ヨハネ14章で言われている「また来て、迎える」とは、空中再臨のことを言っています。空中再臨とは教会時代の終わりを意味し、地上にいる信者を天に迎えるために、主イエスが空中まで降りて来られる出来事です。そのとき、すでに死んで眠っている信者はよみがえって天に引き上げられます。そのとき生きて地上にいる信者はそのあとで天に引き上げられますが、すでに死んでいた者も、生きていた者も、朽ちないからだとされます。いわば復活されたイエスと同じようなからだを持つ存在となります。
  • 空中再臨について、啓示を受けたのは使徒ではパウロのみです。
    Ⅰ テサロニケ4章16~17節、Ⅰ コリント15章51~53節を参照。
    空中で教会はキリストの花嫁として迎え入れられます「小羊の婚姻」)。
  • ところで、「空中再臨」と「地上再臨」の違いは何でしょうか。

前者の「空中再臨」は教会のための出来事ですが、後者の「地上再臨」は七年間の患難時代を経て生き残ったイスラエルの民のための出来事です。反キリストによる患難時代の最後にイスラエルに対する最後の戦いーハルマゲドンの戦いーが起こりますが、そのとき、主イエスは神の国をこの地上に実現させるために、オリーブ山に再臨されます。これが「地上再臨」です。そして千年王国が実現します。千年王国において神がイスラエルの民に対して約束されたすべてのことが実現します。そして、イスラエルは全世界の支配国となるのです。天に引き上げられたキリストの花嫁である教会の人々は、七年の患難時代後に、キリストとともにこの地上に来ます。そして、朽ちないからだを持ちつつ、この地上で、王であり祭司としての務めを果たすようになります。キリスト地上再臨後の千年王国において、教会は、七年間の患難時代を通して悔い改めたイスラエルの民(残りの者)とともに、共同の相続財産を与えられるのです。


2011.3.21


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