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堕罪と原福音の預言

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2. 堕罪と原福音の預言

【聖書箇所】 創世記3章1~24節

はじめに

  • 神にとって特別な存在として創造された人間は、神のかたちとして完成されるべく「男と女」とに造られました。男と女、夫と妻、その結び合いはまさに神における愛によるかかわりを現すものでした。ところが、3章では、そのかかわりを破壊する存在によって、人が「善悪を知り」、そのためにエデンの園から追放されるという事件が起きます。罪によって神との交わりから離れるという事態をもたらしました。堕罪です。
  • 創世記3章において、神とそのかたちを映し出す人間、そしてそれを破壊しようとする存在―ここでは「最も狡猾な存在」としての「蛇」―が登場しています。この「蛇」によってバーサールとしての人間の弱さがもろに出る結果となりました。その弱さとは、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」という「蛇」の甘言に対して、それを信じて受け入れてしまうという弱さです。その結果、自分たちを造った神の御顔を避けて園の木の間に身を隠し、その呼びかけにも対しても、責任をもって応答する存在ではなく、常に自己弁護する者となってしまったという事実です。


1. 「善悪を知ること」がもたらした結果

  • 蛇の甘言―「それを食べると、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」ということーは真実です。「善悪を知るようになる」とは、自分が善悪の基準となるということです。自分が正しいと思えば正しいのです。自分が悪いと思えば悪いのです。本来、善悪の基準をつけるのは神ですが、その基準を人間が自ら持ってしまったのです。まさにその意味では「神のようになった」のです。そのような人間が、園の中央にあるもうひとつの木、すなわち「いのちの木」からも取って食べることで彼らが永遠に生きることがないように、神は彼らをエデンの園から追放したのでした。追放された人間は、自分で土を耕さなければならなくなりました。人間として最も大きなニーズである生存の保障を自ら得なければならなくなったのです。
  • 神の主権領域である「善悪の知識」を人間が持つことによって、人間がそれまでもっていた神のかたちとしての「交わり」は機能不全となっただけでなく、神のかたちとして与えられたもうひとつの面、つまり、「自由意志」という尊厳も合法的に「最も狡猾な存在」の支配下に置かれることになったのです。本来、人は地にあるすべてのものを支配する権威を与えられたにもかかわらず、その統治権は合法的に「最も狡猾な存在」に剥奪されてしまったのです。使徒パウロはこの「最も狡猾な存在」を「この世の神」と呼んでいます(Ⅱコリント4:4)。
  • マタイ4章では「悪魔」がイエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を一瞬にして見せて、「もしひれ伏して拝むなら、これを全部差し上げましょう」と誘惑していますが、事実、悪魔が「この世の神」として地上の支配権を得たのは、創世記3章に記されているように、本来、地上の支配権を与えられた人間を合法的に従わせて支配することができたからです。神から離れた人間は、「最も狡猾な存在」に対して全くの無力なのです。しかし、キリストは「今の悪の時代」(ガラテヤ4:4)から私たちを救い出すためにこの世に来られ、私たちの罪のためにご自分を与えて、贖いをなしてくださったのです。

2. 原福音の預言

  • 創世記3章14~15節は、神の蛇に対する呪いが記されている箇所ですが、15節は聖書全体においてきわめて重要な預言と言えます。

    わたしは、おまえと女との間に、
    また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
    敵意を置く。
    彼は、おまえの頭を踏み砕き、
    おまえは、彼のかかとにかみつく。

  • 「おまえの子孫」と呼びかけられている「蛇の子孫(単数)」を反キリストと考え、女のすえ(子孫、単数)をイエス・キリストと考えるならば福音の構造が見えてきます。「おまえの子孫(単数)と女の子孫(単数)との間に、敵意を置く。」(創世記3:15)とは、ダニエルが預言した『荒らす憎むべき者』としての反キリストとイエス・キリストとの間における敵対関係として理解することができます。両者は敵対関係に置かれますが、必ず最終決戦において勝利がもたらされます。まだその時は来ておりませんが、必ずその時が来るのです。すでにイエス・キリストの十字架の死と復活において決定的な勝利を得ていますが、いまだ最終決戦が残されているのです。そのとき、サタンの化身である反キリストはイエス・キリストによってその頭を砕かれ、徹底的な敗北を受けるのです。
  • 「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」とは、イエス・キリストがサタンの化身である「蛇」の頭を砕きますが、同時にイエス・キリストもかかとにかみつかれるのです。これはキリストの十字架の受難を連想させます。
  • 「蛇」に対する神のさばきが宣言される同時に、神の救いの約束がなされていることに感謝したいと思います。失楽園のストーリーは決して失楽園に終わることなく、やがて楽園回復につながる神の救いのドラマが長い時間をかけて展開されていくのです。私たちは今その中に置かれています。神の確かな救いを確信をもって待ち望むことがキリストにある私たちの信仰なのです。

3. 3章における救済史的経綸のキーワード

(1) 「着せる」・・「ラーヴァシュ」לָבַשׁ

  • 3章21節に「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」とあります。「着せる」は「着る」(「ラーヴァシュ」לָבַשׁの使役形)です。神ご自身は王の風格にふさわしい尊厳と威光の衣を身にまとっておられます(詩篇104:1)が、罪を犯して裸であることを知った者は、そのまま神の前に出ることができません。そのために神ご自身があわれみとして彼らに「皮の衣」を作り、着せてくださったというのは神の恩寵です。
  • 「皮の衣」をバルバロ訳の注解では「全身を覆うぴったりした服」だとしています。これは後に大祭司が着る長服を示唆しています。しかも「皮」の衣です。ですから、そこに動物のいのちによる贖罪という思想の萌芽が見えます。
  • やがて人間が神の御前に出るために、神が「救いの衣」「義の衣」、あるいは「キリストご自身という衣」を私たちのために造って着せてくださることを通して、はじめて恐れることなく、責められることなく、臆することなく神の御前に出ることができます。その予表が「皮の衣」と言えます。

●「着る」という神の恩寵的啓示については、こちらを参照のこと。

(2) 耕す・・「アーヴァド」עָבַד

  • 神が人に土を耕させるのは、罪を犯す前のエデンの園においてからでした(2:15)。そして人が罪を犯してエデンの園から追放された後も人は土を耕さなければなりませんでした。罪を犯してからは、その耕しは苦しみを伴うものとなりましたが、ある意味ではこの「耕す」ことは神の恩寵と言えます。というのは、この「耕す」と訳されたヘブル語は「アーヴァド」(עָבַד)で、「働く」「仕える」とも訳されることばです。厳しい意味では「奴隷となる」ことを意味しますが、エデンの園でも神が人に土を「耕す」ようにさせたことは、人が神に仕えるための訓練として与えられたものと言えます。と同時に、「耕す」ことは祭司の務めです。エデンの園にある祝福を自ら味わい、そのすばらしさを十分に楽しむという務めです。
  • 「アーヴァド」(עָבַד)が名詞になると「エヴェド」(עֶבֶד)で、仕える者という意味になります。イスラエルにおいて、神の前に最も賞賛されるべき者は「神のしもべ」です。モーセやダビデはそのよい例です。新約に至っては神の御子イエス・キリストが神のしもべとして遣わされます。神のしもべとして御父を信頼し、その生涯の最後まで「しもべ」としての生き方を貫いてくださいました。「しもべ」としての生き方は一朝一夕にして作られるものではありません。「しもべ」は多くの辛い試練をくぐり抜けながら確立される者です。イエス・キリストはあらゆる「試みを経た」ゆるがない礎石として、また「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与える」しもべとなってくださったのです。アダムが土を耕すことのなかに、人を神のしもべとして生きさせる神の恩寵を見ることができるように思います。

2011.8.9


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