****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

和解のいけにえ(和解の献げ物)

文字サイズ:

レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

3. 和解のいけにえ(和解の献げ物)

ベレーシート

  • 青銅の祭壇でささげられる第三のささげ物は、「和解のいけにえ」(和解の献げ物)です。口語訳は「酬恩祭」と訳しています。「酬」(しゅう)とは「報いる」という意味。「酬恩」は神の恩(恵み)に「報いる」、すなわち「感謝して」ささげられるいけにえです。原語は「シェラーミーム」(שְׁלָמִים)です。
  • 全焼のいけにえと異なる点は、「全焼のいけにえ」は皮を除いてすべての部分が焼き尽くされるのに対して、「和解のいけにえ」は脂肪と腎臓だけは火で焼き尽くされますが、肉の部分は祭司とそれをささげた人とその家族が分け合って食することのできるものです。
  • 当教会では、毎週、「礼拝と愛餐」がワンセットになって「礼拝」と考えています。というのは、「酬恩」というコンセプトによるものです。神にささげられた献金によって、礼拝に参加した者たち全員が愛餐の食卓を囲みます。そのための費用として愛餐の食費を徴収することは決してありません。礼拝の中でささげられた献金の中からその費用が賄われているからです。その愛餐のために食事を準備してくれる奉仕者も、「穀物のささげもの」のコンセプトによるものです。

1. 「和解のささげ物」の諸規定

  • 「全焼のいけにえ」と同様、奉献者が動物(牛)の頭に按手し、屠った後に祭司がその血を祭壇の周囲に注ぎます。
  • 「全焼のいけにえ」では牛も羊も「雄」でなければなりませんでしたが、「和解のいけにえ」では、牛の場合は雄でも雌でもかまわないという規定です。ただし、いずれも傷のないものを主にささげなければなりません。また子羊(「ケセヴ」כֶּשֶׂב)の場合は雄(7節)、山羊(「エーズ」עֵז)の場合は雌です。
  • 内臓をおおう脂肪、内臓についた脂肪、そして二つの腎臓と肝臓の上にある小葉(脂肪)とをささげます。主はなぜ脂肪の全部をささげるよう指定しているのでしょうか。主は「脂肪が大好き」ということでなく、脂肪は最上の部分だからです。適度に脂肪がある肉、脂ののった魚は美味しいものです。「脂肪」を意味するヘブル語は「へーレヴ」(חֵלֶב)で、それは「脂肪」のみならず、「最も良い部分、選り抜きの部分、最上の部分、肥えたもの」を意味します。この「へーレヴ」が聖書で最初に登場するのは創世記4章4節ですが、そこにはこうあります。

【新改訳改訂第3版】
アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

【新共同訳】
アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、


●新改訳はへーレヴを「最上のもの」と訳し、新共同訳は「肥えた」と訳しています。このことのゆえに、アベルとそのささげ物に主は目を留められたのです。

  • レビ記においても、「脂肪」をささげるということは、最高の部分を主にささげることを意味します。ちなみに、礼拝のことを英語では Worship と言います。これは価値を意味するworth と抽象名詞を作る時に用いられる語尾のshipが組み合わされたものです。つまり、神を価値づける行為こそがWorshipなのです。礼拝とは神に最高の価値あるものをささげることなのです。神を最高のお方として認め、その方を礼拝するそのあかしが脂肪をささげることに象徴されているのです。
  • ところで、ささげ物の最上の部分である「脂肪」は火で焼かれ煙にされますが、「肉」が残ります。全焼のいけにえの場合は脂肪も肉(内臓)も一切残りませんが、和解のいけにえの場合は、「肉」は祭司と奉献者およびその家族とが食べることができるのです。これが「和解のいけにえ」の他のいけにえとは異なる特徴です。レビ記7章31~34節によれば、胸部と右腿の肉は祭司のものとなり、その他の部分は奉献者たちが食べることができると規定されています。

2. 「和解のささげ物」が象徴していること

  • 神がモーセに啓示している事柄は常に神にとって最も近い所から順に啓示されています。しかしそれは、私たちが神に近づいていく順とは反対なのです。つまり「和解のいけにえ」をささげるのは、人間側から言えば、「罪のためのいけにえ」をささげた後だということです。つまり、罪から贖われることによって、はじめて神との和解がなされ、神との平和が回復するのです。
  • しかし新約時代に生きる私たちは、イェシュアの十字架の血潮によって、すでに罪が赦され、神との和解がなされているのです。使徒パウロはイェシュアの血による神との和解の事実とそれがもたらす祝福について、以下のように記しています。特に、和解の結果としての祝福の部分は太文字にしています。

【新改訳改訂第3版】ローマ書 5章10~11節
10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

【新改訳改訂第3版】コロサイ書 1章20節、22節
20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。


●私たちが自ら神と和解したのではなく、神と「和解させられた」(アオリスト受動態)のです。私たちは主イェシュアによって和解を受け取ったにすぎません。それゆえに、私たちは「救い」にあずかり、神を大いに喜んでいるのです。この喜びを共に分かち合う精神こそ、「和解のいけにえ」の精神です。


【新改訳改訂第3版】エペソ書 2章16節
また、両者(ユダヤ人と異邦人)を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました

  • 最後に、この「和解のいけにえ」(酬恩祭)を通して、ダビデが「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)と言っているように、イェシュアによって神との和解を与えられた私たちは、神とともにあることを喜びとし、臆することなく、神のシャロームの極みを堪能することを大胆に求めて行きたいと思います。




2016.4.8


a:10263 t:8 y:6

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional