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千年王国(メシア的王国)の祝福(その三)

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9. 千年王国(メシア王国)の祝福(その三)

王なるメシアの統治、「ダビデ契約」の成就
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ベレーシート

  • これまで「千年王国」の祝福について取り上げてきました。今回はその第三回目です。千年王国(メシア王国)の祝福とは、第一に、「普遍的平和」が実現するということでした。神と人とのかかわりにおいて、また人と人とのかかわりにおいて、また人間と動物とのかかわりにおいて、また神の民と異邦人とのかかわりにおいて、また、神の民であるエフライム(北イスラエル)と南ユダとのかかわりにおいて、天と地におけるすべての領域において、神の平和(シャーローム שָׁלוֹם )が回復するからです。第二に、「全イスラエルの最終的帰還の実現」と「新しい契約」の成就について学びました。そして、第三は、ダビデ契約にある王としてのメシアがエルサレムから全世界を統治するということです。
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  • メシア(キリスト)の務めは三つあります。一つは「預言者的務め」で、イェシュア(イエス)は処女マリヤから生まれましたが、最後の3年半の公生涯の主な務めとして、御父のみこころを、口を通して語りました。また御父のあわれみを奇蹟という形で現わされました。もう一つは十字架の死と復活、そして昇天から今日に至るまでの主イェシュアの務めである「大祭司としてのとりなしの務め」です。しかし、メシアにはさらにもう一つの務めがあります。それが「王的務め」です。実際に、この地上で王として統治する務めです。この務めは未だ実現しておらず、これからのことです。
  • クリスマスには必ずと言っていいほど、その生誕ストーリーの聖書箇所が開かれますが、その中の一つに、処女マリヤに対して御使いガブリエルが語った預言があります。まずは、その預言について見てみましょう。聖書箇所は、ルカの福音書2章31~33節です。

    31 「・・ ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
    32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

  • 「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」という御使いガブリエルの語ったこの預言は、残念ながら、イェシュアがこの地上におられた時には実現しませんでした。クリスマスをお祝いしたとしても、もし、この預言について正しい理解がなければ、希望のないとてもさびしいクリスマスです。この預言はなんとイェシュアがこの世に生まれる千年も前に、神がダビデとの間に交わした契約(約束)なのです。
  • ちなみに、神はご自身のご計画において重要な契約を結んでおられます。以下のチャートがそれです。

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1. ダビデ契約(無条件的契約―万軍の主の熱心が成し遂げる約束―)

  • 今回は、上記の表の中の「ダビデ契約」に注目することになりますが、契約には、神がイスラエルの民との間に交わした契約、あるいは、アブラハムやダビデといった個人に対して交わした契約があります。神とダビデとの間で交わされた約束(契約)は神の側からの一方的な無条件的契約です。シナイ契約とモアブ契約を除くと、すべてが無条件的契約です。そこには、人間の努力や義務を必要としません。無条件的とは、神がご自身の熱心さによって成し遂げられる約束なのです。
  • では、神がダビデに対して語った約束とは何か。それを見てみましょう。聖書箇所は、Ⅱサムエル記7章です。ダビデが王となって最初にしたことは、それまでないがしろにされていた神の契約の箱を、顧みられなかった神の箱を、全イスラエルの中心地としてダビデがエブス人から攻め取ったエルサレムに運ぶことでした。それは、本来、モーセの幕屋の至聖所にあった箱ですが、ダビデはそこに戻すことをせずに、エルサレムのシオンと呼ばれる小高い丘に天幕を建て、その天幕の中に神の契約の箱を安置し、全く新しい形態の礼拝をしたのです。それはモーセの幕屋でなされていた動物のいけにえ制度による礼拝ではなく、歌や楽器(音楽)をもって主にささげる礼拝でした。音楽をもって主の前にささげたのは、神との正しいかかわりを意味する「義のいけにえ」、「感謝のいけにえ」、「喜びのいけにえ」、「賛美のいけにえ」、「従順のいけにえ」という精神的・霊的なささげものでした。そうした新しい礼拝のスタイルを導入したダビデは、箱の前で、その都度、その都度、主のみこころを絶えず伺いながら、尋ね求めながら(「ダーラシュ」דָּרַשׁ)、王としての務めを果たして行ったのです。
  • そんなダビデがエルサレムで自分の(王としての)家を建てた後、自分は立派な杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっていることに心を痛め、主が住まわれる家を建てたいと願うようになります。そしてお抱えの預言者ナタンに相談します。するとナタンは「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主がともにおられるのですから。」と助言します。ところが、その夜、主のことばがナタンに臨みます。「わたしのしもべダビデにこう言え。」と。そこで語られることが「ダビデ契約」と言われるものです。

【新改訳改訂第3版】Ⅱサムエル記7章8~16節
8 万軍の【主】はこう仰せられる。・・・
11 わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。さらに【主】はあなたに告げる。『【主】はあなたのために一つの家を造る。
12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる
13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
14 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。
15 しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。
16 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。

  • 太文字の部分が重要なところですが、並行記事であるⅠ歴代誌17章では、赤の下線の部分が削除されています。その理由は、ダビデから出て来る一人の油注がれた者、すなわち、メシアは罪を犯したり、それゆえに神から懲らしめられたりするような存在ではないからです。Ⅱサムエル記の場合は、ダビデの後継者となったソロモン王のことを想起させますが、Ⅰ歴代誌17章では、ソロモンではなく、メシアである方を意味しています。
  • ソロモンの時代以降、イスラエルの歴史には、いろいろな預言者たちが登場してきます。そして彼らは神のみこころを、特に、それぞれの時代の王たちに神のみことばを告げて行きます。当然、神がすでに約束された契約を基に語って行くのですが、その中にダビデ契約も語られていきます。このシリーズではしばしばイザヤ書から引用していますので、今回もイザヤ書の中からそのひとつを拾ってみたいと思います。クリスマスのシーズンによく引用されることの多い聖書箇所です。

【新改訳2017】イザヤ書9章6~7節
6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

  • この預言の中の「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」という部分はすでにイェシュアの降誕によって実現しています。次の「主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」という部分もある意味ではすでに実現しています。
  • 私たちが知らないで読んだり、あるいは、歌ったりしていることが多くあります。毎週歌っている賛美―「手をたたけ。すべての国々の民よ。主に叫べ。歌を歌え、喜びの声を上げ。力強い主は、われらの中に、栄光ある主は、国々を取り囲む」-も、千年王国で統治される全地の王を預言的に歌っているのです。信仰とはなんとスケールの大きな事柄なのでしょう。本当に理解し、それを信じて歌う時、私たちの信仰はより永遠性を帯びてくるのです。そんな世界にいつも私たちは招かれているのです。

2. 千年王国におけるメシアの統治の祝福

(1) 王なるメシアの統治基調は「公正」と「正義」

  • さて、千年王国におけるメシアの統治というものはいかなるものなのでしょうか。すでに学んできているように、千年王国では、普遍的な平和が到来します。すべての領域における平和です。自然界における平和、神と人との平和、民族間の平和・・等です。戦争はありません。武器もありません。なぜなら、王であるメシアの知恵によってすべて解決されるからです。
  • また、王国(キングダム)であるので、そこには当然、王だけでなく、王の民も存在します。その民とはイェシュアがメシアであると信じた者たちです。そこには神が選んだイスラエルの民と異邦人の民がひとつとなったメシアによる「新しい人」が存在します。また、彼らは「新しい契約」、すなわち、「新しい心と新しい霊」を与えられて、主を知る者たち、主こそ自分たちの王であることを告白する者たちです。
  • では、その王であるメシアの統治の特徴はいかなるものであるのか、それを知るヒントがあります。それは、ダビデ王の統治を知ることで見えてきます。現代の日本人である私たちは、王制的な統治のあり方を経験していませんので、ピンと来ないかも知れません。主権が王ではなく、主権在民の民主主義の政治形態の中にいるため、なかなか聖書のいう王的支配、王的統治がイメージできないかもしれません。
  • 今日によく言われる「パワー・ハラスメント」ということばがあります。その意味をインターネットで調べてみると、次のように定義されています。「職場などで、職務上の地位や人間関係などの優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、相手に精神的・身体的苦痛を与えたり、職場環境を悪化させたりする行為。上司から部下に対してだけでなく、先輩・後輩、同僚間、部下から上司に対する行為や、顧客や取引先によるものも含まれる。パワハラ。」[補説]として、「身体的な攻撃(暴行・傷害)、精神的な攻撃(脅迫・名誉棄損・侮辱・暴言)のほかに、人間関係からの疎外(隔離・無視・仲間外れにすること)、業務上の過大または過小な要求、私的な事柄への過度な干渉なども該当する。」とあります。
  • 力ある者、上の立場に立つ者によるなんらかの虐待を経験する者たちがいるのです。教会においても、カルト的と言われる教会は、権威主義であり、絶対的な力が支配します。それゆえ、そこにいる人々は傷を受けるのです。従順による祝福、不従順によるのろいが強調されます。献金や奉仕が強要されます。自分で客観的に考えたり、判断したりすることが次第にできなくなります。歴史を学ぶなら、この世の政治的な支配者のカルト的統治によって、その下にいる民たちがどのような影響を受けるかは、ある程度は予測がつくはずです。
  • ダビデ的な王であるメシアは、専制君主的な王とは異なるイメージです。いわば「パワー・ハラスメント」のない統治なのです。「公正」と「正義」が、王であるメシアの統治基調です。
  • イザヤ書9章7節に「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。」とあります。「さばき」と「正義」と訳されています。原文では「ミシュパート」(מִשְׁפָט)と「ツェダーカー」(צְדָקָה)というヘブル語が使われています。「ミシュパート」は「さばき」、「公義」、「正義」とも訳されます。ちなみに、箴言2章9節では「正義と公義と公正」ということばが重ねられています。ここでの「正義」は「ツェデク」(צֶדֶק)、「公義(さばき)」は「ミシュパート」(מִשְׁפָט)、「公正(公平)」は、動詞の「まっすぐにする」を意味する「ヤーシャル」(יָשַׁר)の名詞形の複数形で「メーシャーリーム」(מֵישָׁרִים)ですが、対や組ではなく、単独で使われる場合には、「ミシュパート」(מִשְׁפָט)は神の「統治理念」を表わす用語であると、私的には理解しています。

(2) ダビデの統治に見る「公正」と「正義」

  • ダビデという王は、イスラエルの歴史において、「神の統治理念」を写し出したきわめて理想的な王でした。ダビデも人間ですから、間違いや失敗を犯しますが、ダビデの統治の中にやがて登場する王なるメシアの統治があかしされているのです。そのような意味で、ダビデの王としての統治のエピソードをいくつか拾ってみたいと思います。
  • ダビデが示す統治の特徴は、彼が王になってから学んだのではなく、王になる前にサウルの追跡を免れるために、放浪生活を余儀なくされていた時代に培われたものです。そうした時代にあったエピソードを通して、ダビデの統治の特徴、そこからやがてこの地上に再臨されるダビデ的メシアの統治を思い描いてみたいと思います。

① Ⅰサムエル30章にあるエピソード(ダビデが王となる前)

ペリシテの領主の一人、アキシュのもとに身を寄せたダビデは、イスラエルとの戦いへの参戦を余儀なくされます。しかし実際は、ペリシテの他の領主たちがダビデを信用しなかったために、結果的には参戦しなくとも良くなったのですが、戦いのために遠出している最中に思わぬ事態が起こっていました。自分も部下たちも大切にしている家族や財産がアマレク人によってすべて奪われ、町も火で焼かれてしまったのです。今まで積み上げてきたすべての苦労が一瞬にして崩壊した出来事でした。ダビデはこのとき、「非常に悩んだ」とあります(Ⅰサムエル30:6)。それは部下たちを悩ませた責任だけでなく、部下たちが自分を石で撃ち殺そうと言い出したことを聞いたからでした。これまで培ってきたリーダーシップとフォロアーシップ、部下たちからの厚い信頼、将来の夢と希望が消え失せて、怒りがダビデに向けられてしまったかたちです。

そのような窮地の中で、ダビデは自分の神、「主によって奮い立った」のです。救出劇の要に、神が備えられたとしか言いようのない一人の人との出会いがありました。追撃を続けるダビデとその一行は、ひとりのエジプト人を野原で見つけます。三日三晩もパンも食べず、水も飲んでいなかったこの人はアマレクの奴隷でしたが、病気になってしまったために、主人に見捨てられ置き去りにされてしまったのでした。この人が、ダビデたちを略奪隊のもとに案内したのでした。この人との出会いによって、ダビデたちは失ったすべてのものを奪い返しただけでなく、多くの分捕り物をも得たのです。

失ったと思われた大切な家族や財産が何ひとつ失われなかったということも驚くべきことですが、それに加えて、敵から得た分捕り物を、参戦した者たちだけでなく、残っていた仲間にももれなく平等にそれを配分したことでダビデの指導者としての信頼はより強くなったのです。ここにダビデの統治の特徴があります。「公正」と「正義」です。この統治力によって、ダビデに対する信頼は回復され、以前にも増して強固にされたのです。

  • キリストの再臨後に実現するメシア王国(千年王国)におけるメシアの統治の基本も、イザヤ書に預言されているように、同じく「公正」と「正義」です。それゆえ、御国の民はみなこの王であるメシアを慕うようになるのです。

② Ⅱサムエル23章にある麗しい「リーダーシップとフォロアーシップ」(ダビデ王の晩年)

  • ここには、ダビデの王としての統治の中にあったダビデの勇士たち、その中にきわめて麗しい「三勇士」のエピソードが記されています。ダビデはすばらしい神の王国を建設するために神に用いられた人物ですが、ダビデ一人の力によったのではないことは言うまでもありません。根本的には神ご自身のみわざによるものですが、多くの人々の協力によって造られたと言えます。ダビデは神に愛されただけでなく、多くの有能な協力者に恵まれた王と言えます。Ⅱサムエル記23章はダビデにつき従った37名の人々の名前が記載されています。なかでも、「ダビデの三勇士」は神の王国を担う者たちの資質の鍵を握っていると言えます。それは王を慕う心をもった者たちの存在です。

(1) ヤショブアム(23:8) 槍の名手であり、一度に8百人を刺し殺した勇士。
(2) エルアザル(23:9) 剣の名手であり、神の民が混乱の中にあったとき、ペリシテ人にいどみ、手が剣にくっついて離れなくなるまで戦い抜いて勝利した勇士。
(3) シャマ(23:11) 味方の者が逃げたにもかかわらず、ひとり自分の持ち場に踏みとどまって戦い、形勢を逆転させた勇士。

  • Ⅱサムエル記23章では、「ヤショブアム、エルアザル、シャマ」の三人ですが、なぜか、Ⅰ歴代誌では「三人の勇士」とありながら、シャマの名前が記されていません。これは歴代誌のミステリーです。「シャマ(正確にはシャンマー)」(שָׁמָּה)の名前の意味するところは不明ですが、Ⅱサムエル記23章12節には、隊をなしているペリシテ人に対して、果敢にも一人で戦い、主の大勝利をもたらした人物であることが記されています。「シャマ」(שָׁמָּה)の語根がשׁםだとすれば、それは、神の息、神の主権的な力を意味します。三人の名前を列挙すると、「民は(神に)帰る・神は助ける・神の力」という意味になります。
  • ダビデの三勇士は、戦いの名士というだけでなく、ダビデに対する愛と忠誠においてほかの人々よりも際立った者たちでした。そのひとつのエピソードが、ダビデのために水を汲んで来たという話です。

彼らがしたことは、ダビデに命令されてしたことではありませんでした。ただダビデが乾季のために喉が渇き、自分の故郷の水を思い出して、それを飲みたいと口にしただけでした。このことを知った三人の勇士たちは、自分たちのいのちを顧みず、ダビデのために距離として40キロ以上離れているところに、敵陣をくぐり抜けて、水を汲みに行ったのです。これは彼らのダビデに対する忠誠心の表れであり、無私の愛的行為です。

彼らの行為に対して、ダビデはこの「水を飲む」ことは「家来のいのちを飲む」ことだとし、そのようなことは自分に許されることではない、として飲まなかっただけでなく、この水は主に対してささげられるべきものだと言ったのです。これは、三勇士のいのちをかけた行為というよりは、むしろ真の神の王国がなんたるかを示している重要な発言です。

本来、専制君主であるならば自然なことであっても、神の王国の理念においては、ダビデはあくまでも神の代理者としての存在にすぎず、三勇士のしたことは神への献身的行為として賞賛されなければなりません。このエピソードが記載されなければならなかった理由とは、ダビデが彼らの行為を神にささげられるべき行為としてみなしたことが重要なことであったのです。

  • 彼らは目立った存在でしたが、そうした存在だけでは神の王国は成り立ちません。その背後には、目に見えない、名もない、裏方に徹した人々の存在が多くいるのです。新約時代のイェシュアの周囲には、主によって選ばれた弟子たち、そして彼らにつき従って、彼らの働きを支えた多くの女性がいたことを聖書は記しています(ルカ8章3節)。たとえば、イエスの母とその姉妹、自分の財産をもって経済的に支えたクロパの妻マリヤや愛と献身によって仕えたマグダラのマリヤ。彼女たちはいわば裏方的存在です。そのようにしてイェシュアの働きを助けました。
  • 現代の教会も、こうした献身的な裏方的存在によって形成されていきます。三勇士の一人のシャマは自分の持ち場にしっかりと踏みとどまって戦いの形勢を逆転させた人物ですが、たとえ無名であったとしても、シャマと同じように、自分の持ち場から決して離れず、しっかりとそこを死守して、形勢を逆転できるような器を、神は決して見過ごしにされることなく、それに対する報いを必ず与えて下さる「公正」な方なのです。私たちが主のためになした労苦が決してむだでなかったことを明らかにされる時こそ、「千年王国」の時です。イェシュアの語られた「タラント」のたとえはそのことを意味しています。「公正」と「義」をもって統治される王なる方を、私たちはやがて迎えようとしているのです。


2014.1.20


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