****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

千年王国(メシア的王国)の祝福(その一)

文字サイズ:

7. 千年王国(メシア王国)の祝福(その一)

画像の説明

ベレーシート

  • 前回は、大患難の終わりにキリストが地上再臨された後に、この地上に実現する「千年王国」の必然性について取り上げました。もしあなたが、この「千年王国」にいないとすれば、あなたは救われていなかったということになります。主イエスを信じて救われた者は、必ず、やがてこの千年王国において、キリストとともにこの地上にいるのです。しかも、朽ちないからだを与えられて千年の間、この地上で生きることになるのです。ですから、「千年王国」について知っておく必要があるのです。
  • 「千年王国」ということばは、別のことばで言うと、「メシア王国」と言います。バプテスマのヨハネも、そしてイエスも「悔い改めなさい。天の御国は近づいた。」というその「天の御国」のことです。その天の御国がどういう国であるかを、神の御子イエスがこの世に来て、ことばを通して、また多くの奇蹟を通して示して下さったのです。その「天の御国」は、旧約の預言者たちが、「その日(が来る)」という言い方で語っているのです。「千年王国」のことを、メシア王国、神の国、天の御国、キングダム、神の支配とも言うことを頭に入れておきましょう。前回にもお話ししましたが、「千年王国」についての学びをすることによって、聖書が教えている数多くのピースがうまくつながり、パズルとしての全体像がはっきりと見えてくるのです。旧約の歴史や預言者が語っていたことや、主イエス・キリストがこの世に来られて語られた「御国の福音」の意味がより明確にされるはずです。
  • さて今回は、千年王国の祝福について学びたいと思います。やがて到来する天の御国の祝福がいかなるものか、その祝福のひとつの面をイザヤ書11章という一つの窓から覗いてみたいと思います。結論を先に言うと、そのイザヤ書11章から見える千年王国の祝福の第一は、「普遍的平和」ということです。その祝福に私たちは与ることになります。
  • この祝福は私たちの希望(エルピス)です。使徒ペテロがこう述べています。

    「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」(Ⅰペテロ3:15)

  • このみことばが示していることは、第一に、私たちに与えられている「希望」を正しく理解していることです。第二は、その希望について説明を求める人がいたなら、いつでも答えられるようにしておくことです。しかも、優しく、謙虚に、澄みきった良心をもって答えなさいとペテロは勧めています。
  • それでは早速、千年王国、メシア王国の祝福について預言されているイザヤ書の中から、11章を取り上げてお話ししたいと思います。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書11章1~9節
    1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
    2 その上に、【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と【主】を恐れる霊である。
    3 この方は【主】を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
    4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
    5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。
    6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
    7 雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
    8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
    9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。【主】を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。

  • イザヤ書11章は大きく分けると二つ、その一つをさらに三つに分けると全体で四つのピース(ピクチャー)によって構成されています。今回のテーマに限定すれば、6~16節の部分ですが、1~5節にある部分も取り上げたいと思います。

    1. 1~5節  メシアの来臨とその性格
    2. 6~16節 メシア的王国における普遍的平和

    (1) 人間と自然界における平和 (6~9節)
    (2) イスラエルと諸国民との平和 (10節)
    (3) エフライムとユダの平和―全イスラエルの回復と平和―(11~16節)


画像の説明

1. 千年王国の王となるメシアの出処 (11:1~5)の預言

  • 今回の千年王国の祝福の一つである「普遍的平和」を考える上で、まず、その「普遍的平和」を実現してくださる王についての正しい理解が必要です。そこで、1~5節に記されている王であるメシアとその性格について注目したいと思います。

(1) エッサイの根株から

  • 1節はメシアの出処についての預言です。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」とあります。冒頭にある「エッサイの根株」とは・・。讃美歌の96番に「エッサイの根より、生い出でたる」という歌があります。クリスマスにしか歌うことのなかった歌ですが、私がクリスチャンになりたての頃、「エッサイ?」「何、それ」と思って歌っておりました。「エッサイ」とはダビデの父の名前だということが次第に分かってきましたが、「エッサイの根株から」という表現については分かりませんでした。なぜ、ダビデではなく、「エッサイ」なのでしょうか。また、「エッサイの根株」とはどういうことでしょうか。こういう問いかけ(突っ込み)をしないと、分からない世界を何も知らずにただ歌っている、いや、歌わせられている、ということになります。
  • ダビデと言えば、イスラエルの歴史において黄金時代の礎を築いた王です。しかしそのダビデの出生はとても貧しい所からだったのです。ダビデの父エッサイはベツレヘムに住んでいました。小さな町の貧しい家系でした。そのことが「エッサイ」という言葉で記されている意味です。「ダビデ」としても良かったのです。しかしそのダビデの父は貧しい家の父でしかなかったのです。
  • 父「エッサイ」(יִשָׁי)の名前は「主はおられる」という意味です。ヘブル語の「イェーシュ・アドナイ」(יֵשׁׁ יהוה)から来ています。ヤコブが兄エサウの持つ長子の権利を騙して奪ったことから、父イサクの家にいられなくなり、一人で叔父のラバンのもとに逃げたある夜に不思議な夢を見ます。夢から覚めたヤコブは、「まことに主がここにおられるのを私は知らなかった」と言って恐れました。そのときのヤコブの言った「ここに主がおられる」から「エッサイ」の名前が来ているのです。ダビデの父エッサイの名には、貧しいながらも、「主がそこにおられる」という意味合いが込められた預言的な名前だったのです。
  • その「エッサイの根株」とはどういうことでしょうか。木ではなく、根株とはすでに木が根元から切られていることを意味しています。貧しいエッサイの木は子ダビデによって大きく成長しました。その木はひとたび神の栄光を表わした木なのですが、それが根元から切られる出来事が起こったのです。ダビデの王国が根元から切られる出来事と言えば、バビロン捕囚の出来事です。国は亡び、神殿は完全に崩壊し、城壁も崩されました。つまり、根元から切られたのです。しかし根株は残っていました。その根株から新芽が生え、若枝が出て再び実を結ぶということです。
  • ちなみに、1節は同義的並行法で書かれています。ですから、「新芽」と「若枝」は、ことばは違いますが、意味としては同義です。つまり「新芽」とか「若枝」というのはメシアを表わす象徴として使われています。それが「エッサイの根株」から出て来るのです。一旦切られた木の根株から新しい芽が出て、そこからメシアが登場してくるという預言なのです。それがイエス・キリストの来臨の預言となり、イエスがこの世に来られたことで、その預言は成就したのです。しかしまだそのメシア的王国は完全に成就していません。メシアの初臨によって幾分かは成就しましたが、その完成はメシアの再臨を待たなければなりません。イザヤ書11章はメシアの来臨(初臨)と、メシアの再臨によるメシア王国の成就とその祝福が、時間軸ではかなりの隔たりがあるにもかかわらず、一枚の絵として描かれているのです。

(2) 主を恐れることを喜びとするメシア

  • エッサイの根株から出て来るメシアの特徴、あるいは性格を一言でまとめると、3節に記されているように「この方は主を恐れることを喜ぶ者」だということです。「主を恐れることを喜ぶ」とはどういうことでしょう。
  • 「喜ぶ」と訳されたヘブル語を調べてみると、「ラーヴァハ」(רָוַח)のヒフィル態が使われています。その意味は、第一義的に、「においを嗅ぐ」という意味です。動物が獲物の匂いを嗅ぎ分けるという本能的な能力です。そこから派生して、主を恐れることを嗅ぎ分ける、主を恐れることを受け入れ、それを喜びとするという意味になります。もっともそれができるのは、2節に記されているように、主の霊がとどまっているからです。その主の霊とは、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊であると説明されています。これらの霊によって、メシアは主のみこころを嗅ぎ分ける能力が与えられ、いつでもどこでも神を信頼して、神のみこころをなし、神を第一にしていくことができるのです。それが「主を恐れる」ということであり、そのことを喜びとしていく存在が「エッサイの根株から生えた新芽、若枝」であるメシアなのです。
  • メシア的王国(御国)の王とは、そのような神のみこころを嗅ぎ分ける霊的能力を与えられている存在です。しかもその方が王として統治されるときには、「正義」と「公正」、「正義」と「真実」によって統治されます(4~5節)。但し、それはあくまでも神の基準による「正義」であり、「公正」であり、「真実」であることは言うまでもありません。

2. 普遍的平和の祝福(11章6~9節)

  • メシアであるイエスがこの世に来られたときに、そのことを最初に知らされたのは羊飼いたちでした。天の御使いは彼らに現われて次のように言いました。「恐れることはありません。今、私はこの民全体(イスラエルの民のこと)のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。今日ダビデの町(ベツレヘムの町)で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリスト(メシア)です。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言いいました。

「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(天軍賛歌)

  • この御使いたちの天軍賛歌は預言的賛歌です。というのは、この歌の預言はまだこの地上に成就していないからです。この歌がこの地上で成就するのは、メシアが再臨された後の千年王国においてです。
  • 千年王国においては、「地の上に、平和が、御心にかなう人々にある」ということが成就します。ここで「平和」と訳されたギリシア語は「エイレーネ」(είρηνη)ですが、ヘブル語では「シャーローム」(שָׁלוֹם)ということばです。シャーロームとは、本来、神がこの世界を創造され、その創造の頂点として造られた人間との交わりの世界の祝福を表わす総称です。換言するならば、エデンの園の回復のことです。
  • 本来のエデンの園には、「死」というものは存在しませんでした。そのエデンの園が千年王国において回復するわけですから、基本的には、「死」はないのです。基本的と言ったのは、少々説明しなければなりません。千年王国では、古いものと新しいものとが入り混じっているのです。主にあるクリスチャンはすでに朽ちることのない体を与えられていますので、死ぬことは決してありませんが、千年王国では、その構成メンバーの中には新しく朽ちない復活の体を持たない者も存在しています。主を信じている者は死ぬことはありませんが、信じない者も時間が経てば起こってきます。そのような人は百歳で死んでしまいます。それ以上は生きられないのです。ですから、誕生して百歳になるまでが猶予期間です。それまでに王である主を信じなければ、死に定められます。
  • 人間の罪によって、「死」が人を支配するようになりました。その結果、死の恐れから自分の身を守るために、敵意が生まれ、争いや戦いをするようになりました。人間だけでなく、その死という束縛は、被造物全体に広がり、弱肉強食の世界に変わったのです。人間が罪を犯すまでは、弱肉強食は存在しなかったのです。千年王国の到来は、そうした弱肉強食のない世界へと回復させるのです。
  • 普遍的平和」の実現と言ったのは、すべての領域においてシャーロームが回復するからです。神と人のかかわりにおいて、また人と人とのかかわりにおいて、また人間と動物とのかかわりにおいて、また神の民と異邦人とのかかわりにおいて、また、神の民であるエフライム(北イスラエル)と南ユダとのかかわりにおいて、天と地のすべての領域において、神のシャーロームが回復する、そのことを指して、「普遍的」ということばを使っています。イザヤ書11章6~9節をもう一度、見てみましょう。

6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
7 雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。【主】を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。

  • メシアの統治の結果、もたらされる普遍的平和が詩的な表現で描かれています。聖書では最も貪欲で残忍な動物として描かれている「狼」が、ここでは「子羊」とともに「宿る」とあります。「宿る」と訳された動詞は、「ともにえさを食べる」という意味です。千年王国時代はすべて草食です。
  • 「ひょう」と「子やぎ」もともに伏しとあります。これも今の時代では、あり得ない光景です。
  • 子牛、若獅子(ライオン)、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。肥えた家畜は野獣の格好の餌食ですが、食われることがありません。子どもが彼らを従えている光景です。メシアがこの地上を支配すると、すべての敵意は止み、野獣はその凶暴性を失い、弱い動物は安全に生きられるようになるのです。人間と動物(獣と家畜)が共存するのです。「追う」と訳された原語は「導く」とも訳されます。つまり、人間が動物との関係において優位性を保っていることを示しています。
  • 7節の「雌牛と熊とは共に草を食べ、獅子も牛のようにわらを食う」という表現も平和的共存を表わしています。ここで文字通りに解釈するなら、肉食動物が草食動物に変わるということです。エデンの園の状態に回復すると、こういうことになるということです。
  • 8節の「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。」も大きな変化です。コブラやまむしと言えば、猛毒を持つ蛇です。それらに噛まれたとしても、全く無害の世界です。使徒パウロがローマへの旅の途中に難波して、マルタ島という所に漂着するのですが、そこで彼はまむしに噛まれます。結果は何の害もありませんでした。それを見ていた人々は彼を「神さまだ」と言い出しました。マルコ福音書の最後に、イエスを信じる人々には次のようなしるしが伴うとしていくつかのしるしが挙げられていますが、その中に、「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けない」というくだりがあります。それは、やがて訪れる千年王国(メシア的王国)の祝福の先行的な前味として経験される必要があったことを示しています。
  • 使徒パウロも人間と被造物の世界とのかかわりを、ローマ人への手紙8章で次のように述べています。

    19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
    20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
    21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
    22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしていることを知っています。
    23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

  • 人間のからだが贖われるとき、つまり、朽ちないものに変えられるとき、そのような時代がくるとき、被造物全体が滅びの束縛から解放されるのです。そのために、弱肉強食による苦しみから解放されるのです。

ベアハリート

  • 今回は、メシア(キリスト)の再臨によってメシアの支配がこの地上に及ぶときの祝福について、その一つを学びました。しかし、イザヤ書11章は、他にもイスラエルの民と異邦人との平和についても語っています。全イスラエルの回復等については、次回に学びたいと思います。
  • 今回は、イザヤ書11章という一つの窓から、やがて地上に再臨されるメシアによってもたらされる「普遍的平和」という祝福の一つを学んだに過ぎません。旧約の預言書には、やがて起こることを告げている窓が数多くあるのです。それを見つけ、そこから学ぶことによって、知れば知るほど驚きの世界があることを気づかされるのです。私たちは、これから起こることを正しく知り、そこに希望をもって日々歩むことが必要です。やがて起こることに目を留めて生きることは、今日の毎日のニュースを数多く見聞きする以上に、エキサイティングで、価値のあることではないでしょうか。


2013.12.22


a:11030 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional