****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

初穂の祭りとその預言的意味


4. 初穂の祭りとその預言的意味

ハグ・ハーレーシート

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ベレーシート

  • 主の例祭には、神の不変のご計画(マスタープラン)が啓示されています。 ですから、これからの時代の主にある者たちは主の例祭についての知識が不可欠です。3世紀に、ローマ・カソリック教会が「新約にある信者は安息日を含め、主の例祭を祝わないように。祝う者は信者間の交わりから除名する。」との通告を出したことによって、キリスト教会は元木であるヘブル的・ユダヤ的なルーツから切り離されてしまいました。つまり、「主の例祭」に込められた神のご計画を悟ることが出来なくなってしまったのです。しかし今日、ヘブル的・ユダヤ的視点から聖書を学び直す者たちが徐々に増えつつあります。これは、クリスチャンたちにとってはコペルニクス的転換、ないしはパラダイムシフトをもたらす経験となるはずです。
  • シリーズ「旧約における主の例祭の預言的意味」において、これまでに、週ごとの「安息日」、そして春の祭りである「過越の祭り」、「種の入らないパンの祭り」、「七週の祭り」、そして秋の最初の祭りである「ラッパの祭り」(ラッパを吹き鳴らす祭り)を取り上げました。今回は、もう一度春の祭りに戻って、「初穂の祭り」を取り上げます。まずはそのことが記されている聖書箇所を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】レビ記23章10~11節、14節
10 「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたが入り、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。
11 祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を【主】に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。
14 あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。

  • 「初穂の祭り」で重要なのは、太字で表記しているように、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来ること。祭司はその束を【主】に向かって揺り動かすことです。「揺り動かす」ことから、祭司用語として「揺祭」とも言います。イスラエルの祭りの三大祭は「過越の祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」です。ところが、それら三つの祭りには必ずその時期に収穫される初物を主へのささげものとして持って来るのです。「過越の祭り」の時期には「大麦」の初穂、「七週の祭り」の時期には「小麦」の初穂、「仮庵の祭り」の時期には「果物」の初物です。
  • 初穂や初物を主にささげることはイスラエルの民に対する主の命令でした。申命記26章1~10節を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】申命記26章1~10節
1 あなたの神、【主】が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に入って行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、
2 あなたの神、【主】が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、【主】が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。
3 そのとき、任務についている祭司のもとに行って、「私は、【主】が私たちに与えると先祖たちに誓われた地に入りました。
きょう、あなたの神、【主】に報告いたします」と言いなさい。
4 祭司は、あなたの手からそのかごを受け取り、あなたの神、【主】の祭壇の前に供えなさい。
5 あなたは、あなたの神、【主】の前で、次のように唱えなさい。
「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。
6 エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。
7 私たちが、私たちの父祖の神、【主】に叫びますと、【主】は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。8 そこで、【主】は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、
9 この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。10 今、ここに私は、【主】、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」あなたは、あなたの神、【主】の前にそれを供え、あなたの神、【主】の前に礼拝しなければならない。

  • この信仰告白の大切な点は、9節の「主が、この所に導き入れ、乳と密の流れる地を私たちに下さいました」という点です。要点をより短く言うなら、「主から与えられた地」であるという告白です。約束の地では、農産物として最初に収穫する初穂をもって、「神の御名を住まわせるために選ぶ場所へ行き」、それを神にささげることが命じられています。これは、神の民が土地取得による危機から守られるための神の恵みの手段なのです。つまり、「初穂をささげる」ことを通して、すべての農作物が神からの恵みの賜物であるということ、そればかりか、生活のすべてが神の恵みの中にあることを心に留めさせることだからです。申命記8章でも、その危機に対する警告が語られています。「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。』と言わないように」するためです。約束の地に入った神の民が、その地とその地で収穫されるすべてのものが神の恵みによって与えられていることを忘れた時、彼らはその地の産物ばかりか、地そのものをも失うことになると警告されました。そして、事実、イスラエルの歴史はそうなってしまったのでした。ですから、神のことばは決して侮ってはならないのです。
  • 初穂や初物を主にささげることは神の民が守られる恵みの手段だったのですが、その目的のためだけに「初穂の祭り」があるのではありません。最初に記したように、主の例祭には、神の不変のご計画(マスタープラン)が啓示されています。その視点から「過越の祭り」の後に来る最初の安息日の翌日にもたれる「初穂の祭り」とその預言的意味について学びたいと思います。結論を先に申し上げると、「初穂の祭り」の指し示す預言的な意味は、キリストの復活を予表するものであり、それはキリストの復活が眠った者(=死んだ者)が死者の中からよみがえった初穂であるということです。

1.「三日目によみがえらなければならない」との主の告知が意味すること

  • イェシュアが弟子たちに、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」という問いかけをした時、弟子の筆頭であるペテロが答えて、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えました。するとイェシュアはすかさず、「バルヨナ・シモン(שִׁמְעוֹן בַּר־יוֹנָה) あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と釘を刺しています。その時からイェシュアは、エルサレムにおけるご自分の受難と死を弟子たちに語りはじめます。そして、「三日目によみがえらなければならない」ことを教え始められました。ちなみに、共観福音書は、いずれも「必ず~なる」という必然性を意味する「デイ」(δεῖ)が使われています。また、「三日目に」という部分は以下のように訳されています。

①マタイ16章21節・・「三日目に」(新改訳・新共同訳) the third day ― τῇ τρίτῃ ἡμέρᾳ
②マルコ 8章31節・・「三日の後に」(新改訳・新共同訳) after three days ― μετὰ τρεῖς ἡμέρας
③ルカ 9章22節 ・・・「三日目に」(新改訳・新共同訳) the third day ― τῇ τρίτῃ ἡμέρᾳ

  • さて、ここで問題です。なにゆえに、キリストは「三日目によみがえらなければならない」のかということです。その必然性を聖書の中から論証しなければならないとするならば、その聖書的根拠はどこにあるのでしょうか。その根拠を、単に、神の摂理だからといった曖昧なことばではその必然性を論証したことにはなりません。聖書の中からその必然性が論証されなければならないのです。なぜなら使徒パウロも、Ⅰコリント15章3~4節で、以下のように記しているからです。「聖書の示すとおりに」は、「聖書に従って」と訳せます。いずれも「カタ・タス・グラファス」( κατὰ τὰς γραφάς )です。

    【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント 15章3~4節
    3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
    4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに(第二版までは「聖書に従って」と訳されていました)、三日目によみがえられたこと、(・・・です)。」

  • しかも、「聖書の示すとおりに」の「聖書」とは「旧約聖書」のことです。コリントの手紙が書かれた時点では、まだ新約聖書は書かれていません。ユダヤ人たちは旧約聖書とは言わず、「トーラー」「ネーヴィーム」「ケスヴィーム」の頭文字を取って、「タナフ(TANAKH)」と言います。その「タナフ」の示すとおりに、イェシュアが受難のメシアとして「私たちの罪のために死なれること」は旧約に預言されていました(イザヤ書53章)。そして、「死からよみがえられること」も旧約のダビデによって預言されていたのです(詩篇16篇)。ただし、そこにはいずれも「三日目に」ということばは預言されていません。
  • このメシア・イェシュアの死と復活の事実こそが福音であり、その事実に対する信仰に堅く立ち続けるならば、だれでも救われることができるのです。「十字架の死と復活」が強調されるのはそのためです。ただし正確には、「死と埋葬、そして復活と顕現」という四つの出来事が含まれているのです。それを省略して、私たちは「十字架の死と復活」としているのです。これが原始教会の信仰でした。
  • 礼拝の中で使徒信条を告白している教会であるならば、「我は天地の造り主、全能の神を信ず、我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は、・・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり・・・」というフレーズを毎週、告白しているわけです。しかし、その中にある「三日目に」という必然性を聖書から正しく理解しているのかどうかは別のことです。むしろ、「三日目に」を死んで、そこからよみがえるまでの期間としての「三日目に」として理解しているのではと思います。なぜ「三日目」なのか。事実としては認めても、なぜ「三日目」なのかというその必然性に疑問を抱く人はほとんどいないのではないかと思います。実はこの私もその一人でしたが、最近になって、「三日目に」の必然性に気づかされたのです。そのことをお話しするまえに、「三日目に」という従来の解釈を先に紹介し、その解釈に対して、「必然性の有無」を検証してみたいと思います。

2. 「三日目に」の「三」という数の落とし穴

  • 「三日目によみがえらなければならない」のかという質問に対して、多くの方が、「三日目に」の「三」という数にこだわってしまうようです。なぜなら、聖書の中に、「三日三晩」「三日目に」「三日目のために」という言葉があるからです。たとえば、以下のような聖書箇所がその例です。

(1) 「三日三晩」(ヨナ書1章17節~2章10節)

  • 預言者のヨナが神に逆らったために海に投げ出されます。そしてヨナは大きな魚に飲み込まれてしまいます。三日三晩、大きな魚のよみの腹の中でヨナは神に叫び悔い改めました。すると主なる神はヨナを陸地に吐き出させたことからこの出来事がキリストの死と復活の予表として解釈されています。
  • 検証: このヨナの話をイェシュアがされています。「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」(マタイ12:40)と。そしてこのことが「三日目によみがえらなければならない」という必然性の根拠として解釈しています。確かに、「人の子」(=イェシュア)は「三日三晩、地の中に」いました。しかし、このイェシュアが語られたコンテキストは、イェシュアが神の子ならしるし(目に見える証拠)を見せてほしいとイェシュアのもとにやってきたパリサイ人や律法学者に対して語られたものです。イェシュアは彼らに対して「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」と言われました。イェシュアはそれまで多くの奇蹟を通してご自分がメシアであることを示してきました。彼らはそれを見ているにもかかわらず、悪霊どもを追い出して力が本当に神から出ているのかどうか、その証拠を示してほしいと「しるし」を要求したのです。しかしイェシュアは彼らの要求に応じず、ヨナのしるし以外には与えられないと彼らの要求を一蹴しました。ヨナが遣わされたアッシリヤの首都ニネベの人々は奇蹟を見ることなく悔い改めました。しかしイェシュアの時代のユダヤ人は、ヨナに勝るイェシュアを見ながら悔い改めないパリサイ人や律法学者に対して、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」と言ったのです。確かに「人の子は三日三晩、地の中に」いました。そこからのよみがえりこそ、イェシュアが神から遣わされたメシアであることのしるしであることは事実です。しかしその事実が「三日目に」の予表であったとしても、必然性を示す有力な聖書的根拠には思えません。

(2) 「三日目に」(創世記22章4節)

  • アブラハムは、イサクを全焼のいけにえとして神にささげよとの命令に従ってモリヤの山(=エルサレム)に出かけます。そして、三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えたことが創世記22章に記されています。家を出発してから、実際にイサク(実際は神が身代わりとしての雄羊を備えていたのですが)をささげるまでは、イサクは言わばすでに死んだ者であり、三日目にイサクを死者の中から取り戻したよみがえりの型として解釈します。
  • 検証:この見解は「ヨナのしるし」以上に「三日目によみがえらなければならない」必然性としては有力です。なぜなら、神の約束はアブラハムの信仰にならう者に保証されるからです。ローマ書4章21~25節には次のように記されています。

    【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙4章21~25節
    21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
    22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
    23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
    24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
    25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

  • 最後の節(25節)に「私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」とあります。ヘブル人の手紙の中では「彼(アブラハム)は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」(11:19)とあります。信仰が義と認められるための復活の事実は強調されていますが、残念ながら、いずれにも、「三日目」という必然性は語られていません。

(3) 「三日目のために」(出エジプト記19章11節)

  • シナイ山において主ご自身が自ら神の民の前に現われるそのための準備の期間としての「三日目」ということが語られていることから、主のよみがえりによる顕現(現われ)までの期間の予表として解釈されます。
  • 検証: イスラエルの歴史の中で多くの神の顕現があります。ここでは神と神の民が合意の上で契約を結ぶために神の民がその備えのために必要な期間としての「三日目」のことですから、「三日目によみがえらなければならない」という必然性が全くないとは言えません。

(4) 「三日で」神殿を建てる(ヨハネの福音書2章)

  • ヨハネの福音書の2章には、カナでの婚礼で水がぶどう酒に変わるというしるしの後に、イェシュアが最後にエルサレムを訪れた時に大胆な宮きよめの行動を起こしたために、ユダヤ人から「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか」という問いに答える形で、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」とイェシュアが言ったことばが記されています。
  • 検証: 建てるのに46年かかった神殿を「三日で建てよう」とイェシュアが語ったことにユダヤ人たちは驚きました。神殿とはイェシュア自身のからだ(=キリストの花嫁としての教会)のことを言われたとヨハネは記しています。ここでの「三日で」は、共観福音書の受難と復活の告知のヨハネ版と考えることができますが、なぜ「三日で」建てるのか、その必然性については何も語られてはいません。聖書には二つの「宮きよめ」の出来事が記されています。第一の「宮きよめ」と第二の「宮きよめ」は多くの相違点があります。第一回目の「宮きよめ」は宣教を開始された初期の頃(A.D.27年頃)。第二の「宮きよめ」は受難週の時(A.D.30年)です。ではヨハネの福音書2章に記されている「宮きよめ」の時期は第一のものと考えられます。これはユダヤ人たちに強烈な印象を残したようです。だれもこの意味を理解した者はいませんでした。ただイェシュアの弟子たちが、イェシュアが死人の中からよみがえられた時、主が「三日で」建てると言ったことを思い出しました。しかしなぜ「三日で」なのか。その必然性の根拠は残念ながら語られてはいません。

(5) 「三」という数

  • 聖書の神は三位一体であるために、「三」という数を象徴的な数として考える解釈です。たとえば、ヘブル語で「父」を「アーヴ」(אָב)と表記します。確かに、「アーレフ」と「ベート」の二文字を数値に換算すると、1+2=3となります。このように考えると、「三」は父なる神、あるいは父と子のかかわりの象徴数と解釈できますが、それが「三日目によみがえらなければならない」という必然性の聖書的根拠とするには一考を要します。一考を要すると言ったのは、「三」という数が神を示す神聖な数だからです。とはいえ、優先すべきことは真理であり、数字はそれを補足するものでなければなりません。

(6) その他

  • イェシュアの死んだことが明確にされるために必要な「三日」という考え方があります。しかし、イェシュアの死が本当の死であったことを確証するのは、三日を待つまでもなく、「葬られたこと」で十分です。なぜなら、イェシュアの死んだことはローマ兵によって確認されたからです。
  • ホセア書6章2節に「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる」とありますが、ここの文脈的な意味としては、「ほんのわずかな期間に」という意味で、北イスラエルの民の安易な誠実を「朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。」として主は非難しています(ホセア6:4)。
  • 以上の(1)~(6) まで、「三日目によみがえらなければならない」ことの必然性を示すものとして考えられていることを列挙しました。「三日目」の必然性を予表や型として示してはいます。しかし納得できる決定的な必然性には至っていないように思われます。

3. 「三日目に」という聖書的必然性

  • パウロが「聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」(Ⅰコリント15:4)とあるように、「三日目に」の根拠は旧約聖書の中に啓示されてきたことが分かります。ところで、ここであるナゾナゾを紹介しましょう。「野菜を満載した車がある角を曲がろうしたとき、何かを落としました。いったい何を落としたでしょうか。」・・・・答えは、「スピード」です。「野菜」ということばに気を取られてしまうとこのナゾナゾは解けません。「三日目に」ということばも、実は同様です。「三日」あるいは「三」という数字にはそれなりの意味がありますが、そのことにのみ気を取られると、「三日目に」ということが指し示す聖書的根拠が見えなくなるという一つの例です。むしろヒントは、主の例祭の中に隠されているのです。
  • ズバリ、「三日目によみがえらなければならない」というその必然性の根拠は、イェシュアのよみがえりが「初穂の祭り」で啓示されていたことにあります。パウロの言う「よみがえり」とは、「朽ちないからだに変えられる」ことを意味しています。この朽ちないからだが与えられることこそが、「バーサル」(בָּשַׂר)、すなわち、「良い知らせを告げ知らせる」ことなのです。「初穂」としてのイェシュアのよみがえり、このことを使徒パウロは奥義だと理解しました。つまり、長い間隠されてきた事柄が、パウロによって初めて開示されたのです。繰り返して言うならば、「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられ」たのです(Ⅰコリント15:20)。キリストのよみがえりは、キリストによってすべての人が「朽ちないからだに変えられ」て、永遠に生かされるための初穂であり、やがて、キリストの再臨のとき、キリストに属している者たちがそれにあずかることを意味しているのです(Ⅰコリント15:23)。なぜなら、「朽ちるもの(肉体)は、必ず朽ちないものを着なければならないからです。」(同、15:53)。
  • イェシュアのよみがえりが「初穂」であるということは、やがてイェシュアが再臨される日にイェシュアを信じる人々が、死からよみがえって、「朽ちないからだに変えられる」ことの確かな保証を意味しています。レビ記23章の主の例祭の一つに「初穂の祭り」が命じられているのは、そのための預言的啓示だったのです。
  • イェシュアが弟子たちにエルサレムでの受難と復活の予告を話し始めたのは、イェシュアが「過越の祭り」で十字架にかかる一年前の春から夏にかけてのことでした。ですから、そのときには翌年の「過越の祭り」が週の第何日目かを当然知っていたはずです。イスラエルの民であるならば、主の例祭がいつか、その日程はだれもが脳裏に植え付けなければならないほどの重要な事柄だったはずです。
  • 「過越の祭り」と「種の入らないパンの祭り」は必ずしも週の第〇日目という特定された日ではなく、その年によって変化します。しかし、「初穂の祭り」は必ずその週の安息日の翌日である週の第一日目と決まっているのです。ですから、当然、イェシュアは自分の苦難と死を迎える年の過越の日と「初穂の祭り」には三日を要することを知っていたはずです。これが「三日目によみがえらなければならない」という「三日目」の必然性であると考えます。イェシュアの「よみがえり」の日は、「初穂の祭り」の日、すなわち「週の初めの日」と重なる日でなければならなかったのです。「初穂の祭り」と初穂としてのイェシュアのよみがえりの日が重なるためには、死んだ日を含めた「三日目」だったのです。主の例祭は、神の不変のご計画(マスタープラン)を正確に啓示しています。それゆえ、「聖書の示すとおりに、三日目に」(Ⅰコリント15:4)となるのです。

ベアハリート

  • キリスト教会が元木であるヘブル的・ユダヤ的なルーツから切り離されてしまったことで、聖書が語っている事柄がつながらないことが多くあります。神様のご計画(マスタープラン)はすでに聖書の中に啓示されているのは大前提としても、それが聖書のどこに記されているかを見出す必要があるのです。神はその啓示したことを順次進めて行かれます。主の例祭の中の春の祭りはキリストの初臨においてすでに実現しています。ですから、私たちは聖書を通して、秋の祭りに啓示されている神のご計画に関心を抱くとともに、キリストの再臨によって実現される事柄をより正確に知る必要があるのです。

2015.3.1


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