****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

初めの愛から離れたイスラエルの民

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4. 「初めの愛」から離れたイスラエルの民

【聖書箇所】 2章1節~13節

ベレーシート

  • ヨシヤ王の治世第十三年目に預言者として召し出されたエレミヤが語った初期のメッセージが2章~6章にまとめられています。今回はその中からイスラエルが行なった「二つの悪」(2:13)に触れてみたいと思います。エレミヤの預言者としての第一声です。

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  • イスラエルが神に対して犯した「二つの悪」とは、コインの裏表であり、悪の消極的行為と積極的行為を表しています。その意味では彼らの悪は「一つ」だとも言えます。湧き水である真の神を捨て、水をためることのできない、こわれた水ためを掘ることは、だれが見ても愚行というほかありません。その愚行による苦い結末が予告されているのです。

1. 麗しきハネムーン時代の愛

  • 2章では神とイスラエルの民とのかかわりが「夫婦」に譬えられています。2章1節に一回だけ使われているヘブル語があります。それは「ケル―ロート」(כְּלוּלוֹת)です。この語彙をいろいろな聖書が以下のように訳しています。

【新改訳】「婚約時代の愛」
【口語訳、新共同訳、岩波訳】「新婚時代の愛」
【関根訳】「新嫁の時の愛」
【バルバロ訳】「許嫁のころの愛」
【ATD訳】「花嫁の時の愛」
【文語訳】「契(ちぎり)をなせしときの愛」

  • 聖書の中で一回しか使われていない語彙を、上記のように様々な翻訳を見比べてみる時、それだけで自分のヘブル語辞書が作れてしまいそうです。日本では婚約と結婚は区別されますが、ヘブルの社会では「婚約」と「結婚」は同義であったことが理解できます。
  • 「婚約」「新婚」も含めた「蜜月(ハネムーン)の時の愛は、まさにイスラエルの民は主に対して「誠実」(口語訳「純情」、関根訳「真実」、パルバロ訳「愛」)でした。「誠実」と訳されたヘブル語「ヘセド」(חֶסֶד)で、これは本来、神の人に対する恩寵用語であり確固としたゆるぎない愛を意味していますが、それがここでは珍しく「人」から神への態度として用いられています。そしてそこから生み出される主への「従順」(歩み)を、主は忘れることなく覚えておられました。その「はじめの愛」から民が離れてしまったのです。
  • ヨハネの黙示録2章、3章には七つの教会(エペソ,スミルナ,ペルガモ,テアテラ,サルデス,フィラデルフィヤ,ラオデキヤ)に対するキリストの具体的使信が記されています。その使信の内容と目的は、主ご自身の教会を花婿なるキリストの花嫁としてきよめるためです。その中で、エペソの教会が「初めの愛」から離れてしまったことがヨハネによって非難されています(ヨハネの黙示録2章4節)。エペソの教会はよく働き、よく仕え、聖書の価値観にも忠実でした。そして長い間、忍耐してきたと主からほめられています。ところが、「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」と。
  • 神の民であるイスラエルは、主にとっては「聖なるもの」であり、収穫の「初穂」にたとえられています。「初物」と訳されたヘブル語は「レーシート」ですが、それは主にとって「最高、選り抜き」のものを意味します。ですから、その「初物」を食らう者はだれでも罪に定められ、わざわいをこうむったのです。それほどにイスラエルは主にとって尊い選びの存在であったのです。ところがです。その主の民が主から遠く離れ(遠ざかり)、「むなしいものに従って、むなしいものとなった」のです(エレミヤ2:5)。

2. むなしいものに従って、むなしいものとなった民

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(1) ヘヴェルの実態は虚無

  • 赤字で示した箇所は名詞の「へヴェル」(הֶבֶל)と、動詞の「ハーヴァル」(הָבַל)というヘブル原語です。名詞の「へヴェル」は、「息」「空」「むなしさ」「偶像」を意味します。旧約では73回の使用頻度で、特に「伝道者の書」の特愛用語です。そこでは38回も使われています。ソロモンが書いた書とされていますが、ソロモンをして、「空の空、すべてが空」、「なんとすべてが空しいことよ。風を負うようなものだ」というすさまじいほどの虚無の経験を通して得た結論は、「神を恐れる」というものでした。このような「へヴェル」の経験を通して、神はご自身の民たちに真の生けるまことの泉である神を尋ね求めさせようとされます。それがバビロン捕囚の経験でした。
  • ちなみに、エレミヤ書での「ヘヴェル」(הֶבֶל)は8回です。
    2:5/8:19/10:3, 8, 15/14:22/16:19/51:18 
  • 偶像を意味する「へヴェル」の正体は、自己の欲望の無限肯定です。罪人にとってそれは抜きがたいとげのようなものです。苦しい時の神頼みということばがありますが、苦しみがなくなると、人間の本源的傾向は「自分のために」益となることを求めるのです。それをどこまでも肯定してくれるのが「偶像」ですから、人間にとってきわめて都合のよいもので、その危険になかなか気づくことができないのです。
  • 神の民が荒野から「乳と蜜の流れる地」に入っていこうとする前に、モーセを通して神はご自身の民に警告していました。

【新改訳改訂第3版】申命記8章11~14節、17~20節

11 気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、【主】を忘れることがないように。12 あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、13 あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、14 あなたの心が高ぶり、あなたの神、【主】を忘れる、そういうことがないように。

17 あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。
18 あなたの神、【主】を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。
19 あなたが万一、あなたの神、【主】を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる。
20 【主】があなたがたの前で滅ぼされる国々のように、あなたがたも滅びる。あなたがたがあなたがたの神、【主】の御声に聞き従わないからである。

  • バビロンによる破壊と捕囚の原因は、神の民が神のみおしえに耳を傾けず、心が高ぶり、自己の欲望を無限に肯定してくれる偶像の神を求めたからでした。ベレーシートの図にあるように、まことの神を見捨てることはそれで終わることなく、水をためることのできないこわれた水ためを自分たちのために掘ることであり、それは虚しい失望の運命に終わることになるのです。それゆえ、そうなる前に、ユダの人々は神と共に歩んだあの荒野の40年のハネムーンの時代の「初めの愛」に帰らなければなりませんでした。

3. いのちの源泉に触れ続けることを求めよう

  • エレミヤの預言を通して語られたことは、神への誠実な愛と従順に立ち帰ることです。当時の祭司たちは「主がどこにいるのか」と尋ねず、律法を扱う(教育する)者たちも主を知らず、牧者たち(王や指導者たち)も主にそむき、預言者たちもバアルに従い、無益なものに従ったことが非難されています。
  • とすれば、悔い改めるべきことは、主を「尋ね求めること」、主を「知ること」、そして主に「従うこと」です。
  • 主イエスは次のように言われました。

新改訳改訂第3版 マタイの福音書7章13節~14節

13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

  • このことばを、神の警告として聞く者はいのちを見出すことができるのです。もう一度、非難されたエペソの教会のことを思い起すべきです。というのは、「はじめの愛」、すなわちイエスとの親しい交わりに帰らなければならないからです。イエスとの交わりが失われるならば、教会の力の源泉を放棄したことになります。イエスは「あなたがたはわたしから離れては何も出来ない」と言われました。いのちの源泉はイエスです。忙しいことは必ずしも良いとはいえません。エペソの教会がそうであったように、活動主義に陥ってはなりません。それは自分の思いやしたいことをして自分の心を満足させようとしている偶像かもしれないからです。また、神の心を喜ばせようと、忙しく活動し続けることを優先事項としてはならないのです。今や私たちひとり一人が、「初めの愛」の意味することを深く考えるよう問われているのです。

2013.1.15


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