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共同体を建て上げるためのとりなしの祈り

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B-08. 共同体を建て上げるためのとりなしの祈り

はじめに

  • ところで、「イエス・キリストの御名による祈り」を最も深く、神学的、体験的に明示したのは使徒パウロであった。「わたしの名によって求めなさい」とのイエスのチャレンジを、パウロはその生涯のすべてを通して実行しようとした。使徒パウロこそ、祈りの真髄を私たちに示してくれる人である。一言でいうならば、パウロの祈りの基調は、他人のためのとりなしの祈りである。しかもそれは、<キリストのからだなる共同体を建て上げる聖徒たちのためのとりなしの祈り>である。本講義では、これから、パウロにみられるとりなしの祈りを取り上げ、その祈りの特徴について考えてみたい。そしてそうした祈りを実践することを通して、本講義の<学びの視座>である主にある「人との親しい関係を育てる」面をおいて成長することを模索したい。
  • その前に、まず、パウロの祈りを知るためには彼自身について知らなればならない。とりわけ、使徒パウロはどのようにして、とりなしの祈りの高峰にたどりついたのであろうか。

(1) パウロの生涯におけるダマスコ経験が意味するもの

  • 使徒の働きに三度記されているパウロの回心の記事において、復活されたイエスは、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と彼に呼びかけている。(9章4節、22章7節、26章14節)。この呼びかけは、復活のキリストがご自分と教会とを同一視され、切っても切れない関係にあることをパウロに認識させるためであった。さらに、パウロのもとに主がアナニヤを遣わすことにより、彼はキリストを土台とした聖徒の愛の交わりに触れた。この経験はパウロをして、それまでの生き方を全く変えてしまう出来事となった。

①パウロの生涯における回心の経験 (注1)

  • パウロの回心は大体紀元A.D.33年頃である。イエスの十字架の死がAD30年頃とすると、その後3年くらい経た時、パウロの33歳頃のことである。彼がローマで殉教の死を遂げたのは64、5年頃とすれば、ちょうどその生涯は半ば頃に回心して、同時に使徒、伝道者としての召命を受けた。それは復活の主イエス・キリストからであった。
  • パウロの回心の特徴は、彼が自由に自発的にしたのではなかったことである。われわれが回心する、悔い改めるという場合には、自らの罪の自覚がある。しかし、パウロの場合は事情が全く違った。彼は悔い改めるべき罪の意識を持たなかった。ダマスコに遠征し、キリストの輩を逮捕処刑することはユダヤ教の律法に忠実なことであり、当時、彼が信じ仕える神に忠誠を尽くすことにほかならなかった。それゆえ、ダマスコ到着の直前に突如として起こった出来事について、彼はその意味がわからなかった。今の今まで愛国者であった彼は、一瞬にして路上に投げ出され、見るも憐れな腰砕けの盲目となり、打ちのめされてしまったのである。真昼の暗やみの中で、彼は厳かな声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と。それは以外にもまだ見たことも会った事もなかったナザレ人イエスの声であった。ここで現われたのは、パウロがユダヤ教信仰で信じていた神ではなく、復活のイエスであった。パウロがそれまで迫害していたのはイエスを信じる者たちであったが、彼はこのイエスを知らなかったのである。
  • 最早、この絶体絶命の窮地に追い詰められて祈った祈りは、「主よ、わたしはどうしたらよいのでしょうか」(使徒22章10節)というものであった。この祈りはパウロが回心して最初の祈りである。その祈りに対してパウロが聞いた主の声は、まず「起き上がりなさい」ということだった。そしてその次に、主はパウロに「どうしたらよいかはダマスコで告げる」と語られた。
  • パウロのために主の計画があった。すでに定められてあったパウロのための計画はダマスコで告げられる。主はダマスコの聖徒アナニヤを通して、パウロが今後、何をすべきかを告げられた。それはナザレのイエス・キリストの証人となり、地の極みまでキリストの福音を伝えるというものであった。
  • ここで注目したいことは、行き先も分からずに暗黒の中にいたパウロのもとに、主によって、アナニヤが遣わされ、「兄弟サウロ。見えるようになりなさい。」と言って、パウロの頭にあたたかい手を置いたことであった。サウロはこのことばによって自分が赦され、主の共同体の中に受け入れられたことを経験した。この経験はパウロの生涯にとってきわめて重要な経験であった。さらには後に、バルナパはパウロをアンテオケ教会の教師として紹介し、その働きに導いた。こうした受け入れはダビデがサウロの息子ヨナタンによって愛された経験に匹敵する。(注2)
  • 聖書だけでは人々を強くすることはできない。人の暖かなぬくもりのある手と心が必要である。教会内のあたたかい交わりは、祈りや聖礼典と同じく、恵みの手段であるゆえに尊重しなければならない。初心者のためにもろもろの天を開くのは、兄弟姉妹たちのぬくもりである。
  • 隣にいる人を愛する愛のない教会員が、どうして関係の薄いはるかかなたの人々を愛することができよう。愛がまず教会員相互の間に燃えるなら、それは炎となって世界の果てにまで及ぶであろう。使徒パウロにとって、愛の交わりはすべてであった。それゆえ彼の手紙は、交わりのことで埋め尽くされている。信徒同士を堅く結び合わせ、地方の各教会を、そしてユダヤ人の教会と異邦人の教会を堅く結び合わせること、そこにこそパウロにおけるとりなしの祈りの目的があった。

②兄弟愛の建設・・・パウロ書簡における「互いに」

  • パウロの書簡を見ると、「互いに」ということばが多く使われている。(注3) 教会において兄弟愛を育てること、これこそ私たちクリスチャンの仕事なのである。しかもこれは神が人に与えられた仕事の中で最も困難で、妨げの多い仕事である。なぜなら、この仕事に努めるときキリストの弟子でありながら心の底にひそむ醜さが顔を出し始めるからである。いろいろな段階にある兄弟姉妹たちと共に生活し、共に活動することの困難さを経験するのである。あるときは胸のはりさけるような思いを味わう覚悟をしなければならない。
  • イエスは言われた。和解は礼拝に先立たなければならないことを。主イエスは「もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」(マタイ5章23、24節)と言われる。
  • 教会は愛の実験場であり、工場である。ここで人々は兄弟姉妹として改造される。兄弟としての心を持つ存在こそ大きな力を発揮する。愛の精神、この精神をつくらなければならない。そして教会はこれを伝え、広めなければならない。この世は、まず教会内部に同情や親切が十分になければ、決してこれらに関する説教に耳を傾けることはない。教会員自らが実行しないことを、ただ理論だけでこの世に伝えようとするならば、何の役にも立たない。
  • 兄弟を愛さないならば、神を礼拝する力を失うことになる。そのような人の礼拝は機械的、形式的になり、満足はもたらされないであろう。この秘儀は、早くから昔の使徒が述べている。「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(Ⅰヨハネ4章20節)。私たちは人によってのみ神を知り、人によってのみ神に至り、人を愛することによってのみ最も神を礼拝することができるのである。これがキリスト教の教えの本質である。このことを疎かにして、教会における礼拝に熱を投じようとしても失敗に終わるであろう。神を敬う精神を豊かにする共同体は、互いに知り合う交わりにあるからである。クリスチャンが互いに絶えず関心を持ち合い、「すべての聖徒たちのために」絶えずとりなすならば、ますます神に関心を持つようになる。人を愛することは、神を愛する恵みに成長するただ一つの道なのである。

(注1)

  • パウロは故郷タルソで一般的教養を身につけた後、エルサレムに出て律法学者ガマリエルの下で、ユダヤ教の真髄を体得するため、律法の研鑚を積んだ。彼にとっては、律法に忠実に従うとはすなわち神に忠実なことであった。それは学究に甘んずることなく、信仰の実践に向かわせた。時あたかも律法を無視するかのごときナザレのイエスを、メシアと仰ぐ新興運動がエルサレムを中心として拡大されつつあった。パウロはこの信仰運動を無視することができず、ユダヤ教指導者や権力者たちの支援を受け、キリスト教徒撲滅のために身をささげ、着々とその目的を達成していた。そのため首都エルサレム周辺にはキリスト教徒は影をひそめるに至った。それはパウロらのクリスチャン迫害運動が熾烈を極めたことを物語っている。ただし難を逃れたキリスト教徒たちは、はるかダマスコに残存していることがパウロの知るところとなった。パウロは長老、大祭司、律法学者らユダヤ教当局者たちから捕縛の権限を委任され、部下たちをも提供されて、ダマスコ遠征に向かったのである。

(注2)

  • ダビデに対するヨナタンの友情は、神によって結び付けられたものであった。それは私欲のない、首尾一貫したものであった。この友情がもたらした遺産は、やがてダビデが王となったとき、人から忘れられ、弱く、寂しく歩む者に対する愛となって表われた。つまり、愛される経験はダビデに牧者の心をもたらした。ヨナタンの存在はダビデにとって大きかった。

(注3)

  • 私たちはキリストにあって、私たちはひとりひとり「互いに」器官であること(ローマ12章5節)。兄弟愛をもって心から「互いに愛し合うこと」、「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思うこと」(ローマ12章10節)。「互いに受け入れあうこと」(ローマ15章5節)「互いにいたわり合うこと」(Ⅰコリント12章25節)。「愛をもって互いに仕えること」(ガラテヤ5章13節)。「寛容を示し、互いに忍び合うこと」(エペソ4章2節)。「互いに赦しあうこと」(エペソ4章32節)。「互いに従うこと」(エペソ5章21節)。「互いに教え、互いに戒めること」(コロサイ3章16節)。「互いに慰めあうこと」(Ⅰテサロニケ4章8節)。「互いに励まし合い、互いに徳を高め合うこと」(Ⅰテサロニケ5章11節)…等。


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