****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

人は信仰によって義とされる


6. 人は信仰によって義とされる

【聖書箇所】2章15~21節

■ 2章15節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙2章15節
私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。

●15節~21節まで一つの段落となっていますが、新改訳第二版、および改定第三版では14節から21節までをケファに語ったことばとして括弧で括っています。新改訳2017では、口語訳、および新共同訳のように、14節のみがケファに語りかけた部分となっています。確認してみてください。私は個人的には、14節から21節をケファに語りかけた部分とするほうが、「私たち」(ケファとパウロ)と「」(パウロ)の区別が明瞭になるような気がします。

●「へーメイス」(Ἡμεῖς)は「私」(「エゴー」ἐγώ)の複数形です。ヘブル語訳は「アナフヌー」(אֲנַחְנוּ)としてこれを強調しています。「アナフヌー」(אֲנַחְנוּ)の「私たち」とは、異邦の国(社会)において、自分たちにとって同胞の兄弟関係を表すときのへブル語で、初出箇所は創世記13章8節です。そこではアブラムがロトに対して「争いがないようにしよう。私たちは親類同士だから」と言っています。パウロが15~17節で使っている「私たち」とは、同族のユダヤ人キリスト者であるという前提で使っているように思います。

●15節は、一見、唐突のような感じを受けます。ユダヤ人が異邦人を受け入れるということは、本来、考えられないことだったのです。ユダヤ人はトーラー(律法)を土台とした生活原理をもっています。ですから、それを持たない異邦人のことを、ユダヤ人は「罪人」と言っていたのです。食物規定(「カシュルート」כַּשְׁרוּת‎)をもたない異邦人と食事を共にするのは、律法違反と考えられていました。パウロは一般的なユダヤ人の側に立った発言をしているのです。

●しかし、教会はユダヤ人たち(「ユーダイオイ」Ἰουδαῖοι)と異邦人たち(「エスノイ」ἔθνοι)からなる集まり」です。教会はエルサレムにおいてペンテコステの時に始まりましたが、使徒の働きで初めて「教会」ということばが登場するのは5章11節です。その時の「教会」のメンバーはユダヤ人しかいませんでしたが、次第に異邦人もそこに入ってきます。「教会」はギリシア語「エックレーシア」(ἐκκλησία)で、「主によって呼び出された者たち、主に召し出された者たちの集まり」という意味です。ヘブル語は「カーハール」(קָהָל)で、「集会」という意味になります。教会「エックレーシア」にしても、集会「カーハール」にしても、その構成メンバーは、「ユダヤ人と異邦人」なのです。ユダヤ人と異邦人とはすべての分裂のルーツであり、両者が平和を保つということは一筋縄ではいかない奥義です。しかし、これこそが「福音の真理」なのです。なぜなら、キリストは敵意となる隔ての壁―さまざまな規定から成る戒めの律法―を打ち壊して、廃棄されたからです。こうして「キリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し」(エペソ2:15)と記されています。「教会とは何か」を考えるとき、このことを決して忘れてはならないのです。異邦人だけからなる教会は真の教会ではないのです。ところが、キリスト教の歴史において教会は長い間ユダヤ人を排斥してきました。

●イスラエルが復興された1948年以降、徐々にですが、メシアニック・ジュー(イェシュアをメシアと信じるユダヤ人)が現れ、異邦人クリスチャンに大きな影響(良い意味で)を与えるようになってきました。初代教会の最初の人々はすべてメシアニック・ジューだったのですが、ローマのコンスタンスティヌス帝以降、キリスト教の歴史において逆転現象が起こってしまい、反ユダヤ主義によって、多くのクリスチャンがユダヤ人を迫害してきた歴史があります。しかし神は終わりの日に備えて、今や多くのメシアニック・ジューの人々を起こしています。初代教会をモデルとした真の教会が再び整え始められて来ているのです。イェシュアが言われたことば「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍も受け、また永遠のいのちを受け継ぎます」(マタイ19:29)は、メシアニック・ジューに当てはまります。本来、家族を最も大切にするユダヤ人ですが、上記のみことばが示すような犠牲を払ってまでもイェシュアをメシアとして信じた者は、家族から勘当されると言われています

■ 2章16節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙2章16節
しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。

●接続詞の「ホティ」(ὅτι)は、「私たちもキリスト・イエスを信じました」(16節の主文)の理由を示す挿入句です。その挿入句とは「人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って」です。また、「ヒナ」(ἵνα)でその目的、すなわち「律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるため」です。さらにその目的の理由が「ホティ」(ὅτι)によって、「というのは、肉なる者その目的の理由が「ホティ」(ὅτι)によって、「というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによってははだれも、律法を行うことによっては義と認められないから」という構文になっています。

●パウロはユダヤ人であることに誇りを持っていました。その誇りは彼らに律法が与えられていたからです。ローマ人への手紙3章1~2節を見ると、「ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。・・第一に、彼らは神のことばを委ねられました」とあります。「神のことば」とは「トーラー」のことであり、それは「律法」と訳されています。パウロは「律法による義については非難されるところがない者」であったことを述べています(ピリピ3:6)。そのパウロが、ここでは「人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました」とケファに言っているのです。直接的にはケファに言っていますが、同時にガラテヤ人のキリスト者にも暗に語っているのです。

●「律法を行うこと」と「イエス・キリストを信じること」が対比されています。そして、ガラテヤ書で初めて「義と認められる」という表現が出て来ます。それは神に受け入れられることを意味します。「義と認められる」と訳されたギリシア語は「ディカイオー」(δικαιόω)で、16節の中だけで3回、つまり、①現在受動態(δικαιοῦται)、②アオリスト受動態(δικαιωθῶμεν)、③未来受動態(δικαιωθήσεται)が使われています。「義と認められる」とは「神に受け入れられる」こと、すなわち、「救われる」ことと同義で、その場合、現在受動態は「救われている」、アオリスト受動態は「救われた」、未来受動態は「救われるだろう」と表されます。「義」は神との関係概念を表す語彙で、神と人とのあるべき正しい関係を表します。かつてのパウロは、律法の行いによって神の義が得られると信じ込んでいました。ところが、「律法の行い」によっては、救いを獲得することはできないことを、身をもって知らされたばかりか、「ただイエス・キリストを信じることによって義と認められる」ことを知ったのです。「義と認められる」ことを「永遠のいのちを得る」「救われる」とも表現商品ます。あるいは、「神の国に入る」、「神に近づく」、「生ける望みを持つ」など、すべて同義です。

●16節の「キリストを信じることによって義と認められる」は、ガラテヤ書の主題聖句です。ここまで記された、「パウロが使徒として選ばれた次第」(1:11~24)も、「使徒たちがパウロを受け入れたこと」(2:1~10)も、「ケファを非難するパウロ」(2:11~14)者は、これらの三つの話はすべて、この主題を述べるために不可欠な伏線です。

●「ディア・ピステオース・イェースー・クリストゥー」(διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ)を、新改訳は「イエス・キリストを信じることによって」と訳していますが、「イエス・キリストの信仰を通して」と訳すことも可能です。「イエス・キリストに対する私たちの信仰」なのか、それとも「イエス・キリストが持たれた信仰」なのかの違いです。さらに、「ピスティス」(πίστις)は「信仰」とも「真実」とも訳せます。旧約聖書のヘブル語では、「ピスティス」(πίστις)は「エメット」(אֱמֶת)、ないし「エムーナー」(אֱמוּנָה)です。いずれも「真実」「まこと」「誠実」などと訳されますが、これは神にも人にも用いられます。これは神の約束に基づく確かさを表しますが、それに答えるべきイスラエルの民にもこのことが求められます。しかし預言者たちによって、イスラエルの民にこの「真実」「まこと」「誠実」が欠如していることが指摘され、批判されます。しかし「終わりの日」には、この「エメット」(אֱמֶת)、ないし「エムーナー」(אֱמוּנָה)を神の側から実現し、回復することが預言されています(ホセア2:20)。「信仰」も「真実」も神の賜物であることが示されていきます。そうしてイスラエルは神に受け入れられ、救われるのです。この問題については、これ以上触れないことにします。

「信仰による義認」こそ「福音」なのです。ところが、イェシュアや使徒たちが意味していた本来の福音とは、私たちが「個人的な救い」として理解している福音とは異なります。「個人的な救い」は、自分が天国に行けるようになるために、私の罪を赦してもらい、神の子どもとしてもらうことです。つまり、「罪あるままでは天国に行けないけれども、イェシュアの十字架によって罪を赦してもらえば、罪人であった私たちも天国に行けるようになる」という次元でしか「福音」を捉えていないことを意味します。こうした福音は、別名、「福音主義」とも言います。しかしイェシュアや使徒たちが語っていた福音とは、イスラエルに対する約束の成就であり、今やキリスト(メシア)にあってそれが完成されたという良きおとずれのことです。異邦人キリスト者はメシアにあってこの約束に接ぎ木された者たちであり、これにあずかる手立て(手段)が「信仰による義認」という神の恵みなのです。これは後で取り上げる「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました」ということばと関連してくる今日的問題をはらんでいます。どういうことかと言えば、「私は、神に生きるために、福音によって福音に死にました(真の聖書的福音によって福音主義に死にました)」と言えなくもないからです。「真の福音とは何か」を問うガラテヤ書の問題は、今日的な問題と言えるのです。

■ 2章17節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙2章17節
しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。決してそんなことはありません。

●17節は、「エイ」(εἰ)・「アラ」(ἆρα)構文です。「もし~であるのなら、(当然の結果として)~になる」という構文です。これは21節にも出て来ます。しかしそのことは「メー」(μὴ)で否定されています。

●17節は一体何を言おうとしているのでしょうか。話の流れとしては、ユダヤ人キリスト者たちが異邦人と食事をすることを避けたのは、異邦人と食事を共にすることで自分たちが汚れてはならないとする口伝律法の定めがあったからです。「口伝律法」とは、パリサイ人たちによるモーセの律法(成文律法)の解釈です。新約聖書で「先祖たちの言い伝え」とあればこの口伝律法を指しており、パリサイ人たちの間では、口伝律法が聖書(モーセの律法)以上の権威を持っていました。これが「律法主義」と言われるものです。それによれば、パウロたちは異邦人と食事を共にしていたのですから、律法違反者ということになります。その責任者はイェシュアです。なぜなら、イェシュアはパリサイ人や律法学者たちの見解からするなら、律法の破壊者と見られるようなことを平気で行っていたからです。イェシュアは律法主義に対して全く自由であることを、身をもって示しました。その意味で、パウロたち自身も「罪人」になるということなら、当然の結果として、「キリストは罪に仕える者」ということになります。「決してそんなことはありません」とパウロは言っているのです。

■ 2章18節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙2章18節
もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。

●17節で「決してそうではありません」と言った理由が、原文には「ガル」(γὰρ)で示されます。この節から「私」(パウロ)が主語となっています。

●ここで「自分が打ち壊したもの」とは、正確には「律法(トーラー)」ではなく、「律法主義」です。神の教えである「トーラー」(律法)それ自体は「聖なるもの」(ローマ7:12)です。しかし「律法主義」は、人間的解釈を「聖なるもの」以上に権威あるものとする立場なのです。これは形を変えた偶像礼拝そのものです。ですから、神の子であるイェシュアの律法解釈と異なることは明らかです。イェシュアは変質してしまった律法の解釈を正すためにこの世に来られたのです。そのことを示しているのが、以下のみことばです。

【新改訳2017】マタイの福音書 5章17節
わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。

【新改訳2017】マタイの福音書 12章18~20節
18 「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を
授け、彼は異邦人にさばきを告げる。
19 彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。
20 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。

●20節の「傷んだ葦」と「くすぶる灯芯」とは、変質してしまった聖なるトーラーのことで、これが「律法主義」、すなわち、口伝律法なのです。それを本来のものとして回復するためにイェシュアは来られたのでした。

「律法」と「律法主義」とは明確に区別されなければなりません。ところが、いずれも「ノモス」(νόμος)という語彙を使っているため(というのは、律法主義を意味する語彙がないため)、文脈で見分けるしかありません。それが次節の「律法によって律法に死ぬ」という表現なのです。

■ 2章19節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙2章19節
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。

●「私は、神に生きるために、律法によって律法に死ぬ」という部分の「律法によって律法に死ぬ」とはどういうことなのでしょうか。これは先ほど言った「律法と律法主義とは区別される」ことによって解決します。

●「死ぬ」という言葉の「アポスネースコー」(ἀποθνήσκω)は、「死ぬ」という動詞「スネースコー」(θνήσκω)に強意の接頭語の「アポ」(ἀπο)がついた合成語です。その1人称のアオリスト形「私は死んだ」が使われています。「律法によって律法に死ぬ」とは、「聖なる律法によって、私は律法主義に死んだ」という意味です。「キリストと共に十字架につけられた」というのは、実はそのことを指しているのです。大切なことは、神に生きるために、パウロがそれまで拠って立っていた律法主義に死んだということなのです。そしてそれができるのは、キリストが律法主義という呪い(自己義認をもたらす偶像礼拝という罪のさばき)を代わって引き受けてくださったからなのです。

■ 2章20節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙2章20節
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

●20節の「キリストが私のうちに生きておられるのです」というフレーズと、19節の「私はキリストとともに十字架につけられました」というフレーズは表裏一体です。19節がキリストの十字架の死を語っているとすれば、20節はキリストの復活を語っています。私を愛し、私のためにご自身を与えてくださった(=引き渡してくださった)十字架の死は現在完了形です。現在完了形はすでに完了した事柄が引き続いていることを表わす時制です。そしてまた、私のうちに復活されたキリストが生きているのは現在形です。そしてその信仰はやがて来る再臨においても続きます。ただし、「キリストが私のうちに生きておられる」という恵みについては、ここの箇所では詳しく取り扱われていません。それが語られるのは、ガラテヤ書の5~6章においてです。

■ 2章21節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙2章21節
私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

●ここの「もし義が律法によって得られるとしたら」の「律法」は「律法主義」のことです。それは神が人間のために備えられた救いのご計画よりも、人を支配するために人間が解釈した口伝律法を重要視することです。禁止や命令や罰からなり、しかもそれを行うことができないにもかかわらず、人にそれを強いて、さばいてしまうという欺瞞に満ちた教えなのです。そのような律法主義の教えで義を得ることができるとするならば、キリストの死は無意味となってしまうのです。パウロはこの律法主義にキリストとともに死んだのです。それはパウロがキリストとともに生きるためです。

●「私は神の恵みを無にはしません」の後には、「なぜなら」という理由を示す「ガル」(γὰρ)があり、17節と同じように、「エイ」(εἰ)・「アラ」(ἆρα)構文があります。「もし義が律法によって得られるとしたら、その結果として(「アラ」ἄρα)、キリストの死は全く無意味になってしまう」というものです。

●最後に、ギリシア語の接続詞や時制を学ぶことによって、文章の成り立ち(構文)がより鮮明になってきます。これはヘブル語にはないギリシア語特有の利点です。ですから、みことばを真剣に学ぼうと思う者にとっては、ギリシア語の学びは不可欠とも言えるのです。

2019.8.8


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