****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

人の子は思いがけない時に来る(携挙の奥義)


105. 人の子は思いがけない時に来る(携挙の奥義)(オリーブ山の説教③)

【聖書箇所】マタイの福音書24章32~51節

ベレーシート

●オリーブ山の説教の第三回目は、マタイの福音書24章32~51節に記されている「携挙」(携え上げ)について取り上げます。今回のメッセージのタイトルを「人の子は思いがけない時に来る」(携挙の奥義)としました。それは「人の子は思いがけない時に来る」こと、さらに「一人は取られ、一人は残されます」ということが、携挙と関係があるからです。特に後者の「一人は取られ、一人は残されます」ということばは、主を信じる者と信じない者のことではありません。ここにある二人はいずれも主を信じているのです。その証拠に「あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らない」(マタイ24:42)とあるからです。「一人は取られ」の「取られ」が「携挙」(あるいは、「携え上げ」)を意味する語彙で、ヨハネの福音書14章3節にある「迎え入れる、取られる、連れ去る」を意味する「パラランバノー」(παραλαμβάνω)です。携挙は主によって天へと迎え入れられることであり、教会のみならず、黙示録の「二人の証人」(黙11:12)が「天から大きな声が『ここに上れ』と言うのを聞いた。そして、彼らは雲に包まれて天に上った」の「上った」(「アナバイノー」ἀναβαίνω)もれっきとした携挙の語彙なのです。旧約のエノクの「神が彼を取られた(לָקַח)ので、彼はいなくなった」(創5:24)のも、主が預言者エリヤを「竜巻に乗せて天に上げようとされた(עָלָה)」(Ⅱ列王2:1)のもすべて携挙の語彙です。

● (地上再臨ではなく) 携挙については、以下のように多くの異なる考えがあります。

(1)すべて救われた者たちは大患難の前に携挙される(患難前携挙説)。
(2)すべて救われた者たちは大患難の後に携挙される(患難後携挙説)
(3)すべて救われた者たちは大患難の中間に携挙される(患難中携挙説)
(4)教会は患難前に携挙され、他の一部は患難時代を通していつでも携挙されうる(患難前―後携挙説)

●結論を先に言うなら、「一人は取られ、一人は残されます」という意味を説明するのに、(4)の考え方は最善の解釈となると信じます。これまで携挙といえば、教会に対する神の救いのご計画を表していましたが、今回はそこに固執せずに、天に携え上げられる者たちを見ながら、神のすばらしいご計画を学ぶと同時に、主の警告をしっかりと受け止めたいと思います。携挙(携え上げ)の基準は、何と「目を覚ましていること」だということです。「目を覚ます」ということがどういう意味なのか、ヘブル的視点から見て行きたいと思います。今回のテキストはマタイ24章32~47(51)節までとし、順に解説していきたいと思います。

(1) テキスト

【新改訳2017】マタイの福音書24章32~42節
32 いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。
33 同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。
34 まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。
35 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
36 ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
37 人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。
38 洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。
39 洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。
40 そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。
41 女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。
42 ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。

※このテキストには再臨ということばはありません。「到来・来臨・出現」を意味する「パルーシア」(παρουσία)だけがあります。

(2) 24章32~25章30節の概要 

●マタイの福音書24章32~35節までは「再臨」の教え、36節~25章30節までは「携挙」の教えであり、その教えの中に「目を覚まして用意すること」(24:42~44)、そして「忠実で賢くあること」(24:45~51)が含まれています。前者は25章1~13節の「花婿を迎える10人の娘のたとえ」によって、後者は25章14~30節の「タラントのたとえ」によって再度取り上げられます。これが24章32節~25章30節の概要です。

1. 「いちじくの木から教訓を学びなさい」

【新改訳2017】マタイの福音書24章32~33節
32 いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。
33 同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。

●まずは「再臨」についての教えです。「いちじくの木」はイスラエルを象徴するものであることはこれまでも学んできました。マタイ21章19節でイェシュアは「いちじくの木」をのろい、それを枯らしました。そしてそれは後のA.D.70年に実現しました。ローマのタイタスによってエルサレムは破壊され、多くのユダヤ人たちが世界中に離散したのです。しかしこの時点で、イェシュアはイスラエルがこの後どうなっていくのかを当然知っておられました。ですから、「いちじくの木から教訓を学びなさい」と言われたのです。いちじくの木から何を学べと言うのでしょうか。「枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かる」というのは、イスラエルにいのちが回復することを表しています。つまり、離散したイスラエルが国家として復興することを意味しています。そういうことが起こると「夏が近いことが分かる」と言っているのです。

●「夏が近い」とはどういうことでしょうか。イェシュアはイスラエルに対する神の約束が実現・成就するということを「夏が近い」ということばで表しました。事実、1948年にイスラエルは国家として奇蹟的な復興を遂げました(霊的にはいまだ復興されていませんが)。しかしそれは人の子が来臨することの一つのしるしなのです。つまり、それは「天の御国」(メシア王国=千年王国)が近づいたことを意味するのです。そこまで読み込む必要はないという人もいますが、歴史を支配しておられるイェシュアがそのことを知らないはずがないのです。

●「夏」は収穫の季節を意味します。イェシュアは再臨の時期を収穫の時期として考えておられました。ヘブル語で「夏」を意味する「カイツ」(קַיִץ)と、世の「終わり」を意味する「ケーツ」(קֵץ)とは語根が同じです。そこにイェシュアは目を留めさせようとしています。33節の「同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい」の「同じように」とは、「枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります」というたとえを意味しています。また、「これらのことを」とはイェシュアが語ったイスラエルに関するすべての預言―つまり、5~31節に記されている「産みの苦しみの初めのいろいろなこと、つまり、ユダヤ人による御国の福音の宣教、そして、反キリストの大患難、イスラエルの復興などーのすべてを含みます。そして「人の子が戸口まで近づいている」の「近づいている」とは「間近まで来ている」という意味で、人の子が地上に再臨することが近いのだから、そのことを知って備えなければならないということを示唆しています。

●また、原文には「人の子」という語彙はありません。「戸口まで近づいている」の「いる」が三人称男性単数であるゆえに、新改訳では「人の子」と訳していますが、回復訳では「それ」と訳し、「御国」(王国)と解釈しています。それはルカの福音書21章31節の「神の国が近い」とも符合します。ユダヤ人にとって、夏はすべてのものが生い茂り、いのちに満ちる季節です。冬が死んで枯れる大患難を意味するとすれば、夏は御国(王国)の到来を意味し、春は携挙を指していると言えます。イスラエルの季節それ自体が神のご計画を示しているのです。

【新改訳2017】マタイの福音書24章34節
まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。

●34節の「まことに、あなたがたに言います」というフレーズは、イェシュアが重要なことを語るときの常套句です。「これらのことがすべて」とは5~31節に記されている一連の出来事を意味し、「この時代が過ぎ去ることは決してありません」の「時代」は「ゲネア」(γενεά)で、「過去と未来とを合わせた悪い時代」、つまり、邪悪で、姦淫の、よこしまで、曲がった人々の時代のすべてを意味します。そうした時代が過ぎ去る前に、イェシュアが語ったすべての出来事は成就するという意味です。そしてこの時代が過ぎ去ってはじめて、メシアが支配する新しい時代が来るのです。

【新改訳2017】マタイの福音書24章35節
天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。

●35節は、34節の言い換え表現です。

2. 「一人は取られ、一人は残されます」

【新改訳2017】マタイの福音書24章36節
ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

●36節から流れが変わります。ここからは「携挙」についての教えです。その理由は原文の冒頭の文字が大文字になっていることと、その冒頭にある「ただし」と訳されたギリシア語の「ペリ・デ」(Περὶ δὲ )が、しばしば新しい段落を示す慣用句として用いられることが多いからです(例としては、Ⅰテサロニケ人への手紙5章1節があります。それまでは「携挙」がテーマであったのが、5章2節から「主の日」、つまり大患難の話に変わっているというように)。ここ36節では、突如「携挙」の話になっているのです。父だけが知っている「その日、その時」とは、イェシュアの到来(=現われ=パルーシア)を意味します。それは地上再臨のことではなく、「携挙」です。ところが、携挙は教会に対してだけでなく、黙示録にはいろいろな携挙があるのを以下のように見ることができるのです。

(1)「教会」(Ⅰテサ4:16~17, Ⅰコリ15:51~52、「雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです」)
(2)「二人の証人」(黙11:12「彼らは雲に包まれて天に上った」)
(3)「神の印を押された144,000人のユダヤ人の宣教によって救われた大勢の群衆(異邦人)」(黙7:9~15、
御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた」)
(4)「女は床の子を産んだ。・・その子は御座に引き上げられた」(黙12:5)
(5)「獣と・・その名を示す数字に打ち勝った人々が、神の竪琴を手にしてガラスの海のほとりに立っていた」(黙15:2)

●(1)~(5)はすべて祝福された者たちと言うことができます。彼らはいつ天に引き上げられ、あるいは天にある御座の前に立つのか記されていません。しかし彼らが「取られる者」たちであることは確かです。つまり、「携挙される」ということです。彼らがいつ取られるのか、だれも分からないのですが、やがてイェシュアが地上に再臨される時に、彼らはみなイェシュアに伴ってエルサレムに集まることになります。一方、御使いによって世界の四隅から集められるイスラエル、および、ボツラに隠され、養われる「イスラエルの残りの者」は、携挙されずにメシアによってそのまま御国に入ることになります。 

【新改訳2017】マタイの福音書24章37~39節  
37 人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。
38 洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。
39 洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。

●人の子の到来(パルーシア)、つまり携挙は37節にあるように、「ノアの日と同じように実現する」とあります。「ノアの日と同じように実現する」とはどういうことでしょうか。それは、洪水が来て、すべての人をさらってしまう日まで、人々には洪水が来ることが分からなかったように、そのようにして人の子の到来(=さまざな携挙)があるということです。サタンは人々を食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりという日常の生活に人々を忙しくさせて、洪水という神のさばきが来ることに麻痺させます。サタンはすでに救われた私たちに対し「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」という日常の営みに心を支配させ、思い煩いを与え、神の訪れについて無感覚にさせようとしているのです。洪水が来てすべての人をさらってしまうまで、彼らには分からなかったように、人の子の到来(さまざまな携挙)もそのように実現するとあります。

【新改訳2017】マタイの福音書24章40~41節
40 そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。
41 女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。

●最初にも述べたように、40節の二人の「男」も、41節の二人の「女」も、主にある救われた兄弟姉妹です。しかも、彼らが「畑」や「臼をひいている」とあることから、日常の働き、普段の生活の営みをしていることが分かります。そのような状況の中で「一人は取られ、一人は残される」のです。どこに取り去られるのかと言えば、それは天です。「取られる」と訳された「パラランバノー」(παραλαμβάνω)は「連れ去る、迎え入れられる」とも訳されます。この出来事は「携挙」(=携え上げ)のことで、パウロは「引き上げる」(「ハルパゾー」ἁρπάζω)という語彙を使っています(Ⅰテサ4:17)。これは一瞬にして奪い取って行くことを意味しています。この時に「取られる者」は幸いですが、「残される者」は不幸です。ちなみに、「残される」と訳された「アフィエーミ」(ἀφίημι)は、「取り残される、見捨てられる」とも訳されます。ここでの重要な点は、「取られる」のはクリスチャンで、「残される」のはノンクリスチャンだということではないことです。クリスチャンでありながら、「取られる者」と「残される者」がいるということです。「残された者」は当然ながら、大患難の中を通らなければならなくなるのです。「ですから、目を覚ましていなさい」という警告のことばが生きて来るのです。

3. 「目を覚ましていなさい」という命令の真意

【新改訳2017】マタイの福音書24章42~44節
42 ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。
43 次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。
44 ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。

●自分はイェシュアを信じて洗礼も受けたし、礼拝にも行っているし、献金もささげているし、時間があれば聖書も読むし、教会でも奉仕しているし・・・だから大丈夫、と思ってはいないでしょうか。主を信じる者のすべてが携挙されるということではないのです。もしすべてが一括して携挙されるなら、「目を覚ましていなさい」とイェシュアは言われなかったと思います。イェシュアは「目を覚ましていなさい」と命じています。それは主がいつ来られるのかが分からないからなのですが、この命令に、主はどんな思いを込めて語っているのでしょうか。預言者エレミヤが主に召されたときの様子が聖書に記されています。その中に次のようなやりとりがあります。

アーモンド.PNG

【新改訳2017】エレミヤ書1章11~12節
11 【主】のことばが私にあった。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」
12 すると【主】は私に言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」

●11節で「あなたは何を見ているのか」との主にことばに対して、エレミヤは
「アーモンドの枝を見ています」と答えます。すると主は「あなたの見たとおりだ」と言われました。その理由は「わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている」からです。この「見張っている」ということばは「シャーカド」(שָׁקַד)です。「シャーカド」は「目を覚ましていること、見張っていること、注意深く期待して待っていること」を意味します。これは「アーモンドの木」を意味する「シャーケード」(שָׁקֵד)と語呂合わせになっています。文語訳は「アーモンド」を「巴旦杏」(はたんきょう)と訳しています。関根訳は「目覚めの木」と訳していますが、「見張りの木」とも訳せます。新改訳改訂第三版の「よくぞ見たものだ」という訳には、主の喜びが伝わってきます。つまり、主と同じところに目を向けているという共観、エレミヤと主の思いが一つになっているという共感、まさにここに携挙の奥義があるのではないでしょうか。携挙にあずかった者の共通の信仰と喜びがあります。イェシュアが弟子たちに言われた「目を覚ましていなさい」という命令は、神のヴィジョンと思いを一つにし、その実現に心躍らせる信仰を持つことを願って語られたことばです。この信仰を持っているかどうかで、「一人は取られ、一人は残される」のです。

アロンの杖.PNG

●「アーモンド」(別名、あめんどう、巴旦杏)は、1~2月頃に他の木に先立って冬の眠りから醒めて芽を出し、花を咲かせます。それゆえ「目覚めの木」とも呼ばれるのですが、これは「よみがえりのいのちの初穂」を象徴しているのです。民数記17章に、大祭司アロンが持っていた杖がアーモンドの木であったことを記しています。この箇所には、祭司職に関する論争で明確にされた出来事が記されています。つまり、各部族の中でアロンの杖だけが、芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶという奇蹟が起こりました。この奇蹟によってアロンこそ神が選ばれた特別な祭司であり、格別な祝福を与えられていたことが立証されたのです。後にアロンの杖が契約の箱の中に保存されたことは、枯れたと思われた木が芽を出し、花を咲かせ、実を結ばせたという「いのちの回復の象徴」のゆえです

●マタイに戻りましょう。43~44節は「泥棒のたとえ」です。「泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう」と述べた後で、「あなたがたも用心していなさい」と警告しています。なぜなら、人の子は思いがけない時に必ず来るからです。「用心」ということばに、ヘブル語訳は「クーン」(כּוּן)の分詞 (נְכֹנִים)を使っています。これは「用意・準備」という意味の語彙です。出エジプト記19章11節で、神は民が神に会うための準備をするようモーセに命じます。「彼らに三日目のために準備させよ。三日目に、【主】が民全体の目の前でシナイ山に降りて行くからである。」

●ここでは「三日目のために」とあり、いつ主がシナイ山に降りて来るかが分かっています。神との出会いのために何の準備もしないでいるということはあり得ません。しかし、マタイのたとえでは「人の子は思いがけない時に来る」とあります。来るか来ないかではありません。必ず来るのです。とすれば、イスラエルの民が主に会うための準備をしたように、私たちも準備をすべきです。この準備をするかしないかでも、「一人は取られ、一人は残される」のです。なぜ、彼らに「準備」が必要だったのでしょうか。それは、彼らには神の与える務めがあったからなのです。その務めとは以下に記されています。

【新改訳2017】出エジプト記19章4~6節
4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。
5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』・・・・・


4. 祭司としての務め

●マタイ24章45~51節の「忠実で賢いしもべのたとえ」で、イェシュアは以下のことを警告しています。

【新改訳2017】マタイの福音書24章45~47節(48~51節は割愛)
45 ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、
食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。
46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。
47 まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。

●45節の「食事時に彼らに食事を与える」とはどういう意味でしょうか。それは、主の家族に神のことばという食物を与える務めです。その食事の務めによって人々に仕え、人々を神の民として養うことです。それは「祭司としての務め」を果たすことを意味します。神が人を暗闇の世界から救い出された目的は、彼を祭司とするためです。そのようなしもべを「忠実で、しかも賢いしもべ」に例えて「幸いだ」としています。「賢い」と訳された「フロニモス」(φρόνιμος)は「思慮深い、識別力のある、洞察力をもった」という意味で、これは私たちの生来の資質ではなく、御霊によって与えられる資質です。

●最後に、47節「まことに、あなたがたに言います」とイェシュアは再び重要なことを述べます。それは、「忠実で賢いしもべに主人は自分の全財産を任せるようになる」ということです。「全財産」とは霊的な栄光の富です。御国において与えられる褒賞はこれです。休息ではなく、より重い責任がゆだねられるのです。このことは私たちのからだが御霊のからだに変えられることで可能となります。この点が今の私たちの世界と御国の世界との決定的な違いであり、福音なのです。

2021.6.6
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