主は永遠にシオンに住まわれる
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6. 主は永遠にシオンに住まわれる
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【聖書箇所】 ヨエル書3章16~21節
ベレーシート
- ヨエル書の最後の部分となります。わずか73節分の預言書ですが、この短い文書の中に、神のマスタープランがみごとにコンデンスされているのを見ます。今回の瞑想のタイトルを「主は永遠にシオンに住まわれる」としましたが、それは3章16~21節の中に「エルサレム」という言葉が3回、その雅名である「シオン」が同じく3回登場しているからです。
1. 神のこだわりー「エルサレム」
- 神のご計画において、神が常にこだわりをもっているひとつの事柄があります。それは「エルサレム」(=シオン)です。なぜなら、そこは神と人が永遠に共に住む場所として神が選ばれたからです。聖書でエルサレムが最初に登場するのは創世記14章です。そこにはアブラハムを祝福したシャレムの王メルキゼデクがいます。この「シャレム」こそ「エルサレム」です。この「シャレム」(原文では「シャーレーム」שָׁלֵם)の地が創世記22章では「モリヤの地」と称されています。
- 「モリヤ」(מוֹרִיָּה)とは「主が示す」という意味です。「ヤー」(יָה)は「主」で、「モーリー」(מוֹרִי)は「教え、示す」を意味する「ヤーラー」(יָרָה)が分詞化したものです。つまり、「モリヤの地」とは「主が教え示す地」という意味です。その地にある「一つの山」で、愛するひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう主はアブラハムに命じられたのです。「一つの山」とは、やがて明らかになる「エルサレム」(「イェルーシャーライム」יְרוּשָׁלַיִם)のことです。
- そのモリヤの山を聖なる山としたのがダビデです。ダビデは当時のエブス人から奪ってそこに神の契約の箱を運び入れることによって、そこを神の都としました。ヨシュア記18章28節にベニヤミン族の領地の一つして、「エブスすなわちエルサレム」とあります。
- さらに、このエルサレムにおいて、イェシュアは十字架の死によって贖いをなし、三日目によみがえり、天に昇り、神の右の座に着かれました。そして、再びエルサレムに王としてやって来られます。メシア王国の中心地はエルサレムです。教会の母はエルサレム教会であり、新天新地における「新しいエルサレム」もそこに来るのです。主はそこに人と共に永遠に住まわれるのです。しかも、永遠の都エルサレムは、「エデンの園」の本体でもあるのです。
- 「エルサレム」は神のマスタープランにおいて最も重要な所です。主によって贖われた者たちがやがて行くところは、漠然とした「天国」ではなく、「エルサレム」です。それゆえ、私たちはその「エルサレム」について深く関心を持つ必要があるのです。
- 「エルサレム」は「神の平和」という意味ではありません。多くの方がそのような意味として理解しているのは、「エル」を「神」と思っているからです。しかし「エルサレム」の「エル」は正確には「イェルー」(יְרוּ)で、「見る」を意味する動詞「ラーアー」(רָאָה)に由来します。また「サレム」は、確かに「平和」という意味がありますが、ここでは「完了する、成就する」という意味の動詞「シャーレーム」(שָׁלֵם)に由来します。つまり「イェル」と「シャーレーム」の合成語が「イェルーシャーライム」で、それを「エルサレム」と表記されているのです。ですから、私たちは「イェルーシャーライム」と心に銘記すべきです。なぜなら、そうすることで、「エルサレム」が「神はご自身のご計画の完成を見ておられる」ということを、私たちが常に思い起こさせるからです。
- 「神のヴィジョンが完全に成就する」という「神のヴィジョン」とは、神と人とが永遠に共に住むということです。それ以外の意味はありません。⇒詳しくはここをクリック。
2. エルサレムにおけるメシアの咆哮(ほうこう)
【新改訳2017】ヨエル書3章16~17節
16 【主】はシオンからほえ、エルサレムから声をあげられる。天も地も震える。【主】はその民の避け所、イスラエルの人々の砦である。
17 「あなたがたは知るようになる。あなたがたの神、【主】であるこのわたしが、わが聖なる山、シオンに住むことを。エルサレムは聖なる所となり、他国人が再びそこを通ることはない。【新改訳改訂第3版】ヨエル書3章16~17節
16 【主】はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。天も地も震える。だが、【主】は、その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである。
17 あなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であり、わたしの聖なる山、シオンに住むことを知ろう。エルサレムは聖地となり、他国人はもう、そこを通らない。
- 「【主】はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。」というフレーズは全く同じくアモス書1章3節にもあります。「叫ぶ」と訳された動詞は「シャーアグ」(שָׁאַג)で、「獅子がほえる」ことを意味します(アモス3:4, 8)。「獅子」は聖書ではしばしばメシアの象徴で、主のさばきを表わす表現です。
- やがて訪れる「終わりの日」には、容赦のない神のさばきがなされますが、そのとき「天も地も震える」ような超自然的なしるしが現われます(マタイ24:29/マルコ13:24~25/黙示録6:12~14)。恐ろしいまでの自然界の大変動が起こります。すべてが激変する中で、神の民イスラエルは、神のうちに「避け所」(「マフセ」מַחְסֶה)「とりで」(「マーオーズ」מָעוֹז)を見いだすのです。新約的な表現をするならば、洪水や暴風が襲っても倒れることのない岩という「確かな土台」、あるいは火によっても燃えることのない「堅い土台」のようなものと言えます(マタイ7:24~25、Ⅰコリント3:11)。
- メシアがほえる時、「あなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であり、わたしの聖なる山、シオンに住むことを知ろう。エルサレムは聖地となり、他国人はもう、そこを通らない。」(ヨエル3:17)とあります。「他国人はもう、そこを通らない。」とは、もはや神の民以外の者がエルサレムを踏み荒らすことは決してないという意味です。
3. エルサレムを中心としたメシア王国(千年王国)の祝福
- ヨエル書は「その日」、つまりメシアの再臨によるメシア王国の祝福を語る中で、それとは対照的なエジプトとエドムの荒廃を預言しています。おそらく、ヨエルの時代には想像もつかないような荒廃ぶりであり、そうなる理由について記されています。
【新改訳改訂第3版】ヨエル書3章19節
エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。彼らのユダの人々への暴虐のためだ。彼らが彼らの地で、罪のない血を流したためだ。
(1) 肥沃な地は、荒れた地に
- 「エジプト」はナイル川のおかげできわめて肥沃な地を有し、大いなる繁栄を享受した国です。死海の南からアラバ湾に至る「エドム」の地には、自然が造り出したペトラ(ボツラ)があり、砂漠を旅する隊商にとってすばらしい休憩地でした。しかしそこも荒れ果てた荒野となることが預言されています。諸国に対する神のさばきは、神の民に対してどのような態度を取ったかという基準によってさばかれるのです。エジプトもエドムも自然の恵みをもった地でしたが、神の民イスラエルに対して正当な理由もなく残酷に扱い、血を流したことがさばきの理由です。
(2) 荒れ果てた約束の地は、肥沃な地に
【新改訳改訂第3版】ヨエル書3章18節、20~21節
18 その日、山々には甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れ、ユダのすべての谷川には水が流れ、【主】の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤す。20 ・・ユダは永遠に人の住む所となり、エルサレムは代々にわたって人の住む所となる。
21・・【主】はシオンに住む。
- いなごの大軍(=反キリストの軍勢)によって、イスラエルの地の「甘いぶどう酒と食物は断たれ」(1:5, 16)、家畜は「うめき」「さまよい」、羊の群れは「滅び」ました(1:18)。水の流れは「かれ」、牧草地は「焼き尽くされ」ました(1:20)。ところが、「その日」には、地の呪いは解かれて、自然は回復し、豊かな祝福がもたらされます。
①山々には甘いぶどう酒がしたたる(「アースィース」עָסִיס)
②丘々には乳が流れる(「ハーラフ」הָלַךְ)
③谷川には水が流れる(「ハーラフ」הָלַךְ)
④主の宮から泉がわき出る(「ヤーツァー」יָצָא)
⑤シティムの渓流を潤す(「シャーカー」שָׁקָה)
●「したたる」「流れる」「わき出る」「潤す」、これらすべては地に与えられる「豊潤な」イメージであり、聖霊によってもたらされる祝福とも言えます。それは「キリスト(メシア)がすべてとなられる」ことなのです。
- 神がアブラハムに約束された地は、神が命名した通りの「乳と蜜の流れる地」となるのです。重要なことは、このときが必ず来るということ。そして、主にある異邦人もメシアによってこのイスラエルの祝福に接ぎ木されるということです。いまだ私たちの目には見ることはできませんが、目に見えない事柄を(霊の中で)確信することこそ、聖書のいう「信仰/ピスティス(πίστις)/エムーナー(אֱמוּנָה)」(ヘブル11:1)なのです。つまり「義人は信仰によって生きる」という世界です。
2015.1.31
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