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主は、人をエデンの園に置き、耕させた

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70. 主は、人をエデンの園に置き、耕させた

【聖書箇所】 創世記 2章15節

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【読み】
ヴァイッカハ アドナーイ エローヒーム エット ハーアーダーム 
ヴァヤニヘーフー ベガン エデン レオヴダーハ ウーレショムラーハ

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
【口語訳】
主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
【新共同訳】
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
【岩波訳】
神ヤハウェは人を連れて行き、(彼を)エデンの園に据えた。これに仕え、これを守るためである。
【NKJV】
Then the Lord God took the man and put him in the garden of Eden to tend and keep it.

【瞑想】

創世記2章15節のフレーズの中から、「地を耕す」ということばに注目したいと思います。なぜ神は、エデンの園の地を人が耕すようにされたのでしょうか。創世記2章5節には「地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。」とあります。人が造られた目的の一つに、「地を耕す」という務めがあったことが分かります。つまり、神との愛に満ちたかかわりを持って生きるために造られただけではなく、「地を耕す」という働きのためにも造られているのです。そのことが15節で確認されているのです。

「地を耕す」という務めとはどんな務めなのか。生きる糧を得るために働くことでしょうか。いいえ、それは違います。なぜなら、2章9節で「神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた」からです。人は、園のどの木からでも思いのまま食べてよかったのです。ですから「地を耕す」とは、生きていくために食べ物を得る働き(仕事、務め)ではないことが分かります。では、人が「地を耕す」ことの目的は何なのでしょうか。

実は、「地を耕す」という意味は解釈がとても難しいのですが、神戸ルーテル神学校の教授で鍋谷堯爾師は「創世記を味わう」の第三巻の中で、この箇所の解釈を以下のように記しています。

エデンの園では、人は「ホモ・ルーデンス」(遊び人)であったのではないでしょうか。神の造られたもののすべてをエンジョイするのです。そして、感謝し、賛美するのです。「アーバド」と「シャーマル」は、「エンジョイし、感謝し、賛美するためにと意訳することもできると思います。

鍋谷師のこの解釈の中で驚かされるのは、「ホモ・ルーデンス」ということばと、「エンジョイ」ということばです。「ホモ・ルーデンス」ということばはオランダの歴史学者であったホイジンガーという人が使った用語で、その人が書いた本のタイトルでもあります。「ホモ・ルーデンス」とは「遊び人」という意味です。彼曰く「すべて遊びなり」。芸術(音楽、美術、舞踏、書道など)における創作おいても、料理(懐石料理、お菓子)の世界においても、学問の世界においても、すべてが遊びからはじまると言うことです。遊びは何にもまして自由な行動です。そこでは、「遊び」と「真面目」の境が常に流動的に変化します。遊びの世界では疲れることを知りません。そして、楽しいことをしているところには、常に、新しい発想、新しい発見が見られるのです。それは、形式にはまらない喜びと楽しさが満ち溢れるいのちの世界です。

この「ホモ・ルーデンス」、実は詩篇の世界にあるのです。詩篇には「アルファベット詩篇」と言われるものが9つ(9篇、10篇、25篇、34篇、37篇、111篇、112篇、119篇、145篇)ありますが、それはヘブル語のアーレフから始まってターヴまでの22文字を頭とする22の単語によって各節がはじまっているというきわめて技巧的な詩篇です。「アルファベット詩篇」の不思議な魅力は、教育的な目的もあるかもしれませんが、その価値は聖なる遊びの世界を有していることにあると思います。聖なる「ホモ・ルーデンス」の世界、遊びと真面目さの境が分からない、それが「アルファベット詩篇」の真髄です。

また、神が王として支配する神の国(御国)の基調も「喜び」と「楽しみ」です。それは「ダビデの幕屋の霊性」ともいうべきもので、モーセの幕屋には見られなかった新しい基調です。

ここで私が言いたいことは、遊び人である「ホモ・ルーデス」と「エンジョイ」というキーワードこそが、今回のテーマである「地を耕す」ということばの意味をうまく表わしているのではないかということです。人が神のかたちに似せて造られた目的は、人が「神と向き合う」愛の交わりの中に生きると同時に神のうちにある創造性を輝かせることにあります。そこが他の被造物と異なる点です。つまり、人が「地を耕す」務めを与えられたのは、地から食物を得るためのものではなく、人が置かれた地において、神の似姿としての創造性をもって生きるために、神に仕え、地に仕え、地のために働くことなのです。ちなみに「地を耕す」という務めは、人が罪を犯す前のエデンの園においても、また罪を犯してその園から追放された後も、何ら変わることなくその務めが継続しているということです(創世記3:23)。とすれば、「耕す」(「アーヴァド」עָבַד)という仕事は人間が人間となるために必要不可欠なものだということになります。

後に、「働く、仕える」という「働き」(「エヴェド」עֶבֶד)は、自発性をもった神のしもべとして、神と人とに「仕える」という「しもべ」としての崇高な祭司としての務めとして発展していきます。イスラエルにおいては、神のしもべは最高の称号なのです。主イエスはまさに神のしもべとして、私たち人間に仕えるためにこの世に来られました。その働きはまさに「新しいことをなす(創造する)」神にふさわしいものでした。それは常に神と向き合うことから生まれ出る働きであり、しかもその働きは神の栄光を現わすものでした。

キリストにある私たちひとりひとりも、自分の置かれたところで、「地を耕す」という創造的な祭司としての務め(仕事、労働)がゆだねられているのではないかと思います。それはその人が神によって造られたことを実現していくための場であり、神の栄光を現わしていく機会となるためです。

【新改訳改訂第3版】Ⅱテモ 2:15
あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。


2013.4.25


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