****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

主の食卓の制定とその目的


111. 主の食卓の制定とその目的

【聖書箇所】マタイの福音書26章26~29節

ベレーシート

イェシュアがエルサレムに上られたのは、単に過越の祭りを祝うためではなく、受難(苦しみを受けること)と贖いの死(十字架刑で殺されること)のためでした。「受難と死」、それは一日にして起こった出来事であり、過越の食事から始まっています。その食事の途中で、イェシュアを裏切ろうとしているイスカリオテのユダが、イェシュアに促されるようにしてその行動を開始します。食事を終えたイェシュアの一行はエルサレムを出てオリーブ山の方へ向かい、ゲツセマネというところで祈りを終えた頃に、裏切ったユダがイェシュアに近づいたことで、イェシュアは逮捕され、徹夜で不当な裁判を受けます。ここからが真の意味での「受難」(パッション)です。そして「贖いの死」を遂げるのはその日の夕刻(午後三時)です。イェシュアの逮捕から始まる「受難」から十字架上での「贖いの死」を遂げるまで、なんと78節分が割かれています。

●逮捕されるまでの間に、イェシュアは過越の食事を置き換える「主の食卓」の制定と、エルサレムを出てオリーブ山に向かう途中で予告した「弟子たちのつまずき」、そして「ゲツセマネでの祈り」が続きます。今回はその最初の「主の食卓(晩餐)」(=後に、「パン裂き」とも「聖餐式」とも呼ばれるようになります)の制定の出来事(26:26~29)とその目的に目を留めたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書26章26~29節
26 また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい
28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です
29 わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」


1. 主の食卓の制定の目的

●ここにある主の食卓の記事は、マルコ14章22~25節、ルカ22章14~23節にもあります。つまり、すべての共観福音書がこの主の食卓の出来事を記しているのです。ただし、ヨハネによれば、イェシュアとその弟子たちがこの主の食卓を祝ったのは、本来の過越の食事の一日前であるとしています(13:1)。とすれば、共観福音書が記している主の食卓は、本来の過越の食事の前日にしたことになります。そうすることで、実際、過越の羊が神殿で屠られる時刻とイェシュアが十字架上で息を引き取られる時が一致するのです。神殿で屠られた羊は民衆に分かち与えられ、新しい日を迎える夜に食されます。その一日前にイェシュアは主の食卓を制定することで、これまでの過越の祭りを終結させて、新しい主の食卓に取って代わることを弟子たちに示したことになります。この点がとても重要なのです。しかも、この新しい主の食卓は、「新しい契約」(エレミヤ31:31~34)を結んだことでもあるのです。ちなみに、ヘブル人への手紙ではこの「新しい契約」のことが繰り返し語られています(8:8~12,10:16~17)。

●主が制定された食卓のことを、初代教会では「パンを裂き」(使徒2:42)とか、「週の初めの日に、パンを裂くための集会」(使徒20:7)と記しています。後のキリスト教会では「主の晩餐」とか「最後の晩餐」と言うようになり、「聖餐」あるいは「聖餐式」とも言われるようになりました。イェシュアを裏切ったイスカリオのユダが立ち去った後にこの食卓が制定されたことから、これは主を信じる者たちだけでなされる食事とされて来ました。しかし今日、日本のキリスト教会では、それに与る者は信者に限らないという考え方も出て来て、物議を醸しています。使徒パウロは、主の食卓のことで混乱を招いていたコリントの教会に対して、次のように述べています。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙11章23~27節
23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、
24 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
27 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

●イェシュアとの違いは、パウロが、①「わたしを覚えて、これを行いなさい」、②「あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです」と言っていることです。つまり、①は「パンと杯に与ることで、主を記念する」ことであり、②は主の再来を待望しつつ、主の死を告げ知らせることです。したがって、27節にあるように、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲むことは、主に対して罪を犯すことになると述べています。「ふさわしくないままで」とは、からだである教会が分裂している状態のままであることです。一つのパンが裂かれ、一つの杯から飲むことは、からだそのものが一つであるという奥義を意味しています。主のいのちにあずかりながら、一致することなく、また主の再来を待ち望むことがないなら、その食卓は「ふさわしくない」のです。名ばかりのクリスチャンや救われていない者が主を覚えることも、主の再来を待ち望むこともないばずです。そのような人が、主のパンを食べ、主の杯を飲むことはふさわしいことでしょうか。使徒パウロは、それは主のからだと血に対して罪を犯すことだと言っています。この主の食卓はいのちに関することです。それゆえ、この食卓に与る者は自分を吟味しなさいとも付け加えているほどです(同、11:28)。

●イェシュアは過越の祭りに食される羊の本体そのものです。羊は「きよい動物」です。なぜなら、それは、①反芻するものであり、②完全にひづめが割れているものだからです。それはイェシュアをあかしするものでした。
①「反芻するもの」・・彼は神のみおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人でした(詩篇1:2)。しかも、この方はエルサレムに上り、死んで復活して、天に昇られた方です。この「上る」という語彙が「反芻する」と同じ語彙(「アーラー」עָלָה)です。
②「ひづめが割れているもの」・・「割れる」と「パンを裂く」とは同じ語彙(「パーラス」פָּרַס)です。イェシュアのからだは生けるパンであり、いのちそのものです。そのいのちを私たちに供給してくださることが「パンを裂く」という行為なのであり、私たちにいのちを供給してくださる唯一の方なのです。その方が「パンを取り・・これを裂き、『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』」と言われたのです。

2. 「主の食卓」は「いのち」にかかわる

●ヨハネの福音書では共観福音書が記しているような「主の食卓」の記述がありません。どうしてでしょうか。
ヨハネの福音書は福音書の中でも最後に書かれたものです。共観福音書が記す以上に、この食卓の重要性を認識していたはずです。ですから彼は主の食卓がきわめて重要な事柄であることを示すために、儀式的な行為ではなく、説教というかたちでそれを描いているのです。イェシュアによる「五千人の給食の奇蹟」(6:1~14)の後に、カペナウムの会堂で話された説教(6:26~59)の中にその奇蹟の真の意味が解き明かされています。以下の箇所はその中から抜粋したものです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書6章53~58節
53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります
57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです
58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

●上記の箇所において、ヨハネは「主の食卓」(聖餐)の本質を明瞭に記しています。主の食卓におけるパンとぶどう酒は永遠のいのちを指し示す象徴です。目に見える「パン」を食べ、「ぶどう酒」を飲むことを通して、その奥に秘められている神と人との霊的ないのち、霊的な交わりの世界を、信仰によって味わうことを求めています。

●この説教に対する弟子たちの反応が記されています。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろう」と言って、イェシュアにつまずきました。「ひどい」ということばは「気持ちが悪い」という意味です。彼らの多くの者がイェシュアが語った「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」という表現につまずいただけでなく、イェシュアのもとを離れ去り、もはやイェシュアとともに歩かなかったとあります。イェシュアを裏切った者はイスカリオテのユダだけではありませんでした。この時にイェシュアは次のことばを語っています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書 6章63節
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。
わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。

●以前、当教会で、第三回「セレブレイト・スッコート」(2017.10.2~8)が七日間もたれました。その時に私は「聖餐」についての瞑想を分かち合いました。その中からいくつかを分かち合いたいと思います。

(1) 「主の食卓」は隠れた神の奥義

●「人の子の肉を食べ、その血を飲む」ことは、イェシュアを信じて、イェシュアのいのちによって生かされることを意味します。ところが、この世の御利益を求めていた人々はこの話につまずいたのです。この話ほど神の世界において重要な話は他にはありません。イェシュアの肉であるパンを食べ、イェシュアの流された血であるぶどう酒を飲むことが、イェシュアが「人の子」となってこの世に来られたことを集約しているのです。「主の食卓」に与るということは、この世の人の知恵によっては理解されることのない、いわば奥義として隠された神の知恵なのです。聖書は「食べる、飲む」という表現によって、それと一体となることを表しているのです。「最初のアダム」とその妻は「善悪の知識の木」から取って食べたことで、それと一体となってしまったのですが、人が「いのちの木」であるイェシュアを食べるためにこの世に来てくださったのです。ですから、イェシュアの肉を食べなければ、いのちを得ることはできません。血はいのちです。血だけが罪を赦す尊い代価です。イェシュアの血は贖い(身代わり)の血で私たちのために注ぎ出されたものです。ですからその血を飲まなければ罪の赦しはないのです。

(a)「主の食卓」に与ることは、主のうちにとどまること

【新改訳2017】ヨハネの福音書6章56節
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。

●「とどまる」はギリシア語の「メノー」(μένω)の現在形で、「とどまり続ける」という意味です。新共同訳は「つながる」、回復訳は「住む」と訳しています。英語ではabide, remain, dwell, continue(関係を共に保つ)という訳語があります。「とどまる、住む」とはきわめて深い関係性を表わす語彙です。旧約聖書でこの関係性を表わしている箇所を挙げるとすれば、詩篇15篇1節と詩篇91篇1節です。いずれも同義的パラレリズムで記されています。

①【新改訳2017】詩篇15篇1節
【主】よ だれが、あなたの幕屋に宿る(「グール」גּוּר)のでしょうか。
だれが、あなたの聖なる山に住む(「シャーハン」שָׁכַן)のでしょうか。
②【新改訳2017】詩篇91篇1節
いと高き方の隠れ場に住む(「ヤーシャヴ」יָשַׁב)者
その人は 全能者の陰に宿る(「リーン」לִין)。

●「宿る」(「グール」)、「住む」(「シャーハン」)、「住む」(「ヤーシャヴ」)、「宿る」(「リーン」)、これらはみな同義語と見なすことができます。そしてこれらヘブル語の語彙がギリシア語の「メノー」(μένω)の中に含まれていると言えます。「とどまる」ことの重要性をイェシュアは最後の晩餐の時に語られました。ヨハネがそのことを記しているのです。

(b) イェシュアにとどまることは多くの実を結ぶ

【新改訳2017】ヨハネの福音書15章4~5, 8節
4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。

●「主の食卓」において、イェシュアの肉を食べ、イェシュアの血を飲む者は、イェシュアのうちに「とどまり」、イェシュアも「彼のうちにとどまります」(ヨハネ6:56)とあります。この相互的な「とどまる」ということがどういうことかを理解することは容易ではないのです。霊性の大家アンドリュー・マーレーは「キリストにとどまる」という本の中でこのテーマについて31回分の瞑想をしていますが、理解することは容易ではありません。なぜなら、「とどまる」ということが霊のことばだからです。「とどまる」と訳された「メノー」(μενω)は、ヨハネの福音書15章だけでも10回使われています(ヨハネ福音書全体では40回)。ヨハネの特愛用語です。「わたしにとどまりなさい」「わたしのことばにとどまりなさい」「わたしの愛にとどまりなさい」と表現を変えながら、その「とどまりの様態」を表現しています。いずれにしても、「とどまり、とどまる」というかかわりがあるならば、実を結ぶことができます。しかしこのかかわりがなければ、決して実を結ぶことはできません。イェシュアを離れては、私たちは何もすることができないからです(15:5)。

●ところで、イェシュアの言われる「実」とは何でしょうか。ヨハネの福音書14章27節で語られている「平安」もその実の一つです。15章11節では「喜び」、15章12節では「」がそれに加わります。それらはいずれも神の祝福の総称である「シャーローム」(שָׁלוֹם)の側面と言えます。それらは地上に咲いたキノコのようです。キノコは地下で縦横に張り巡らしている菌糸がもたらした花です。一つのキノコ(花)が咲くところには、その下には目に見えない無数の菌糸が存在しているのです。一輪の愛の花を、一輪の喜びの花を、一輪の平和の花を咲かせるにも、「キリストにとどまる」隠れた日々の歩みが不可欠です。主は私たちに多くの実を結ばせたいと願っておられます。それゆえ、「わたしにとどまりなさい」という主の招きの声をしっかりと心に刻み、私が主のうちにとどまり、主も私のうちにとどまるという、御父と御子に見られた歩みを意味しているのです。これが主の食卓が指し示している事柄なのです。単なる儀式では表し切れない事柄です。

(c)「御父」と「御子」のうちに、とどまることの源泉を見ること

●「とどまる」ということがどういう生き方なのかを知るためのヒントとなる知恵は、旧約聖書の中に散りばめられていますが、その中の一つとして詩篇91篇1節の「全能者の陰に宿る」ということを考えてみることは有益です。「宿る」と訳された「リーン」(לִין)の語彙が意味することは、「全能者の陰」とあるように、それは「隠された場」で、いつも一緒に過ごすということです。「隠れたところ」とは「シークレット・プレイス」(secret place)で、「宿る」とは「神とともに過ごす」ことです。イェシュアが12歳の頃、祭りのためにエルサレムで両親とはぐれてしまいました。その両親に対してイェシュアはこう言われました。「わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49)。両親にはこのイェシュアの語られたことばの意味が理解できなかったようです。12年間も一緒に過ごしてきたにもかかわらずです。イェシュアもそのことについてあえて説明はされませんでした。説明できない事柄です。イェシュアの弟子たちも「目がさえぎられていた」ので、イェシュアの言われることばの中に父を見ることはできなかったようです。私たちも同様ではないでしょうか。

●「シークレット・プレイス」は「力の源泉となる場」です。そこに自覚的に身を置くことが「宿る」(「リーン」לִין)が意味することなのです。そして「宿る」ことが、イェシュアの言う「とどまる」という意味なのです。それゆえ、神殿で教師たちの真ん中にすわって問答しておられるイェシュアの姿を見た人々が、イェシュアの知恵と答えに驚いていたとあります(ルカ2:47)。イェシュアの両親も息子を見て驚きました。その驚きを表す語彙は異なっていますが、いずれにしても目に見える姿ではわからないものなのです。ある局面において、それが現れるのです。ここでのイェシュアの姿こそ「全能者の陰に宿る」者の姿が現わされたと言えます。12歳のイェシュアはそのような御父とのかかわりを保ちながら、18年間隠れた生活をして後、公生涯に入られました。このことを思う時、「とどまる」ことがただ事ではないことが分かります。そのような生活への招きが「主の食卓」とするならば、何と私たちは疎い者かと思わされるのです。 

(d) 主に食卓に与ることは、永遠に生きること

【新改訳2017】ヨハネの福音書6章57~58節
57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

●ここには「生きる」を意味する動詞「ザオー」(ζάω)があります。このギリシア語に相当するヘブル語は「ハーヤー」(חָיָה)です。ちなみに、動詞「ハーヤー」(חָיָה)の初出箇所は創世記3章22節で、「永遠に生きないように」(新改訳)、「永遠に生きる者となる恐れがある」(新共同訳)と否定的・消極的な内容で使われています。善悪の知識の木から取って食べた者はそれと一体となってすでに死んだ者です。神はその死んだ者がいのちの木から勝手に取って食べて永遠に生きることがないように、最初の人アダムとその妻エバをエデンの園から追放しました。その理由は、神の手続きによらなければ、死んだ者は永遠のいのちにあずかることはできないからです。その神の手続きこそ、イェシュアの「受肉からいのちを与える御霊となられる」までの一連の出来事です。つまり、キリストの贖いの一連の出来事なのです。

画像の説明

●しかし今や、イェシュアの贖いの死によって、「最初のアダム」が受け継いできた罪の苦しみと死を完全に終結させてくださり、「新しい契約」をイェシュアは結んでくださいました。「新しい契約」とはエレミヤ書31章31~34節です。この新しい契約に、私たち異邦人もイェシュアにある教会という形で接ぎ木されているのです。

【新改訳2017】エレミヤ書31章31, 33~34節
31 見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」


ベアハリート

●マタイの福音書のテキストに戻りましょう。26章29節のイェシュアのことばです。

わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。

●イェシュアは主の食卓について話した後で、「わたしはあなたがたに言います」と一言付け加えています。しかもイェシュアはここで「天の御国」を「わたしの父の御国」と言い換えています。意味はまったく変わりません。ユダヤ人にとって「天」と「わたしの父」とはイコールだからです。むしろ次のことばが重要です。それは、「あなたがたと新しく飲むその日まで」ということばです。このことばは、過越の食事の最後に飲む杯(※脚注四杯目の杯)のことが背景にあります。その最後の杯をイェシュアは飲まず、むしろイェシュアが王なるメシアとしての宴会が催される日にそれを飲むことを楽しみにしているという意味です。しかし弟子たちは主の食卓によって杯を飲み続ける必要があります。ただしその杯は自分の罪を思い起こすためではなく、罪を赦すために血を一滴残らず注ぎ出してくださった主を思い起こすためです。やがて天の御国において訪れる婚姻の祝宴の希望、このことも今回の「主の食卓」の中に込められた重要なメッセージなのです。

●単に「主の食卓」(聖餐)の儀式に参加するだけでは、形式的ないのちのないものになってしまいます。主の食卓がいのちあるものとなるためには、日々、イェシュアのうちにとどまり、主のパンを食べることで主を知る喜びに与り、やがてメシアの再臨によってもたらされる御国の約束を待ち望んで、永遠のいのちを生きる希求者とならなければならないのです。


※脚注

ユダヤの過越の食事ではぶどう酒が4回注がれます。
それは、出エジプト記6章6~8節を根拠としています。

【新改訳2017】出エジプト記6章6~8節
6 それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは【主】である。
わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う
7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。
8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは【主】である。』」

●四つの杯とは、ここにある4つの動詞に対応しています。過越の食事は儀式です。イェシュアはその儀式を「主の食卓」に変えてしまいました。二杯目の杯が終わったことで、ユダに「あなたがしようとすることをしなさい」と言います。ユダが退席したところで、三杯目のところから、「主の食卓」の制定をしたのです。つまり、
【新改訳2017】マタイの福音書26章26~28節
26 ・・イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。
29 わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、
わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」

●27節の「杯を取り」という部分が三杯目の杯です。四杯目の杯を飲むのは「わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日」です。聖書はこうしたことを詳しく説明していません。


2021.8.29
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